河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その27 幕末「松陰独行」②

2022年10月13日 | 歴史

富田林を旅立って、わずか二か月後に、24歳の吉田松陰が目の当たりにした「黒船来航」は、その後の松陰の人生を大きく変える。
29才で刑に処せられるまでの五年間の半分を、獄舎の中で過ごすことになる。

ベリーは開国を促す親書を幕府に手渡し、「1年後に再来航する」と告げて6月10日に浦賀を去った。
黒船来航を目の当たりにした松陰はどう感じていたのか?
松陰曰く、「天下の大義を述べて、逆夷(=外敵)の罪を征討(=討伐)すべし」。
水戸藩と並んで長州も攘夷(じょうい=外敵を追い払う)思想の強い藩だった。
それも単なる「攘夷」ではなく、「敵愾(てきがい=外敵と戦う)」という過激なもので、
1863年の高杉晋作らによる四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)は、長州藩としては当然の行動だった。

その一方では密航を試みる。佐久間象山の「男子たるもの、できれば海外に遊び、世界の形勢に通じ、以て緊急時の役にたたねばならぬ」の言葉に沿った行動である。
同年7月、ロシア軍官四隻が長崎に来て貿易を求めた。9月、松陰は長崎に向かう。ロシア船に乗って密航するためだ。
「彼を知り己を知るため」である。しかし、長崎に着いた時には、露艦船は出港した後だった。
為すすべ無く松陰はその年の末、江戸に帰る。
ところがすぐに好機が到来する。安政元年正月18日、約束通りペリーが軍艦四隻、汽船三隻を率いて江戸羽根田に侵入して来た。
松陰は弟子の金子重輔とともに小舟に乗って黒船に近づき、渡米を懇願する。
しかし、ペリーは幕府との交渉の妨げになると考え拒絶する。
松陰らはやむなく引き返し自首し、江戸小伝馬町の獄につながれ取り調べを受ける。
幕府の処置は実父の杉百合之助に預けるという寛大なものだったが、幕府を恐れる長州藩は萩城下の野山獄への入牢を命じる。
  かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

春やんが言った「夢なき者に成功なし」という松陰の言葉の詳しくは次のようなものである。
 ――夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし――。
しかし、『松陰全集 全10巻』のどこにも見当たらないそうだ。それに、「理想」のような抽象的熟語が使われるのは明治時代以降のことだ。どうやら眉唾物なのだが、よく似た言葉がある。
〇遊学を許されて富田林に来た24歳の時、藩主毛利敬親への手紙の中に(一部省略)、
 ――「誠」の一字、三大義あり。一に曰(いわ)く実(じつ)なり。二に曰く一(いつ)なり。三に曰く久(きゅう)なり――。
 (「誠」を実現するためには、実(実行)、一(専一=一つのことに没頭する)、久(継続)の三つが大切である)
〇あるいは、17歳の時、学友が九州に医学修業に旅立つ時に贈った(一部省略)、
 ――業の成ると成らざるは、志の立つと立たざるとに在るのみ。故に士たる者はその志を立てざるべからず――。
 (学業・仕事が成し遂げられるかられないかは、志を立てるか立てないかだ。故に志を必ず立てよ)
〇獄舎の中で友人に出した手紙である(一部現代語に)。
 ――たとえ獄中にありとも敵愾(てきがい=外敵を成敗する)の心一日として忘るべからず。もし敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋(せっさ)怠るべきに非ず――。

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