河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その26 幕末「松陰一人旅」①

2022年10月08日 | 歴史

 受験まであと二か月に迫った頃だった。離れの自室で勉強をしていた。
 11月の半ばだったが、ぽかぽかと暖かかったので窓を開け放していた。するとそこへ春やんが骸骨のような顔をにゅうっと出した。少しどきりとした。
 親に用事があって来たのだろう。用事が終わってそのまま裏から回って来たのだ。
 「勉強か? しっかりやりや!」
 そう言って、めずらしく帰ろうとしたのだが、振り返って、
 「ええ言葉教えたろ。ちょっと紙と鉛筆かして」
 手渡すと春やんが紙に「至誠而不動者未之有也」と書いた。
 「至誠にして動かざる者、未だ之(これ)有らざるなりと読むんや。誠を尽くせば、人は必ず心動かされる。一所懸命にやれば物事は叶うという意味や。頑張りや」
 そう言って帰ろうとしたのだが、また振り返って、
 「誰の言葉か知ってるか?」
 知らなかったので首をかしげると、
 「松下村塾で、高杉晋作や伊藤博文を教えた人や?」
 やっとわかって「吉田松陰」と言うと、
 「そうや、松陰みたいに偉なるように、頑張りや」
 そう言って帰ろうとしたのだが、またまた振り返って、
 「吉田松陰が富田林に来たの知ってるか?」
 「ほんまかいな」というと、「おっ、くいついてきよった」とばかりに春やんが話し出した。

 ところが、その話が長かった。おまけにいくら経っても「富田林」という言葉がなかなか出てこない。
 そこで、何をもとにして春やんが話したのか調べてみると、吉田松陰の日記が残っていた。
 以下は、その日記をもとに春やんの話を再構築したものである。
 ※吉田松陰=江戸時代後期の長州藩士、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者。「松下村塾(下の写真)」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。

嘉永4年(1851年)、参勤交代に同行した松陰は、親友の宮部鼎蔵[池田屋事件で自刀]と水戸学や海防などの勉強を目的とした東北の旅を計画する。ところが、藩からの通行手形(身分証明書)が届かない。
そこで松陰は当時重罪であった脱藩を実行する。松陰にとっては友との約束を守る方が重要だった。
そんな松陰の才を惜しんだ藩主は謹慎処分を命じただけで、一年も経たないうちに脱藩の罪を許し、さらに、十年間の国内遊学の許可を与えている。
そこで松陰は江戸に向かった。24歳であった。
松蔭が長州の萩を立ったのは、嘉永6年(1853)正月26日。大阪に着いたのは2月10日だった。
翌11日、大塩平八郎の乱を砲撃によって鎮圧したことで有名だった坂本鉱之助を訪ねる。

以下は松陰が残した日記(漢文)を24歳の吉田松陰になったつもりで訳したものである。意味不明には(?)をつけた。
※原文は『吉田松陰全集』の中にある「発丑遊歴目録(選者が命名)」

2月12日 晴 
朝8時に船から出て陸に上がる。大和の五條に行き、森田節斎先生[頼山陽の高弟、江戸昌平興にも学んだ学者]にお会いしに行く。
大阪には高津神社(上の図)が有った。仁徳天皇をまつっているというので参拝する。高台に建っていて遠望はとても良い。
四天王寺の傍らを過ぎ、河堀口(こぼれぐち)に出て河内の国に入る。
平野に着く。戸数1800、代官の平野図書守居為(?ひらのずしょのかみおりため)が12万石を領している。
大和川があった。大和から流れているのでこの名がつく。通常は水が少ないので板を橋にしている。川幅は216m。両側に堤を築き、柳を植えていて、かなり古いものもあった。川の中は平らな砂地だが、ちょっとした雨でも大水になるという。
藤井寺に着く。藤井寺は一大伽藍(がらん)の大きな寺なので、寺の名を地名にしている。
野中古市[羽曳野市]の二つの村を通過すると再び大和川[支流の石川]。この辺りは代官の設楽(したら)八三郎が治めている。代官所は大阪の鈴木町[現久宝寺町]にあるので、諸村から馬で行き来している。
竹ノ内街道を通って春日(かすが=太子町)に着く。ここまでなんと七里[4k×7]。ずうっと平地で麦畑がはてしなく続いていた。
とはいえ、この地では綿も多く植えている。家々ではキシキシと機織機(はたおりき)をきしませている。下機(しもはた)という機織機の類で、機に向かって腰を落とし、両脚をなげだして織っている。出来上がるのがいわゆる「河内縞」だ。

大きな峠がある。「竹内越え」という。峠の下は山田村で、峠の向こうは葛下郡の竹内村。大和と河内の境である。今日泊まる竹内から春日までは一里[4k]ほど。
竹内および他五村は旗本の桑山鎮之允が領する所である。二千石、戸数百五十。この一日を詩にすると、
 一日三州(摂津・河内・大和)の路を踏破す
 摂を出(い)で河を経て大倭(やまと)に入る
 菜の葉、麦の芽、空に接して緑
 一望澹々(たんたん=静か)として春は正に和やかなり
所どころに道標がいくつもあるのが目につく。吉野、金剛、または當麻と。夜は雨。

②につづく

※図は『浪華名所図』大阪市立図書館デジタルアーカイブ

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