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河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

俄38 / 子ども俄2024

2024年10月30日 | 祭と河内にわか

九月の末に、こども会から、俄を作って教えてもらえませんかと依頼があった。
子ども俄は、うちの息子が演じて以来だから25年ぶりになる。
しかも、祭りまで一ヶ月もない。
俄なんて、その名の通りすぐに出来るだろうという感覚らしい。
「それで、出演者はどんなメンバー?」
「とりあえず、男女2名ずつくらいで」
「とりあえず……では、台本を書かれへんがな!」
毎年続けていないと、俄がどういうものか分かっていない人間が増えて来る。
「もっと早く、夏休み頃に言うてきてーな」とぼやきつつも承諾。

その日の夜に、6年生の男子2名でお願いしますとメールがあった。
2名のやりとりは漫才になりやすい。
十年ほど前に大人2名用のを書いたのがあったので、そいつを子供用にリメークして、次の日に渡した。
すると、その夜に年長の男の子が出演したいと言って来たとメール。
「おいおい! 俄をなめてたらあかんで!」
どうしようと悩んでいたら、年長の子の弟も出たいと言っているとメール。
「あのなあ、ええかげんにしいや」
という次第で出来た俄である。
着物にちょん髷という河内俄の本来の型にした。

川面の昔話より 「孫 八 と 源 助」

  左手から、釣り竿を持った孫八が登場。川を見渡して、このへんでいいと納得して、竿を出して釣り始める。
  右手から源助が偉そうに登場。あたりをぐるりと見て
源助  ああー、暇やなあ。誰ぞ、おちょくって、暇つぶしたろ。遊べるような奴はおらんかなあ。
   (孫八に気づき)
    おお、ええ具合に、幼なじみの孫八が釣りしとるがな。
   (そばに近寄り、後ろから)
    こーら、孫八!
孫八  (独り言のように) わっ、わしの一番嫌いな源助やがな。
源助  何しとんねん?。
孫八  何しとんねんて、釣ってんねん。
源助  そんなん見たら分かるわい。何、釣ってるねん?
孫八  何釣ってんねんて……、
     (しばし考え込んで、一人合点して、独り言のように)
    そや、今日は逆にギャフンといわしたろ。
     (得意げに)
    何釣ってんねんて……カッパや。
源助  はあ! カッパ?
孫八  カッパや!
源助  カッパて……、雨の日に着る合羽かい?
孫八  あんだら、川にいるカッパじゃ。
源助  頭に皿のせた奴かいな?
孫八  そや、頭に皿のせたカッパや。
源助  (あきれたように) そんなん釣れんのかいな?
孫八  釣れんのかいて、釣れるさかいに釣ってんのやないかい!
源助  ほほー、エサはなんやねん?
孫八  エサはキュウリや。
源助  キュウリ? そないいうたらどっかで聞いたことあるがな。ほんで釣れたんかい? 見せ
    てみ!
孫八  今日はあかん。近頃は、カッパも贅沢になりくさって、キュウリでは釣れんようになった。
源助  ほほー、カッパの釣れたのを見たいもんや。エサは何あったら釣れるねん?。
孫八  (しばし考えて) そやなあ、松阪牛(うし)か。
源助  松阪牛?
孫八  言うとくで、松阪牛でも霜降りの上等なんでないとあかん。
源助  贅沢なやっちゃな。うちでは毎日、松阪牛のすき焼きや。明日、持って来たるさかいに、 
    カッパ釣るのを見せてくれるか?
孫八 わかってるわい。
    竿をかついで、左手に引っ込むときに、 あっかんべーする 
源助 明日は楽しみやなあ。
     右手にひっこむ
  ………………
     小太鼓トコトン。拍子木がチョン
     左手から竿を持った孫八
     右手から肉の塊を持った源助 登場

源助  さあ、松阪牛、持ってきたで。カッパ釣るのを見せてもらおか!
     肉を差し出す
孫八  おお持って来たか。ほな、この肉は、わしがもらうで!
源助  かまへん、かまへん! ほれ、カッパのエサや!
孫八  ほな、したくが終わるまで、ちょっと待っててくれるか。
     左手を向いて準備。肉の塊をつけるふりをして、大きな石をくくりつける。
    さあ、準備はでけた。
     立ち上がり、客席に向かって、源助に見えないように、石を川に投げ込む。
        大太鼓 ドコドン。
    さあ、ええか、カッパはデリケートやさかいに静かにしとけよ。
源助  わかつてるわい。
     しばらく黙って釣ってる。
源助  どや、釣れるか?
孫八  シー。
     また、しばらく沈黙
源助  まだか?
孫八  シー。
     また、しばらく沈黙
源助  どや!まだ釣れへんのか?
孫八  静かにしとけ言うてるやろ!
源助  そやかて、早く、カッパ見たいがな!
     左手からカッパの二人が登場。しゃがんで、じーっと竿を見ている二人の後ろに立つ。
カッパ おっちゃん……なに釣ってるねん? 
孫八  カッパや!
カッパ そんなとこにカッパはいてないよ!
源助  子どもはだまっとけ!
     カッパが右手に引っ込むときに、
カッパ アホなおっさんらやなあ!
     二人に向かってアッカンベーして引っ込む。
源助  おいおい、まだ釣れへんのかいな!
孫八  そないやかまし言うたら、釣れるものも釣れるかい! やめや。今日はあかんわ!
     竿をあげると大きな石。
源助  なんやそれは、石やないかい。肉はどないした?
孫八  肉はここにあるがな。
源助  返せ!
孫八  何言うとんねん。最初に言うたやろ。「この肉はわしがもらう」と、そしたら、おまえが
    「かまへん、かまへん」と言うたやないかい。
源助  だましやがったな!
     カッパが出てきて真ん中に立つ。
孫八  わしがだましたとちがう! このカッパと松阪牛でなにもできんようになったんや。
     カッパが肉を前に差し出す
源助  カッパと松阪牛で、なにもできんようになったとは、はて?。
孫八  はて?
源助  はーて! わかったわい!。
孫八  陸に上がったカッパが持った
源助  にっくき松坂牛に
全員  ギューといわされたわい!

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俄37 / 俄ごっこ

2024年10月08日 | 祭と河内にわか

若いころ、祭で俄をすることになったとき、村のお年寄りに、「しっかり遊んどいで」と言われた。
俄は演劇の一種だが、「演じる」のではなく、「遊ぶ」なのだ。
子どもたちが、輪にしたヒモの中に入り、電車にみたてて「出発! ガッタンゴットン・・○○駅です」とやる電車ごっこ。
お母さんやお父さんになったつもりで「行ってらっしゃい」「ただいま」「ご飯が出来たよ」とやるままごとなどの「ごっこ遊び」と「にわか」は同じなのだ。
子どもは、たんに、「何かにみたてる」「何かになったつもり」「何かをしたつもり」を繰り返し楽しんでいるだけで、演じるという気持はない。
それでも、子どもが楽しく遊んでいるのを見ると、見ている大人も楽しくなる。
俄は自分だけでなく、見ている人も楽しくさせる遊びなのだ。
俄の命は〈遊戯性〉にある。

宴会のかくし芸用に一人俄をいくつか紹介しておく。
俄は遊びだから、ものおじせずに楽しくどうぞ。

【魚屋】わしは、このあたりに住んでいる、魚屋や。今朝、市場から魚を仕入れてきた。〔魚を手に取り〕おお、うまそうな魚、良い、アジじゃ。〔別の魚を手に取り〕この魚は、えらい柔らかい。フニャやなあ。〔別の魚を手に取り〕はて? この魚は以前どこかで見たことがある。はて! わかった。久しブリじゃ

【暑い】
  扇を持って出る。
「今日は、厚いもてなしをしていただき、たらふく酒をいただき、えらい酔うてしもた。そのせいか、暑うて、暑うて辛抱できん」
  手ぬぐいで汗を拭き、扇を取り出し、せわしく扇ぐ。
「こうして扇ぐと、少しは涼しくなるが。しんどうて、骨が折れる。おまけに、肝心かなめの酒の酔いが、覚めてしもたがな。おおぎな損や」
  扇ぐのを止め、扇をたたむ。
「もう、あおぐことは扇子としよ」

【捨て鉢】
 扇を広げて、皿を持っている仕草で出て来る。
「ああ、えらいことしてしもた。ご隠居さんの米寿のお祝いというので、鯛の焼いたんを鉢にのせて持っていってくれと、旦那さんに頼まれて出て来たんやけど、道でこけて鉢が欠けてしもた。こんなん持って行くわけにはいかし、かというて、往んだら、旦那さんにお目玉くらう。旦那さんの目玉は、鯛の目玉食らうよりもむないがな。ええーいままよ。
 扇(皿)を投げ捨てる。
「こんなん捨てて、往んでこませ。鯛の鉢は欠け捨てじゃ。(旅の恥はかき捨て)

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俄36 / 台本にない笑い

2024年10月04日 | 祭と河内にわか

江戸時代に書かれた『古今俄選』にある俄の技法をいくつか紹介する。※は筆者注。
【あぶら】俄の最初から終わりまで、出放題で言葉で引っ張ることだ。
※理屈の通らないことを次から次へと連発(出放題)すること。やすきよの漫才のようなものだろう。
【なえこ】おかしみを出すために、下をなやして言葉を遣うこと。
※「なやす」とは「力を抜く」ことで、阿呆のような間の抜けたしゃべり方をすること。藤山寛美の「あほぼん」のしゃべり方だ。
【でたらめ】はだかにて出る俄に多し。
※「はだか」とは文字通りの「裸」の意もあるだろうが、役柄として演じず、地のまんまのこと、アドリブだろう。

以上を踏まえたうえで、次の【俄の稽古の事】を読んでいただきたい。
  座敷で充分に稽古をして出演すれば「でたらめ」もよく効いて面白い。稽古が不足している時は、「あぶら」がやりにくい。
俄は即興芝居だが台本はある。その台本で充分に稽古をしてこそ、本番の時にアドリブが出てくる。あるいは稽古をしている最中にアドリブが生まれることもある。この〈アドリブ=でたらめ〉が俄の〈即興性〉であり、〈ボケ=とぼける〉となって笑いにつながっていく。俄の笑いは、台本にない笑いである。
そして、このボケによって、観客は〈ばからしさ=愚〉を感じ、〈滑稽=雅趣(味わい)〉が生まれるのである。

古今二和歌集』で倉腕家淀川は言う「昔の俄は下手なれども、理屈に縛られず、愚なるようなるところに雅趣あるを美とするのみ」
風流俄天狗』で村上杜陵は「ボケこそが俄の最も大事なことだ。よって、その役に医者の気持ち、師直の気持ち、俄を演じる者の気持ち、姿、言葉を、三つに分かつを極意とする」と述べている。
風流俄選」で月亭正瀬が言う「名人達のニワカを見ていると、どんな役柄をしても、少し笑みを浮かべてセリフを言う。これでこそニワカの情深く、風流を離れず、実に滑稽である」

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俄35 / 聖なる俄

2024年01月21日 | 祭と河内にわか

「俄」は、地域共同体のメンバーが他のメンバーを相手に、地域共同体の皆に演じる祝福芸である。
俄の面白さは〈素人性〉と〈方言性〉という〈土着性〉にある。

:おい、八兵衛!
:なんじゃい?
:われとこの嫁はんのお六さん、このごろ太ったんとちゃうか!
:ええ? さよか?
:ええもんばっかし食わしてたらあかんで!
:ええもんみたい食わしとるかい!
:せやけど、腹がえらい膨れてきよったと、ここらのもんが言うとるで!
:ちゃうがな、子ぉーでけたんや。
:ええ、どこでこーろげたんや?
:転ろげたんやなしに、子が出来よったんやがな。
:ええ、八とお六がエエことしてお三(産)かいな!
:ややこしものの言いよさらすな!
:ややこしいけど、ややこ欲しいやろ!
:またニワカ(駄洒落)かい!
:ええもん食わしたり。
:われ、先っきええもん食わすな言うたやないかい。
:それとこれとは話は別っちゃ。これ食わしたり。
:なんやそれ、ウメとアンズの実やないかい?
:これで安産まちがい無っしゃ!
:ウメとアンズで安産まちい無しとは? ハテ?
:アンズよりウメが安いや!
(案ずるより産むがやすし)

俄の本質には、その場限りの〈一回性〉、何が起こるかわからない〈意外性〉、それを切り抜ける〈即興性〉、笑いで吹き飛ばす〈滑稽性〉、良くも悪くも良しとする〈遊戯性〉、最後にすべてを納得させる〈饗宴性〉、より良かれを神仏に祈る〈神事性〉がある。
そんな俄を・・・、神社合祀によって臣民に国家の精神を高揚させる場となり、しかも、楠公遺跡の神聖な神社聖地となった神社で奉納するとなれば、どのような俄をすればよいのか。
俄の〈本質〉の多くが、戦争に向かう中で、少しずつそぎ取られ、封じ込められていく。
そうしなければ村の住民に恥をかかせることになる。
そうならないためには、すでに世間で認知されているものを演じるのが手っ取り早い。

歌舞伎「勢州阿漕浦(せいしゅうあこぎがうら)」の俄

 庄屋の彦作が、病気の母親のために禁漁を犯した平治の住み家に来る
彦作 いるか? 
平治 (戸を開けて)これは庄屋様、朝の早くから、いかなるご用か?
彦作 平治どんに、ちょっとたずねたい。昨日の夕べに、阿漕浦に行てはおらぬか?
平治 何を申されまするる。阿漕浦は帝の祖先を御まつりする大神宮の漁場にて、我々臣民は、近寄ることすらできませぬわい。
彦作 ふーん、貴様は知るまいが、その大切な殺生禁断の場所へ、夜な夜な網を入れる者が有りて、夕べとらえようとした時、つい取り逃がし、そのとき笠が有ったげな。その笠に「平」の字と書いてあった。ひょっと此方(こなた)ではあるまいか。此方が変な顔しても、これに言い抜けはあるまい。
女房 うちの人に限って網を打つなどする人やない。わたしらを奈落の底へ落とす気かえ。
平治 あばらやなれども平治が住み家。畏れもおおき大神宮様の漁場に網打ったとは聞きづてならん。踏み込んだが最後、そのままにはおかぬ。女房、腰の物(刀)持って来い。
女房 はい。 ※平治に暦を渡す。
平治 この暦で腰の物とは。はて?。
彦作 はて?
平治 はてわかった! この中に大小があるわい。
 (大の月と小の月がある)

日々の生活の中で演じられた素朴な河内俄は、いかにも高尚な地歌舞伎、地芝居になっていく。

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俄34 / 大楠公

2024年01月20日 | 祭と河内にわか

楠木正成が、多くの人々に親しまれるようになったのは、江戸時代初期、南北朝の争乱を描いた『太平記』の注釈書『太平記評判秘伝理尽紗』が成立してからだ。
大名・武士・儒学者にとって正成は、理想の政治家・指導者、兵学者だった。
やがて、この『太平記評判秘伝理尽砂』を台本にした「太平記読み」が民衆にも広まり、17世紀後半には講談に発展する。
民衆にとっての正成は、天皇に尽くす忠臣ではなく、権力に対して反逆し、強きをくじき弱気を助ける正義の味方だった。
反体制のシンボルとして、由比正雪や大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりとして歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなった。

この楠公像が一転したのは、『大日本史』を編集した徳川光圀が、1692年、湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立してからだ。
その後、水戸藩士の会沢正志斎が『新論』を著し、万世一系の国の形(国体)を説いて、楠木正成を神として祀ることを主張した。
殊に吉田松陰が信奉したことにより、幕末の志士や明治の政治家の間にも、楠公崇拝が広がってゆく。
明治になり、その崇拝を目に見えるものにするために楠公遺跡が整備される。
明治5年(1872) 湊川神社創建
明治7年(1874) 千早城址の社殿を修復
明治11年(1878) 楠公誕生地碑が建立
明治12年(1879) 千早城址の社殿を千早神社と改称
明治13年(1880) 観心寺の楠公首塚の修理

近鉄富田林駅前に大きな石の碑がある。
「楠氏遺跡里程標」と大書され「明治三十四年十一月建 楠氏紀勝會」とある。
明治31年に河陽鉄道の古市-富田林間が開業し、富田林駅が楠公遺蹟めぐりの出発地になった。
楠公遺蹟を持つ地元の人々の間にも関心が高まり、人々を遺蹟に向かわせる動きが始まった。
明治31年(1898) 河陽鉄道が古市-富田林を開業
明治33年(1900) 皇居外苑に大楠公馬上像完成
明治34年(1901) 富田林駅に「楠子遺跡里程標」建立
明治35年(1902) 河南鉄道長野線開業
明治36年(1903) 『楠氏遺蹟志』発刊、楠公遺蹟めぐりを奨励
明治37年(1904) 富田林中学(現富田林高校)で5/25に楠公祭、日露戦争
明治38年(1905) 小学校で楠公追慕式が始まる

『楠氏遺蹟志』の序は次のようにいう。
 忠に励み、孝を重んずるは、国民の大道なり。国危うして忠臣顕(あら)われ、家貧しうして孝子を出だす。
強きをくじき弱気を助ける庶民のヒーローだった大楠公楠正成は、忠臣として神格化され、忠孝の模範として国民に崇められるようになっていく。
千早赤坂の建水分神社(たけみくまりじんじゃ=上水分社)は、楠正成の産土神(うぶすなかみ)である。
喜志の美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ=下水分社)もまた、楠正成と浅からぬ関係がある。
神社合祀によって、神社は宗教施設ではなく、臣民に国家の精神を高揚させる施設に変貌した。
そのうえ、楠正成に関わりのある神社仏閣は楠公遺跡の聖地として変貌した。
そして、秋祭りの宮入りで奉納するようになった河内俄もまた変貌していく。

※豊原國周 筆『地名十二ヶ月之内 九月 楠正成 市川右團次』明治15 [1882]. 国立国会図書館デジタルコレクション 

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