今年こそ満開の桜を観に来いよと、備前の国に家を持つ友人が誘ってくれた。
予報では26日が開花で、満開は四月の上旬。
だが、四月は何かと所用があり日程が合わない。
ならば、満開の桜は諦めて、せめて天気の良い日にと思い、三月の下旬に備前の旅に出ることになった。
弥生も末の七日。
昼前に、友人が堺の実家から車で迎えに来てくれた。
備前の土産にと用意していたキャベツやレタスの苗を積み、いつも通り西国街道(山陽路)をひた走る。
途中、明石の宿で弁当を買おうとするも、昼遅く、お握り二個と沢庵の入った弁当しかない。
まあ、播磨の国の美味しい米を食すのも悪くはあるまいと購入する。
ベンチに座って弁当に張られたシールを見る。
播磨の米のはずだと思って買ったのに、製造は「京都府城陽市」とある。備前の旅は「~のはずなのに」が、なぜかよくある。
桜が咲いているはずなのに……散っていた。
雲海を見ることができるはずなのに……霧が深すぎて見えない。
日帰り温泉に入ることができるはずなのに……定休日であった。
などなどと、とことん裏切られてきた。
今回も、なんとなく幸先がよくない。
まあよかろうと、京都にいるつもりで握りをほおばる。
相生でバイパスを下り、赤穂の「有年」というという地に入る。
備前の旅は今回で六度目で、その都度友人になんと読むのか尋ねるのだが覚えられない。。
ひたすらハンドルを握っている友人が、その質問は聞き飽きたという調子で「うね」と答える。
畑で土を盛り上げて作る畝(うね)の意味で、小高い山々が続いているので名付けられたという。
和同6年(713年)に発せられた好事二字令(地名は漢字二字に統一せよという勅令)によるものだろう。
しかし、なぜ、こんなまぎらわしい漢字を当てたのだろうか?
友人の親戚にあたる源左衛門という人が、沖田という古風な村の村長をしていて、家を新築したので見に行くことになった。
行ってみて驚いた。
古風どころか弥生時代後期とみられる竪穴住居がいくつもある。
その中のひときわ目立つ真新しい住居から、80歳を超えたかと思われる源左衛門さんが出て来た。
「ようおいでくれやました。お茶でも飲んでいってくれてや!」とおっしゃるので、家の中に入る。
地面を掘っただけの囲炉裏があって、大きな鍋が吊るしてあり、ぐらぐらと湯が湧いている。
急須に日本茶を淹れるのだろうと思っていたら、源左衛門さんはドリッパーを持ってきて、コーヒーを淹れてくれた。
まだ咲きかけの桜の木の下で、竪穴住居や高床式倉庫を眺めながら熱いコーヒーをすする。
うららかな春陽を受けて、今は古代なのか現代なのか、頭がぼぉーっとしてくる。
何千年もの年を有して、こんな生活があるのだろう……。
「うね」という地名に「有年」という漢字を当てた意味が、ようやく解った。
「往(い)にに、また寄ってくれてや。そんころには桜が満開やろ」という源左衛門さんの言葉をあとにして有年の地を離れた。
※②に続く