河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その27 幕末「松陰独行」①

2022年10月12日 | 歴史

若き吉田松陰の探求心、行動力には感心する。何が松陰をそこまで突き動かしているのか。今しばし松陰の話。
4月1日に富田林を立った後の吉田松陰の行動である。
松陰はまず大阪へ行き、再び大和の五條に赴いてしばらく逗留している。その後、八木、奈良、伊勢へ向かって、江戸に着いたのは6月1日だった。

6月1日 晴
鎌倉を出発して、来た道を通って江戸に入る。長原武の家の前を通り鳥山家に宿る。すでに夜になっていた。
6月3日 晴
佐久間修理(しゅり=佐久間象山)先生を訪ねる。近澤啓蔵が来る。
6月4日 晴
渡辺春汀を訪ねるが不在。麻布藩邸に行き工藤・新山に逢う。桜田藩邸に帰り、道家竜助と逢って辺警(外敵が国内に侵入)があったことを聞く。
すぐに佐久間塾に行くが、塾生は皆、今朝方に浦賀に行って誰もいなかった。藩邸に帰り、支度をして急いで浦賀に出発した(原文=還急発焉)。

松陰が江戸に着いた二日後の嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が日本に来航した。いわゆる黒船来航である。
松陰はこの事件を一日遅れで耳にする。日本を揺るがす大事件なのだが、松陰の日記はえらくあっさりしている。
最後の「還急発焉」の大胆な省略でもわかるとおり、慌てていた。そこで、日記のすぐ後に詳しい事を付記している。

6月4日
浦賀には外敵が次々と侵入して来た。私はその時、佐久間塾で客と兵書を論じ合っていた。
事件の報告を聞くと、すぐに書を投げ捨て立ち上がり、袂(たもと)をひるがえして外に出た。浦賀に駆けつけよう。
(しかし)時はすでに夜。鉄砲洲(隅田川河口にあった港)に行き、船に乗る。しかし、風がなかなか吹いてこないので、船を出すことができない。
旅館で数時間休んでいると、午前4時頃にようやく船が出た。
いくばくか船が進んだ時、船灯(提灯か?)に「会」の字を書いた船にたまたま出会った。
櫓をこぐ音をキシキシとさせて来る。思うに房総半島の会津陣営の船だろう(原文=蓋房総会津営)。江戸に事態を知らせにいくのにちがいない。
すでに夜は明けていた。向かい風、向い潮になってしまい、午前10時頃、ようやく品川に着くことができた。

いたし方なく陸に上がり疾歩(速足)した。
【松陰補筆】たまたま砲声が聞こえたので耳をすました。大森での演習であった。しだいに音を大きくして、民衆の英気を奮起させているのだ。太鼓を撃つ音を聞き、指導者の才に感じいった。
川崎神奈川を経て保土谷に着く。左に折れて金沢の野島に着く。【松陰補筆】野島は船が集まる所で、交通の要所にしている。
船に乗り大津に着く。行程三里(12k)。
猿島(=横須賀沖の無人島)の陰に灯をともした船が列をなし、その数のなんと多いことか。思うに、船を配備して不慮の事態に備えているのだろう。
すぐに浦賀に着いた。夜の9時半だった。住民には甚だ憂いの色はあったものの、騒ぎ立てる様子はまったくなかった。
佐久間象山先生もまた門下生の中尾定次郎らを率いて昨夜来ていた。
賊は「官を要求(=幕府との会見か?)している」という。
この次に浦賀に来ても、禍(わざわい)をする意思は持ってはいないようだ。どうか警護船に禍の無きことを願う。
鎮守府(海軍)の奉行も賊の意に従い、本日四日の何時にか賊が上陸しても、奉行は知らぬふりをし、禁じることはなかった。

松陰はまる一日かけて浦賀に到着した。
この後、日記には黒船の装備や日本側の対応などを細々と記録している。そのことは様々なところに書かれているので割愛する。
ただ、この時の松陰の心情を知りたいのだが、松陰はほとんど心情を書かない。
先の「松陰一人旅」の中でも唯一、五條で森田節斎と初めて会って一晩語り明かした時の「快甚(快なること甚だし)」のみだ。
あとは漢詩からうかがい知ることができるだけ。
今回の記事の中では「請勿以警衛船為(請う警衛船を以って為すこと勿れ)」か。
もちろん、松陰も「日記」とはしていないのでメモ・記録、「備忘録」なのだろう。

②につづく

※黒船の図はARC浮世絵ポータルデータベース

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