天誅組が代官所を襲撃したのは午後4時ごろ。
五條代官所の座敷には、代官の鈴木源内と妻のやえ、取次役の木村裕二郎。
そして、病み上がりの源内に按摩をしていた嘉吉という男がいた。
「ああ、嘉吉、もうよい。ずいぶんと楽になったわい。そなたは名人じゃ」
「めっそうもございません。そこらの田舎按摩でございます」
その時、遠くでドドンドンドンと太鼓の音。
「木村、なんじゃ、あの太鼓は?」
「秋祭りが近いゆえ、村人が俄の稽古をしているのでございましょう」
しばらくして、表門の方で鉄砲の音が一発、二発・・・。
刀を抜いた役人が「代官様。天誅組と申す者たちが攻めてまいりました。ご用意を!」
源内は奥座敷へと逃げる。嘉吉は羽織を頭からかぶって震えている。木村は刀の柄に手をかけて庭に出た。
役人が四、五人座敷に逃げて来た。その後ろから天誅組の池内源太が追って来て、役人二人を切り伏せ、奥に逃げていく役人を追って行く。
木村は後から来た天誅組の同志に四方を囲まれにらみ合っている。
その時、奥座敷から阿鼻叫喚に交じって「鈴木源内、討ち取った」の声。
それを聞いた木村はニ、三人を切って浅手をおわせ、そのすきに裏手へと逃げていった。
後に残った嘉吉を同志が見つけ「奸臣め、覚悟せよ」
嘉吉は手を合わせて「私は、按摩の、按摩の・・・」と言うところを、
「問答無用」と一人の同志が一太刀で嘉吉を切り倒した。
一時間もせんうちに、代官所の役人十数名は捕らえられて制圧は完了や。
代官所を焼き払って、北東へ200メートルほど離れた桜井寺に本陣を構えよった。
さあ、これで天皇の大和行幸がされ、一気に討幕に向かえば、天誅組は明治維新の立役者やが、
やが、やがやがやがや・・・。
桜井の本陣で天誅組の面々が、昼の疲れもあってぐっすりと眠っている頃、京都ではどえらいことが起こってた。
8月18日の午前1時頃から、京都守護職[松平容保(かたもり)]や京都所司代[稲葉正邦]が指揮する会津・淀藩の兵が続々と御所に入って守りを固めた。
そのあとから、薩摩藩の兵に護衛されて主だった公家さんが入っていく。
午前4時ごろ、ドカーンと警備完了の号砲が鳴り響くと、御所の門は一斉に閉じられた。
公武合体派の薩摩藩と会津藩が連合して、討幕派の長州藩を絞め出しよったんや。
そいでもって、朝の早よから会議を開き、長州藩や三条実美らの過激な公家さんを京都から追い出すことを決めよった。
当然のことながら天皇の大和行幸も延期が決定さた[8月18日の政変]。
大和行幸(=討幕の出陣)があればこそ五條代官所襲撃の大義名分が立つんやが、それがなくなった。
18日の朝、天誅組はまだそのことを知らん。それどころか、五條、大和高田、十津川の尊皇攘夷派が次々と集まって来ていた。
桜井寺の本陣に「五条御政府」の看板を掲げた昼過ぎに、ようやく政変の知らせが届いた。
維新の立役者が一日にして政敵、朝敵になってしもうた。
不条理とはまさしくこのこっちゃ。思い通りにはならんもんや・・・。
(高取町ホームページより借用)
しかし、大義名分を失った天誅組がこれでバラバラになると思いきや、逆に奮い立ちよった。
それならば、自分たちだけで幕府を倒そう。
やがて奈良・三重・和歌山の幕府軍が攻めてくるに違いない。
その兵に立ち向かうために、まずは5キロほど離れた高取城(高市郡高取町)を奪い取ろう!
ところがや、高取城というのは日本三大山城と言われるほどの城や。
徳川家康に付いていたんで、豊臣方の石田三成が攻めたんやが落とせなかったという城や。
案の定、8月26日に天誅組は攻めたんやが鉄砲攻撃を受けて失敗や。
その後一ケ月ほど転戦するのやが、多くは戦死か囚われの身となってしもうた。
春やんは泣きそうな顔であかね色した空を見上げた。
「春やん、えらい寂しい話やなあ・・・」
「寂しいことあるかい。天誅組は討幕の目的を果たせんかったが、四年後に幕府は倒され、明治という新しい時代がきたんや」
「あの時、とばっちりを受けた按摩の嘉吉という人はどないなったんや?」
「次の日に町年寄りから話を聞いた天誅組は、過ちを反省して奥さんに丁寧に謝り、葬式代として米五斗と五両を渡したそうや」
「ふーん・・・」
「嫌なことや辛いこともあるが、いずれええことになる。そうならんとしても、何にもなかったと思えるようになる」
そう言って春やん、用事があったのだろう。我が家の中に入って行った。
★ ★ ★
それから何日か経って、担任のコガキが盲腸で学校の近くにある診療所に入院した。
私はテンチュウが下ったのだと思った。
二週間ほどしてコガキは退院してきた。
入院中に、「これを飲めば元気になる」とある保護者から鯉の生き血を見舞にもらったと嬉しそうに話していた。
家に帰ってオカンに「鯉の生き血って病気に効くんか?」とたずねると、
「そんなん効かへんやろ」と笑っていた。
あとで聞いた話だが、鯉の生き血を持って行ったのはうちのオカンだった。
春やんが石川で釣ってきた鯉をオカンがさばいて生き血を取り、見舞にしたのだ。
「命の痛みを知れ」という怖ろしい見舞だった。