河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史28 幕末――テンチュウ③

2022年11月24日 | 歴史

天誅組が代官所を襲撃したのは午後4時ごろ。
五條代官所の座敷には、代官の鈴木源内と妻のやえ、取次役の木村裕二郎。
そして、病み上がりの源内に按摩をしていた嘉吉という男がいた。
「ああ、嘉吉、もうよい。ずいぶんと楽になったわい。そなたは名人じゃ」
「めっそうもございません。そこらの田舎按摩でございます」
その時、遠くでドドンドンドンと太鼓の音。
「木村、なんじゃ、あの太鼓は?」
「秋祭りが近いゆえ、村人が俄の稽古をしているのでございましょう」
しばらくして、表門の方で鉄砲の音が一発、二発・・・。
刀を抜いた役人が「代官様。天誅組と申す者たちが攻めてまいりました。ご用意を!」
源内は奥座敷へと逃げる。嘉吉は羽織を頭からかぶって震えている。木村は刀の柄に手をかけて庭に出た。
役人が四、五人座敷に逃げて来た。その後ろから天誅組の池内源太が追って来て、役人二人を切り伏せ、奥に逃げていく役人を追って行く。
木村は後から来た天誅組の同志に四方を囲まれにらみ合っている。
その時、奥座敷から阿鼻叫喚に交じって「鈴木源内、討ち取った」の声。
それを聞いた木村はニ、三人を切って浅手をおわせ、そのすきに裏手へと逃げていった。
後に残った嘉吉を同志が見つけ「奸臣め、覚悟せよ」
嘉吉は手を合わせて「私は、按摩の、按摩の・・・」と言うところを、
「問答無用」と一人の同志が一太刀で嘉吉を切り倒した。
一時間もせんうちに、代官所の役人十数名は捕らえられて制圧は完了や。
代官所を焼き払って、北東へ200メートルほど離れた桜井寺に本陣を構えよった。

さあ、これで天皇の大和行幸がされ、一気に討幕に向かえば、天誅組は明治維新の立役者やが、
やが、やがやがやがや・・・。
桜井の本陣で天誅組の面々が、昼の疲れもあってぐっすりと眠っている頃、京都ではどえらいことが起こってた。
8月18日の午前1時頃から、京都守護職[松平容保(かたもり)]や京都所司代[稲葉正邦]が指揮する会津・淀藩の兵が続々と御所に入って守りを固めた。
そのあとから、薩摩藩の兵に護衛されて主だった公家さんが入っていく。
午前4時ごろ、ドカーンと警備完了の号砲が鳴り響くと、御所の門は一斉に閉じられた。
公武合体派の薩摩藩と会津藩が連合して、討幕派の長州藩を絞め出しよったんや。
そいでもって、朝の早よから会議を開き、長州藩や三条実美らの過激な公家さんを京都から追い出すことを決めよった。
当然のことながら天皇の大和行幸も延期が決定さた[8月18日の政変]。
大和行幸(=討幕の出陣)があればこそ五條代官所襲撃の大義名分が立つんやが、それがなくなった。
18日の朝、天誅組はまだそのことを知らん。それどころか、五條、大和高田、十津川の尊皇攘夷派が次々と集まって来ていた。
桜井寺の本陣に「五条御政府」の看板を掲げた昼過ぎに、ようやく政変の知らせが届いた。
維新の立役者が一日にして政敵、朝敵になってしもうた。
不条理とはまさしくこのこっちゃ。思い通りにはならんもんや・・・。


(高取町ホームページより借用)

しかし、大義名分を失った天誅組がこれでバラバラになると思いきや、逆に奮い立ちよった。
それならば、自分たちだけで幕府を倒そう。
やがて奈良・三重・和歌山の幕府軍が攻めてくるに違いない。
その兵に立ち向かうために、まずは5キロほど離れた高取城(高市郡高取町)を奪い取ろう!
ところがや、高取城というのは日本三大山城と言われるほどの城や。
徳川家康に付いていたんで、豊臣方の石田三成が攻めたんやが落とせなかったという城や。
案の定、8月26日に天誅組は攻めたんやが鉄砲攻撃を受けて失敗や。
その後一ケ月ほど転戦するのやが、多くは戦死か囚われの身となってしもうた。

春やんは泣きそうな顔であかね色した空を見上げた。
「春やん、えらい寂しい話やなあ・・・」
「寂しいことあるかい。天誅組は討幕の目的を果たせんかったが、四年後に幕府は倒され、明治という新しい時代がきたんや」
「あの時、とばっちりを受けた按摩の嘉吉という人はどないなったんや?」
「次の日に町年寄りから話を聞いた天誅組は、過ちを反省して奥さんに丁寧に謝り、葬式代として米五斗と五両を渡したそうや」
「ふーん・・・」
「嫌なことや辛いこともあるが、いずれええことになる。そうならんとしても、何にもなかったと思えるようになる」
そう言って春やん、用事があったのだろう。我が家の中に入って行った。
   ★ ★ ★
それから何日か経って、担任のコガキが盲腸で学校の近くにある診療所に入院した。
私はテンチュウが下ったのだと思った。
二週間ほどしてコガキは退院してきた。
入院中に、「これを飲めば元気になる」とある保護者から鯉の生き血を見舞にもらったと嬉しそうに話していた。
家に帰ってオカンに「鯉の生き血って病気に効くんか?」とたずねると、
「そんなん効かへんやろ」と笑っていた。
あとで聞いた話だが、鯉の生き血を持って行ったのはうちのオカンだった。
春やんが石川で釣ってきた鯉をオカンがさばいて生き血を取り、見舞にしたのだ。
「命の痛みを知れ」という怖ろしい見舞だった。

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歴史28 幕末――テンチュウ②

2022年11月23日 | 歴史

「みんながちゃんと集まってるのに、なんで来えへんかったんや」
そう言うやいなや、コガキが私の頬っぺたを思い切りたたいた。
涙もでなかった。
クラスのみんなは「・・・!」。
ただ幸いだったのは、その時もその後も誰も私を非難しなかったこと。

たぶんその日は誰とも話さなかったように思う。話す気力もなかった。
一人で下校して、庭の片隅に積んである風呂柴の上に座ってぼんやりしていた。
前栽の樹々で庭は暗いのに、夕陽をうけた東の空はやけに明るかった。
そこへ秋日の中をふらふらと春やんが歩いてきた。私を見つけて、
「どないしたんや? えらい寂しそうやなあ」
「・・・」
「秋の日のヴィオロンのためいきの 身にしみてひたぶるにうら悲し・・というやつか」
春やんがわけのわからないことを言ったので、少しおかしかった。それで、その日あったことを春やんに話した。
「そうか。義はあっても不条理なことというのはようあるこっちゃ」
「ギ」も「フジョウリ」も何のことかわからなかったが、「思い通りにはならない」という意味だとなんとなくわかった。
今から百年前の、ちょうど今くらいの季節のこっちゃ。
西日を受けてまぶしいのか、目をしくしくさせて春やんが話し出した。

今にも江戸幕府が倒されようとしていた時[幕末]。
日本に貿易を求めてきた外国に対して幕府は次々と港を開いていった[開国]。
その一方で、日本を侵略しようとしている外国をやっつけなあかんという勢力がいた[攘夷]。
幕府はそんな勢力を捕まえては牢屋にいれていきよった[安政の大獄]。
攘夷派は、もはや幕府では日本はつぶれてしまう。天皇を大将にして外国をやっつけよやないかい[尊皇攘夷]と朝廷と仲良くなっていく。
幕府は、朝廷をないがしろにはしてません。朝廷と幕府が一つになって政治をしていきましょう[公武合体]。
幕府は、天皇にお仕えすることに勤めて朝廷を補佐します[勤王佐幕]と、のらりくらりとかわしていきよった。
これではらちがあかん。もはや幕府を武力で倒すしかない[倒幕・討幕]と長州という国が立ち上がった。
ほんでもって、しぶる孝明天皇を説き伏せて倒幕の約束をもらう。
そいでもって、文久3年(1863)旧暦8月13日に天皇自らが先頭に立って外国を打ち払う[攘夷親征]ために、大和の橿原神宮に祈願に行く[大和行幸]と決定した。
さあここがようわからんとこなんやが、外国を打ち払うということは、それに反対する幕府も倒すということになるんや。
ほんでもって、その祈願に行くということは倒幕の出陣をするということになるのや。

これを聞いて喜んだのが、京の都にいた大納言中山忠能の三男坊の中山忠光(18歳)をとりまく仲間や。
時期来たらば真っ先に帝の軍に参陣せんと勇みはやってた。そこへ大和行幸の知らせや。
8月14日、すぐさま大和行幸の先鋒として大和へ向かおうと連絡が流れる。
夜には38人の仲間が集まった。ほとんどが二十代の血気盛んな連中が皇軍御先鋒隊を名乗って京を立った。
淀川を舟で下って15日の昼前に大阪、16日の早朝に堺の港に着いた。
徒歩で狭山を経て、やって来たんが富田林や。
水郡善之助という大庄屋がいて、大将の中山忠光とは見知った仲。
楠公以来、富田林は尊皇の気風が強いところや。水郡善之助、その子栄太郎(13歳)ほか、河内の尊皇の志士20人と荷物運びの百姓数十人が加わった[天誅組河内勢]。

8月17日のまだ夜の明けやらぬころに水郡邸(上写真)を出発。河内長野の三日市から観心寺へ。大楠公の首塚に参拝して水越峠を越えて大和の五條に向かった。
五條の代官所を攻めようという計画や。五條は幕府が治める天領や。その代官所を攻めるということは幕府を攻めるということになる。
つまり、尊皇討幕のさきがけ(魁)や!
大和に出陣される天皇の軍にさきがけて幕府を討つ。天に代わって幕府を誅する。つまり天誅をくだすというわけや。
そこから、誰言うとなく天誅組という名が使われるようになっていった。

③につづく

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歴史28 幕末――テンチュウ①

2022年11月22日 | 歴史

昭和41年(1966)は台風の発生が多い年だった。
6月の下旬から8号が大きな被害をもたらした。9月には今でも最高風速(85.3m/s)の記録を残す18号が宮古島に大被害をもたらし、下旬には24号、26号が続けて上陸して日本列島を襲った。
その都度、学校は臨時休校になるので、小学生の私にとっては少しばかりうれしかった。
ところが、それが私に大被害をもたらす。

9月最後の学級会(ホームルーム)の時だった。
20歳代後半くらいの担任のコガキが教室に入ってくるや、10月にある学級発表会について話し出した。
普段なら、みんなで話し合って出し物を決めるのだが、休校続きで時間がなかったのだろう。
勝手に話を進めて、最後には15分ほどの寸劇を参観に来た保護者に見せようと言う。
普段なら「どんな劇にする?」とみんなで話し合うのだが、焦っていたコガキは強引に、
「時間がないので、先生が考えてきた。『大きなかぶ』という昔話や!」
勝手に話を進められて、同級生は皆「・・・!」になっている。
「ほんで、時間がないんで台本を作ってきた! これや!」
そう言って皆に台本を配った。たしかこんな話だった。
――昔むかし、おじいさんがカブの種を植えた。おじいさんは大きく育ったカブを抜こうとするが、まったく抜けない。
そこに、いろんな人や動物が手伝いにやってくる。みんなで力を合わせると、みごと! カブが抜けた――。
「そいでや、時間がないので今日に配役を決めたい。まずは主人公のおじいさんや! 誰か立候補するもんおらへんか?」
クラスのみんなは「・・・!」で沈黙。困ったコガキが教室を見渡し、なぜか私の方を向いて、
「Y(私)どないや? みんなを一つにまとめる重要な役や!」
クラスのみんなは「・・・!」
私は私で「なに言うとんねん?」と黙っていると、
「なあ・・・、ええやろ!」 
コガキがゆっくりと手をたたき、皆の拍手をうながす。
しばしの「・・・!」があって、あちらこちらからかしわ手のような拍手がする。
「よっしゃ! Yに決定や! あとの配役は『おじいさん、私もお手伝いします』のセリフだけやから」
そう言って、その他のサルやリスやらの配役を黒板に書いていった。
私は泣きそうになって「そんなんイヤや!」と言うと、
「ミンシュシュギでみなが決めたんや!」とコガキがにらむ。
なにからなにまでミンシュシュギで決定する時代だった。
「台風続きで授業中に練習時間がとられへんから、今日の4時から教室で練習する。ええか、みな来るように!」
それで、起立、礼。私は席を立たなかった。

下校する途中も帰ってからも悩んだ。
「行くべきか行かざるべきか」
子どもの悩みだから不安しかない悩みだった。そして決断した。
「行かへん!」
決断しても不安だった。その夜は眠れなかった。
次の日の学級朝礼でコガキにおもいっきり頬っぺたをたたかれた。

②に続く

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ちょっといっぷく38 もへじ

2022年11月21日 | よもやま話

朝夕は寒いが、秋の日中は過ごしやすい\(^o^)/
畑仕事もつい長くなる、といっても5時間だが(´。•ㅅ•。`)
畑の話をするのではなく、顔文字の話である(^_-)-☆
「顔文字とは,ネット上の非言語表現の一種で,文字と特殊記号のみからつくられた表現」と定義されている。
その顔文字が考え出されたのは、
「1986年6月20日 に 若林泰志 が当時のパソコン通信『アスキーネット』の電子掲示板で使用したのが最初」
と、作者の若林さん自らがホームページで書かれているので確かだ。
その時の顔文字が(^_^)
顔文字が日本で考え出されるのは「へへののもへじ」の伝統が生きているのだろう。

「へへののもへじ」は江戸時代に生まれた。
それより古いのに鎌倉時代の「ヘマムショ入道」というのがある。

もっと古いのは平安時代の「葦手絵」という装飾文字。

日本人は文字で絵を書くのが得意な民族なのだ。
と思っていたら、英語にもあった。
 eye

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畑――捨て苗

2022年11月20日 | 菜園日誌

お隣の畑に水菜が植えてある。その片隅に水菜が捨て苗されている。
二宮尊徳にならって、
「みな根を張ってるようやから、捨て苗をもろてかまへんか?」
「ああ、持ってって! 全部持ってって!」
「そないようさんいらんわ。十本ほどでええねん」
と言って一つかみ取ると30本ほどあった。

水菜は多少枯れていようが、水をやるとすぐに根が付く。
それもそのはず、肥料なしで、水だけで育つので「水菜」という名がついているのだ。
京都の九条あたりで栽培されていたので「京菜」という別名もある。
葉が細いので虫もつきにくい。
とにかく手のかからない野菜である。

日本で栽培されている野菜の種は150種ほど。その多くが外来種。
日本原産の野菜で、確実なのはフキ・ミツバ・ウド・ワサビ・アシタバ・セリ・・・。
そして、このミズナも数少ない日本原産の野菜。
英語名も「Mizuna green」「Japanese brasica(日本のアブラナ)」となっている。
なんとも親しみのある野菜である。

さっそく我が畑に持って行って10本ほど植える。
残った苗は捨て苗の捨て苗。

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