goo blog サービス終了のお知らせ 

河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

畑181 / 八十八夜の別れ霜

2025年04月29日 | 菜園日誌

この時期、週にニ、三回、総会屋やら会議やら行事やらがあって、畑仕事もままならない。
それでも、夕方には畑へ行く。
作業をしにいくのではなく、日に日にあふれていく緑を見に行くのだ。
見に行くといっても、なんらかの意思がはたらいているのではなく、なんとなく出かけて、なんとなく眺めて、ぼぉーっとしているだけ。
殊にこの季節の緑は気持ちが安らぐ。
黄緑、萌黄、ライムグリーン。
夏の濃い緑とは違って明るい緑。
調和・平和・自然・安息・新鮮・健康・生命力……。
心も体もポジティブにしてくれる。

まだ四月だというのに、周りで田植えが始まった。
例年より十日ほど早い。
八月の下旬に稲刈りをして、刈り取った株から出た穂をもう一度刈り取って、二回採りするのだという。
これも温暖化の影響なのだろう。
春が短くなり、夏が長くなった。
近くを通りかかった百姓仲間に「夏野菜の苗を露地植えしていけるかなあ?」と尋ねた。
「そんなん、一週間前に植えたで!」
「保温をしてか?」
「この暑いのに、保温はいらんやろ!」
「八十八夜(5/2)の別れ霜」という諺も過去のものになりつつある。

6600万年前の6月ある日、直径10㎞の隕石が地球に落下した。
衝撃による熱波、山林火災、津波が地球全体を襲う。
やがて、まきあげられた噴煙によって地球は暗黒の世界となり、生体系が狂い、恐竜や多くの生物は絶滅した。
そんな大量絶滅の中で、かろうじて生き残ったのがネズミやイヌ、サルどの小さな哺乳類。
地上から恐竜がいなくなったお陰で、一気に勢力を広げていく。
  ◇
その後の温暖化で、6000万年ほど経った約700万年前。
一匹のサルが木の上から地上に降りて二本脚で立った。
それを見ていた仲間のサルが「おいおい、われ、何にしてんねん?」
「立ってねん!」
「そんなんしたら親に怒られるで!」
「かまうかい! 少し背が高くなっただけで眺めがええがな」
「ほんで、立って、どないするねん?」
「歩くのやないかい! ほれよいよい。手(前脚)が自由に使えるやないかい。おまえもやってみ!」
それを見ていた積極的なサルたちも真似をしだす。
現生人類(ホモ・サピエンス)の誕生である。
二足歩行は頭を支えるのに有利なので、どんどん進化する。
しかし、真似をしなかったサルたちは今もサルのままである。

畑の椅子にどっかりと座って、いい気持でライムグリーンを見つめる。
ジャガイモの葉っぱってこんなに鮮やかだったんだ。
地球環境の変化の中で、野菜たちも必死で適応していこうとしている。
タマネギの葉はあんなに長いのに、よくもすっくりと立っているものだ。
ヒトもまた、いつまても八十八夜の別れ霜を守らずに適応、進化していかなければ。
よし、夏野菜の苗を植えてやろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶話180 / お引越し

2025年04月16日 | よもやま話

今までに三回、引っ越しをしている。
一回目は24歳の時で、兄が結婚するというので実家を離れた。
駅前にあるアパートで、憧れの独り暮らしが出来るというので嬉しかった。
ところが、二年ほどして父が亡くなり、母屋には祖母と母の女二人なので、不用心だから実家に戻ることになった。
独り暮らしを謳歌していたのに……ちょっと寂しい二回目の引っ越しだった。
三回目は今住んでいる家に引っ越した。
まだ結婚していなかったので、再びの独り暮らしで嬉しかった。

医療費の負担が3割から2割になる歳になって、次に引っ越すのはあの世に逝くときだと思っていたら、ひょんなことから引っ越しをするはめになった。
と言っても家を引っ越すのではない。
ブログの引っ越しだ。
gooブログが11月で閉鎖になる。
半年後だから、ゆっくりと考えようと思っている時に、gooより前にライブドアのブログを持っていることに気が付いた。
4年も前で、しかも更新もせずにいたから削除されているだろうと思っていたら、どっこいこらさで残っていた。
これもなにかの縁だとライブドアに引っ越すことにした。
  ◇
早速、gooから「引っ越しデータ」のダウンロード。
「込み合っています」の表示があったが、1分ほどで完了の知らせ。
早々に、ライブドアに引っ越しを開始。
「他からの引っ越し」ボタンをプチッとして、データを貼り付けるだけ。
後は勝手にやってくれる。
記事(テキスト)が2分ほどでアップロード完了すると、gooから勝手に画像を引っ張ってきてくれる。
さすがに画像データは大きいので20分ほどかかった。
ブログの引っ越しは大層な手間がかかるのだろうと思っていたら、なんのことない30分で終了した。
  ◇
というわけで、本来の引っ越しから言うと、今は二軒の家を持っていることになる。
検索にひっかかりやすいように表札(ブログタイトル)は「河内国喜志村覚書」にしている。
しばらくは二軒の家を行ったり来たりすることにしている。
なお、新居はこちらです。
お近くにお越しの節は是非お立ち寄りください。
https://kawatinokuni.doorblog.jp/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶話179 / 時間

2025年04月13日 | よもやま話

ちょっとした探し物があって、滅多に開けなくなっていた我が机の引き出しから、現役時代に使っていたストップウォッチを見つけた。
仕事を辞めたのは8年前の4月……、その前に買った物だから、まさか動いてはいまい。
そう思っていたら、どっこい生きていた。
さすがに15分遅れていたが、それで、逆に、見つけたストップウォッチが愛おしくなる。
暗い机の引き出しの中で、8年間も独りで静かに動いていたのだ。
今の自分は、8年前の自分から何分遅れて生きているのだろうか……?

今は、時間に追われる生活ではないから、何分遅れていようと別段支障はない。
当然、時計なんぞは必要ない。
だが、人と行動を共にしなければならないときは、迷惑をかけるので時計を持つようにしている。
安物の懐中時計、それに今回のストップウォッチが加わった。
      ◇
畑では時計を持たない。
お天道様が出ている時は、自分の影で時間を知る。
地面に映った影を「土圭(とけい)」という。
「圭」には影という意味がある。
この「とけい」に「時計」という漢字を当てたのは明治になってからだ。
  ◇
明治になって学校教育が始まった。
集団で生活する学校で、子どもたちは時計が刻む時間によって行動しなければならない。
以来、子どもたちは時間に追われるようになった。

新学期が始まり、初の子ども見守り隊に交差点になった。
見知った6年生がいなくなり、身体と同じ大きさくらいのランドセル背負った1年生が加わった。
信号機が変わりそうになったので、ちょこちょこと走って来る。
焦るな焦るな、君たちには時間がいっぱいあるのだから。
時間に追われるのではなく、時間の先を悠々と構えて進んでほしい。
日本の未来は君たちにかかっているのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑201 / Welcome

2025年04月07日 | 菜園日誌

桜が咲いた。
じゃが芋の芽も出そろった。
Spring has comeである。
大地の底で目覚まし時計が鳴ったかのように、草木が一斉に眠りから覚める。
映像を早送りしたかのように、草木は日に日に緑を増していく。
ようこそ春よWelcome。
命の息吹く春がきた。

この三日間、歩いた動いた働いた。
表彰台の上で金メダルを歯で噛みたいほどに働いた。
三月に芽出ししたトマトにナスにブロッコリー、レタスにピーマンを大きなポットに植え替えた。
スイカにキュウリ、カボチャにマッカ。
ダイコン、ニンジン、インゲン、ゴーヤ。
夏野菜の種も蒔いた。
芽が出て育った夏野菜の苗を植える畝も立てた。
さあさ、いつでもWelcome!
植えるcomeの春がきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑200 / 種まき

2025年04月04日 | 菜園日誌

昨日3日は、一粒の種が万倍に育つという「一粒万倍日」。
加えて、黄金色の毛が金運をもたすという「寅の日」。
もう一つおまけに、太陽が隅々まで明るく照らしてくれて、すべての物事がうまくいくという「大明日」。
こんな大吉日に、じっとしていては運を逃す。
朝の早から畑へ行って、蒔いた蒔いた蒔きました。
スイカにキュウリ、カボチャにマッカ。
ダイコン、ニンジン、インゲン、ゴーヤ。
縁起担いで、ソーリャソラソラお祭りだ!

数日前に70歳をむかえた。
「人生七十古来稀なり」。
中国は盛唐期の詩人、杜甫の漢詩「曲江」の中の一句が「古希」の出典となった。
 朝(ちょう)より回(かへ)りて日日(ひび)春衣(しゅんい)を典(てん)し
 毎日 江頭(こうとう)に酔いを尽くして帰る
 酒債は尋常 行く処に有り
 人生七十 古来稀(まれ)なり
 花を穿(うが)つ蝶々は深深(しんしん)として見え
 水に点ずる蜻蜓(せいちょう)は款款(かんかん)として飛ぶ
 伝語(でんご)す 風光は共に流転
 暫時(ざんじ)相(あひ)賞して相(あひ)違(たが)ふこと莫(なか)れと。

かなり意訳だが、杜甫の気持ちと自分の気持ちを照らし合わせた。

今日の日終えて酒を酌む、その日暮らしの年金生活
いずれ逝くときゃ独りじゃないか、ついぞついぞの酒に酔う
明日はままよで、酒屋のツケもままならない
人生七十 古来稀なり
蜜を求めて蝶が舞う、花の向こうでひらひらと
水面をかすめてトンボ飛ぶ、のんびり長閑にすいすいと
風よ光よ生あるものよ、明日は明日の風が吹く
あるがまんまにその日を生きて、あるがまんまを喜び合おう

杜甫が飲んでいる酒は、王様に敗戦の責任を負わされた鬱憤を晴らすためのヤケ酒である。
だから、「人生七十 古来稀なり」は、「70歳まで生きるなんて、昔からめったにあるまい」の意になる。
だからこそ思うがままに生きてやれ……という、開き直りの愚痴になる。
杜甫が47歳の時だ。
その後、杜甫は七十を迎えることなく58歳で亡くなっている。
  ◆
「人生七十」など当たり前の時代になった。
さしずめ、今なら「人生百十」といったところか。
どうせ人生、長く生きても110年。
贅沢な生活など望むべくもないが、せめて蝶々やとんぼのように、気持ちだけはのんびりとありたいものだ。
開き直れば、少しはいいことあるかもしれない。
「人生七十」は、開き直って新たなスタートの種を蒔く歳なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする