研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

建国期アメリカのエリートについて(2・完)

2007-06-23 19:42:47 | Weblog
18世紀のヨーロッパにとって、北アメリカ大陸というのはものすごく遠かった。ただ、確実に存在はしていて一応交渉の際の取引の材料にはなる。ただその取引の仕方が非常に大雑把だった。

1750年代は大西洋岸にそってイギリス系住民の植民地が独自の発展を遂げる一方で、その奥地にある今のテネシー州やケンタッキー州からコロラド州くらいまでの一帯はフランス領で、今のテキサス州南部からカリフォルニア州南部までの一帯およびフロリダはスペイン領だった。これが1760年代になると、このフランス領の半分がスペイン領になり、もう半分がイギリス領になるが、1780年代になるとスペイン領の半分が今度はフランス領になる。1783年にアメリカが独立を達成したあとも、ルイジアナから西側の広大な地域の領有権は毎年変化し続けた。このころには、今のオレゴン州あたりに大陸の反対側から姿を現したロシアが領有権を主張し始める。

スペイン人はメキシコから鉱山資源を求めて北上し、フランス人は毛皮を求めて中西部を走り回り、ロシア人は土地それ自体を求めて歩いてきた。ここにネイティヴ・アメリカンがまばらにテントをはり、なぜか中国人が芸人をつれてうろついていた。領土の所有権は公式的にはフランス、スペイン、イギリス、ロシアとの間で頻繁に変動していたが、北アメリカ大陸でこれらの国々が大規模な戦争を行っていたわけではない。所有権の変動はパリやマドリッドの会議室で行われていた。これらの領域はヨーロッパから見たとき、預金通帳の数字のような感じだった。ヨーロッパでの戦争における賠償や、貿易赤字の補填として、はるか遠くにある北アメリカ大陸の土地のやり取りがなされ、帳簿の数字合わせが行われていた。北アメリカ大陸というのは、そういう土地だった。

だからヨーロッパのエリート階級にとって「アメリカ勤務」というのは両義的な意味を持つ。左遷先か起死回生のチャンスかは微妙だった。例えば「アメリカ大使」というポスト。ナポレオンに疎まれたジョゼフ・フーシェが、アメリカ大使を命じられたことがある。フーシェの大使就任の命令をタレーランはこう言って伝えた。「おめでとう!アメリカ大使就任が決まったよ」。もちろんタレーランは悪意満々であり、フーシェは青くなり逃げ出した。この事例が示すのは、政敵を追い落とす、あるいは終わった人材だが高位にある人物を追い出すのに利用されたポストだったということだろう。「大使」というのは形式上最高官職である。しかし、事実上は中央からの追放である。こういうポストは今でもたくさんあるだろう。

その一方で、広大な植民地行政というのは重要な問題でもある。中央政府が本腰を入れるような場合は、逆に野心を刺激するポストにもなり得る。若い行政官が植民地総督として送り込まれ、そのキャリアをつつがなくこなして、本国帰還後要職を歴任することもある。あるいは本国で一敗地にまみれてやり直す際に、植民地での手腕が再評価につながる場合もあった。なかにはディレッタントもいる。自らあえてアメリカ植民地に赴き、本国帰還後のサロンの話題をため込んでいる者もいる。

ただし以上で述べたことには、受け入れる側の視点が欠如していることに気づくべきだろう。「左遷先」、「起死回生のきっかけ」、「将来ある若手キャリアの勉強場所」、「遊興の場」。当の植民地で生まれた人々はそれをどう思っただろうか。実はニュー・イングランド生まれのアリストクラットたちは、自分たちの上に舞い降りてくる植民地総督たちに対して、憎悪をつのらせていたのだ。考えてみれば植民地であることの悲哀をもっとも感じていたのが、この植民地生え抜きのエリートたちだったろう。植民地時代末期における、植民地エリートたちの、ヨーロッパのエリートたちに向けられた特殊な憎悪というのはあまり語られていないのではないかと思う。

ここのニュアンスは実は建国史を研究した書物には必ず二、三行は出てくる。どの著者も「必ず」文中に滑り込ませている。ご存知だろうか。注意して読むと例外がないのに驚く。自らをイギリス帝国の一員と考え、イギリス国王への熱烈な忠誠を表明していた植民地出身のエリートたちが、人生の節目ごとにふっと感じる疎外感。友人だと思っていたイギリスの「同僚たち」から、何かの拍子に漏れてくる違和感。硝子の天井に気づいたときに感じる背筋を走る冷たい不快な感触。それが彼らの心に砒素のようにたまっていき、1765年の印紙税法を前にして完全にキレタのである。実はこれはアメリカ革命史の「パラノイド史観」というそれなりに伝統のある分析手法である。アメリカ建国史を研究していると、植民地による「抵抗」までは科学的に説明できるのだが、「革命」へのジャンプがうまく説明できないことに気づく。抵抗と革命とではまるで次元が違う。前者はイギリス人としての行為で、後者はアメリカ人になる行為である。両者の深淵にあるものは、結局怨念みたいな部分があるのだが、個人的な恨みがもつ影響力を論証するのは困難であろう。それでパラノイド史観という括りで整理して、歴史学ではなく政治学の問題として寝かせてあるわけである。

「新大陸の賢者」としてサロンでもてはやされているフランクリンの姿を苦々しく見ていた人々が、ニュー・イングランドには少なからずいたのである。それはオランウータンを見る好奇の眼差しと変わらないではないかと感じたかもしれない。「アダムズさん。お名前から察するに、あなたは新大陸のアダムなわけでしょう。人類の最初の性行為はどのようなものだったのかしら?」。これはパリのサロンで、ジョン・アダムズがある婦人から尋ねられた言葉である。フランクリンくらいの世代の植民地知識人ならうまく受け流したかもしれない。「これが貴族だ!これがヨーロッパだ!」というのがアダムズの友人フランシス・ダーナーの言葉である。

マサチューセッツ州裁判所判事のフィッシャー・エイムズは、ハミルトンへの書簡においてこう忠告した。「私たちは高邁な運命のもとに生まれているのです」と。これは、ハミルトンが推し進めていたヨーロッパ・スタイルの外交に対する明確な違和感の表明であった。旧世界の外交の常識は理解できる。それを考えるとあなたの手腕は卓越していると言わざるを得ない。「しかしながら・・・」として先の言葉が続く。彼らは、ヨーロッパ人のような外交はしないことにした。分からなかったのではなく、選択しなかったのだ。

ヨーロッパにとっては不幸なことかもしれないが、こういう人々によってアメリカ外交の最初の型がつくられていった。まだアメリカが幼弱な新国家だったころは、それが何を意味するかは認識されていなかったが。