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時々眺める富士山

日本の気温水準の推移を見ながら、富士山と庭の植物に見る季節の移ろいなど気候と自然の姿について綴ります。

父とパソコン(16)

2011-08-31 09:25:00 | 日記
父はパソコンにほとんど電源を入れなくなった。

ところで、VISTAはウイルスソフトが必須の構成となっている。ウイルスソフトは定期的にパターンファイルの更新をしなければならないが、パソコンの電源を入れないため、更新は週末に私がしていた。また、月一回のウインドウズアップデイトの適用も週末に行っていた。

そのたびに、少しは使うように、こんなに面白いサイトがある、といったことを父に勧めたが、一向に興味を示さなくなった。

私が子育ての時期、テレビ育児というのが問題となった。私のところでも、夫婦で働いていたので、子供にテレビを見せておいて、その間に家事を片付けるといった生活をしていた。夜泣きするときに、ビデオで漫画を見せるとおとなしくなるから、助かったということもよくあった。ただ、その時は、こちらが手をかけて子供の面倒を見れば、子供はこちらの言うとおりに動くものであった。

一方、歳をとった父は、自分からテレビの世界に入り込み、朝から晩までひたすらテレビを見ていた。母は、テレビでこんなことをやっていたと、1週間分のテレビの内容を教えてくれたりした。父にはそれがなかった。どんな番組を見たのと聞いても、返ってくる言葉はなかった。

そのテレビの音も、次第に大きくなってきた。尋ねていくと、いつも大きな音でテレビを見ていた。こちらの話が聞こえない状態で、見方によれば、こちらとの話を拒否しているようにも思えてしまう。

毎週末、一緒に食事をしたが、食事時もテレビを見ることが優先された。夕飯のときはこの番組を見ながら食べるからの、夕飯はこれこれの時間にする、といった具合だった。せっかく東京から来ている息子との会話を拒否している状態だった。

まさに、そのテレビ番組を見ている、いやテレビ画面に顔を向けているというのが重要なことのようだった。番組の直後に、その内容を尋ねても、まともな答えは返ってこなくなった。

かといって、痴呆状態になったわけではなかった。テレビを見ていない時の、日常生活の会話は普通だった。これらのことから、子供のテレビ育児よりも、高齢者のテレビ介護の方が悪影響がずっと大きいというのが私の持論となった。テレビばかり見るようになったら、人生終わりだと、自戒するようになった。

2008年の夏は雷が多かった。ある週末、ウイルスパターンの更新をしようとして父のパソコンのスイッチを入れたが、インターネットにつながらなかった。その時のことが2008年9月20日の当ブログに記載されている。当時は、父はまだ、1週間の間にあったことを聞けば答える状態だったので、父の語りとして記載されている、それを以下に再掲する。

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パソコンをインターネットに接続できなくなった  日記
8月下旬から、パソコンをインターネットに接続できなくなっている。落雷の影響でパソコンの一部が壊れてしまったようだ
今年は雷が多い日が続いたが、近くに雷が落ちた時に、たまたまパソコンにスイッチが入っていた。
息子の話では、パソコンだけでなくADSLモデムも調子悪そうだ。
そのため、ブログの更新もできず、メールのチェックも出来ていない。
LANのコネクター部分のLEDが無点灯だそうだ。息子のADSLモデムをつないでみると、緑色のLEDが点灯すべきところが橙色だという。
息子が自分のADSLモデムとUSB-LANアダプターを持ち込んで試したが、インターネットには接続できなかったという。
この症状から考えると、修理代がかさみ、安いのを買い直すのとあまり変わらないという。インターネット接続以外の機能には異常がないようなので、年賀状の印刷ぐらいはできそうだ。とりあえず今修理するのは止めておくことになった。

しばらくは、息子に代理投稿してもらうことにする。

ここのところ、夫婦で体調がすぐれないのだが、9月23日は父の命日なので、彼岸でもあり、谷中に墓参りに出かけるつもりだ。たぶんこれが最後の墓参りになると思う。父は1962年に亡くなっているので、47回忌でもある。無事にお墓参りに行けるようにしたい。

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それまで、一切パソコンのスイッチを入れなかった父が、雷が鳴っているときに限ってパソコンのスイッチを入れたそうだ。なぜそのようなときにパソコンの電源を入れる必要があったのかをずいぶん聞いたが、答えてはくれなかった。






父とパソコン(15)

2011-08-30 08:52:00 | 日記
父は新しいパソコンを一切使おうとしなかった。
父が以前興味を持っていた古文書関係のインターネットサイトを紹介しても、私がいる間は見ていても、私がいなくなると、すぐにパソコンのスイッチを切って席を外した。

パソコンの終了の仕方だけは分かっていた。

「こんな面白いサイトがあった」、と紹介しても、ちょっとして戻ると、父はパソコンのスイッチを切ってTVを観ていた。

私の書いている守常ブログの記事などを見るつもりは一切なかった。

パソコンのスイッチを入れるのと、TVのスイッチを入れるのとで、その作業に大して変わりはないように私には思えたが、父にとっては、それは全然違う作業のようであった。

「暴れん坊将軍」は見ることができても、パソコンの文字は読めなかった。

マウスがうまく扱えないこと、だからといってショートカットキーを覚えることはできないこと、ショートカットキーをメモしておいてあげても、その意味を理解できないこと、などから、ウィンドウズパソコンを扱うことは難しくなっていた。

ただ、私には、うまく操作できないから、操作法が分からないから使わないとは一切言わなかった。体調が悪いから後にするとしか言わなかった。そして、介護の人には、新しいパソコンは以前のパソコンと操作法が違うから使うのをやめたといっていたそうだ。

その一方で、頭の中はパソコンを使えたころの記憶でいっぱいだった。だから、やろうとすれば、すぐにでもパソコンが使えるつもりでいた。1日少しずつでも使えば、パソコンの操作法を維持できると私は考えていたのだが、父は一切使おうとしないので、全く使えなくなる道を進んで行った。

年賀状の時期になると、自分で年賀状の印刷ができたころの記憶から、すぐにできるつもりでいた。それは無理であった。すべてこちらが印刷した。自分でできなくなったのだから、出すのをやめることを勧めたが、出さないと死んだと思われるから出すといい続けた。

結局、年賀状はこの正月まで私が印刷した。何か一言書く文章がないのか?と聞いても、そのような文章が返ってくることはなかった。

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葉がすべて落ちて枯れたようになった屋上の百日紅に新芽が吹いてきた。



天国で、父が生き返ったものと思いたい。

父とパソコン(14)

2011-08-29 08:10:00 | 日記
父のパソコンPC9801-RA2は、XPが出るまで持ちこたえてほしかったのだが、WINDOWS XPが出る直前に動作不能に陥った。そのため、WINDOWS98 セカンドエディションのパソコンに買い替えた。その後、父がほとんどパソコンを使わなくなったこともあり、次はVISTAが出るまでゆっくり待つ余裕はあった。

そこで、VISTAが出たところで、VISTAのマシンに買い替えた。プリンターも複合プリンターの価格が下がっていたので、新しくした。

その時から、このブログが始まっている。2007年6月17日付の「父の日のプレゼント」がそれである。

守常ブログは、当初、父が書いている形式を取っていたが、最初から私がゴーストライターを務めてきた。

父が、ただ1行だけ書き込んだことがある。
それは、2007年7月6日付けの、
「今日は暑い

温度計は30℃:汗が酷い。」

のタイトルと本文1行だけのもの。

これを書き込ませるために、15分以上かかった。
以前は、カタカナキーのブラインドダッチができたのに、キーを探しながらでしか打ち込めなくなっていた。カタカナキーでもアルファベットキーでも、入力速度は違わなくなっていた。

手の震えが始まっており、マウスのポイント位置が安定せず、マウスを合わせてクリックという操作がなかなかできないようになっていた。ただ、2007年当時は、父がクリックするのを待てる状態だった。

それまでに、このブログの記事の作成法を毎週末教えたが、自分からブログを書く気配は全くなかった。まず第一に、パソコンのスイッチを入れなかった。

パソコンの操作法が変わったが、立ち上げ方や操作法をいくら教えても、教えているときは、そんな簡単なこと、といった具合で聞き流し、実は頭に何も入っていない状態だった。父はこちらが教えることに対して、一切メモを取らず、次のときまでにすべて忘れていた。

そこで、こちらが要点を付箋紙に書いて、ディスプレーに張り付けたりしたが、それを見る風もなかった。このうち、付箋紙はなくなっていた。

インターネットエクスプローラが自動立ち上げされ、自分のブログが表示される設定にしておいたが、私が書き込んでいるブログを読もうともしなかった。

ただ、「今週はどんなことがあったの?今日は何があったの?何か変わったことはなかったの?」と尋ねると、当時は答えてくれた。それを記事にしていった。