穂の国 春夏秋冬

古来よりこの地方(東三河)を表すことば・穂の国より,日々見たまま感じたままを綴っています。

空襲から79年

2024年08月08日 13時35分27秒 | その他

 昨日は豊川海軍工廠空襲から79年でした。終戦僅か1週間ほど前の悲劇でした。豊川海軍工廠は銃器・銃弾を主に生産し工員・学徒動員・女子挺身隊など5万人以上が働く、東洋一の規模を誇っていました。この工廠は旧豊川町・牛久保町・八幡村にまたがって建設されたため豊川市誕生のきっかけとなりました。広さは200ha以上に及び広大でした。工廠は周りを水路と土塁に囲まれていて、今もかなり残っています。工廠で働く工員のための寄宿舎や住宅・病院・工員養成所などが次々と建設されました。空襲で2,500人以上が犠牲になりました。また、動員学徒として犠牲になった生徒を偲ぶ行事が東高校や時習館高校で営まれました。近隣の中学や高女からも多くの生徒が動員されていました。戦後、工廠は日本車両をはじめとした工場が立ち並びました。中学生の頃、この正門近くに生々しい銃弾の跡のある建物も残っていました。また、旧豊川市民病院は工廠の寄宿舎に附属共済病院の設備・備品を活用し光明町に開院しました。工廠の正門は今の日本車両の正門でした。この空襲惨事に豊川市に勤務していた頃、同僚の先生は豊橋中から動員され働いていて、この空襲を体験したことを話してくれたことも思い出します。退職後は語り部として活動し、新聞にも載りました。今日実家へ墓参りに行った帰り、工廠跡地の一部に建設された平和公園に立ち寄りました。工廠の歴史や空襲の様子・被害などが展示されていました。また、屋外には旧火薬庫や信管置場があり、ボランティアの方の案内説明もありました。初めて見学しましたが、空襲を知らない人々に悲惨さを伝え平和の尊さを認識させてくれる公園と思いました。

平和公園

旧火薬庫

旧信管置場

工廠建設当時の航空写真

空襲後の正門付近の様子

今の日本車両正門(当時の工廠正門のあったところ)

 

 

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