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 玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■聖者たちの食卓

2015年03月03日 | 


中学生の頃、北インド、パンジャブ地方は、「パン」と「ジャム」で「小麦の産地」と覚えなさい、と教わった。なんという教え方だ。でも忘れないからすごい。

その通り、パンジャブ地方はインドでも有数の穀倉地帯である。そしてここに「黄金寺院」と呼ばれるひとつの寺がある(行ったことないけど)。正式には、ハリマンディル・サーヒブという。シク教徒(シーク教ともいう)の総本山である。教徒にとっては、いまでも最も崇高な巡礼地だそうである。
なるほど、周囲を池で囲まれていて、金色に輝く姿は壮麗だ。金閣寺もそうだけど、水面に写る姿がぐっとくる。
シク教とは、16世紀にグル・ナーナクが始めた宗教で、グルは導師、シクは弟子を意味している。この寺院は創建は16世紀であるが、いまの金色になったのは19世紀初めだそうである。

ただ、残念なことに、日本でもシク教徒は怖いとか悪い印象が多いのは、ガンジーを暗殺したのがシク教の過激派だったからである。イギリスから独立したインドの最初の障壁でもあった。過激派というのはいつの時代も的が外れている。
この寺院も事件に無縁ではなく、1919年にイギリス統治の悪法ローラット法抗議集結の舞台にもなったこともあって、当時、非武装のインド人400人以上が銃殺された忌まわしき過去も背負っている。


で、この寺院のすごいところは、500年前からずっと休むこと無く長きに渡って、毎日、10万人分の食事を無償で提供しつづけていることだ。
その間、いかなる権威にも束縛されず、宗教も宗派も国籍も人種も階級も性別も年齢も職業も関係なく、全員が空腹を満たすことができるホーリーなスペースなのである。もちろん、我々が行っても食べることができる。
それにしても、毎日10万食??・・・東京ドームを満席にして2回転分を毎日??・・・到底想像できない。いったいどうやって作っていて、どうやって食べているのか・・・。ファストフードやコンビニ弁当で一人メシなどしている現代人とは対照的に、圧倒的スケールの共食世界がある。
もちろん、近代的道具や方法は一切使わず、昔からすべて手作業で作り、出されている。

昨年暮れ近くだったか、その一部始終を記録した「聖者たちの食卓」というドキュメンタリー映画をかみさんと一緒に渋谷のアップリンクで観た。


巨大なカレー鍋。遥か向こうまでいくつも並んでいる。



この無料食事を提供する場所は、共同食堂を意味する「ランガル」と呼ばれていて、パンフレットの解説によると、もともとこの無料食事は、シク教の「すべての人々は平等である」という教えを守るためにいままでつづけられてきた習わしらしい。
つまり、インドでは、仏教からヒンドゥー教に移行するなかで、宗教的差別や格差があって、女性はカースト制の階級の違う人、宗教が違う人などは入れない寺院や聖地は無数にある。貧富の差も昔からあった。それを越えて施しているところがすごいのだ。
共に生き、分け与え、尊敬しあうこと、ただ一点、これがここの歴史を支えている。
運営は、すべて寄付と分配とボランディア、つまり、無償奉仕、ノンプロフィッタブルだ。金融関係者は見よ。
監督いわく、「おいしいものが溢れていても、どこか満ち足りない思い(空腹)を感じている現代人にこの映画を届けたい」そうである。

ともあれ、その内容たるや終始圧巻。
玉ねぎをむく人はただひたすら玉ねぎをむく。チャパティをこねるひとはただひたすらこねる。焼く人はただひたすら焼く。洗い物をする人もただひたすら洗いつづける・・・それも膨大な人数のボランティアで。なんといっても、1日10万食だ。彼らは無償奉仕こそ信仰だし、お布施ができない人は労働で分け与えるのである。

その1日分は、以下の通り。
 小麦粉   2.3トン
 豆     830kg
 米     644kg
 茶葉    50kg
 砂糖    360kg
 牛乳    322リットル
 薪     5トン
 ガスボンベ 100本
 食器    30万セット
 調理人   300人(ボランティア)

ランガル(無料食堂)のルール
 ◎寺院に入る前は、手を洗い、靴を預け、足を清めること。
 ◎宗教、階級、男女、子供がすべて区別されることなく一緒に座ること。
 ◎ターバンまたはタオルを着用すること。
 ◎残さず全部食べること。
 ◎使った食器は指定の場所に戻すこと。
 ◎一度の食事は5千人でとるので、譲り合いを忘れないこと。


人は誰しも好き嫌いもあるし、欲求もある。世間では、さまざまな食文化を特集したグルメが大流行りだ。
だけど、いまの日本人は、食料の3分の1は食べ残しているそうだ。その量、毎日5万5千トン。コンビニの賞味期限切廃棄は、年に6億食にもなるという。
日本もバリも、神人交感儀礼としての共食文化とその感覚は残っている。明日の豊穣を祈り、共に分ち合い、分配しあうからいつの時代も神の前で平等なのだ。
ただなんの解説も文字も出てこない映画を観ているだけだけれど、なぜかぐ~っと「食」というものをいろいろ考えさせられた。
毎日10万食分の分かち合い。これも一種の「食文化」だ。やっぱり、インドは遥かなり。(は)

■ダランの弱点

2015年02月25日 | 
ヒーローにはみんな弱点がある。アキレスもウルトラマンもドラエモンも弁慶も、みんなそう。
逆に、弱点を乗り越えて光を見いだすからヒーローなの、かもしれない。



パクチーハウス名物、パクチーのかき揚げ。パクチー以外は入っていない。


ダランの弱点は「パクチー」である、と公言されている。
世の中変わり者が多く、1千万人もいると、そりゃ、変な店もある。
「パクチーハウス」は、都内某所にある世界初のパクチー料理専門店だ。
前菜からデザートやお酒まで、まあ、すべてにパクチーが入っているオールパクチー漬けメニュー構成。
またここは、世界を旅するパクチー仲間のためのコミュニティ「日本パクチー狂会」の拠点でもある。
そこにはATMというシステムもあって、パクチーをみんなで育てようという運動もやっている。ATMとは「余った種をまこう」という意味だそうだ。




パクチーはやすらぎのあじ
パクリーはへいわのあじ
パクチーがすきならみんなともだち
パクチーがきらいでもみんなともだち
いらないならちょうだい

という歌まで悪のりでつくってしまったそうだ。

パクチーが足りなければ、追いパクもできる。
いずれにしてもまあ、これは「大人の味」だ。(は)



パクチーの御浸しとパクチーサラダ。


パクチーの根のキンピラ。


パクチー生春巻き。


パクチーチャーハン。


飲物は、これ。ミントの代わりにパクチーをふんだんに入れたパクモヒート。


デザートは、パクチー入りシャーベット。

ああ、これで世界も平和。身体も健康。精神も豊か、だ、きっと。

明日からまた広島・・・土曜に帰ると、日曜はグンデルとアンクルンだね。
一週間は早い。

■ちゃポリタンとナポリタン

2015年01月21日 | 

新長崎名物「ちゃポリタン」だそうである。要するにちゃんぽん麺のナポリタン、新しいB級土産だ。
長崎のB級といえば、トルコライスや佐世保バーガーが有名だが、トルコライスは、ピラフ+カツ+ナポリタン、佐世保バーガーは海軍基地佐世保のビッグバーガーである。
どれもおいしいとはおもうが、この「ちゃポリタン」、大坂でもやらなそうなベタなダジャレのような気もするが(大坂の人には失礼)、なんとも笑えるいいセンスをしている。


世間のおじさん世代の例にならって、私もナポリタン好きである。
最近、70年代に青春を送ったそういう世代向けに、都内にはナポリタン専門店が随分できた。お決まりは、大盛りであることと、チーズとタバスコが掛け放題、ということ、店内のBGMは70年代のヒット曲であること(これはいらないとおもうが)。
そう、昔は、大盛りでも足りなかったし(若さゆえ)、喫茶店の人を横目で見ながら、チーズはいつも控えめに使っていたのである。いまの店は、そういうストレスをすべて忘れさせるような大人ナポリタンな店なのである。
いったいいつからスパゲッティをパスタと呼ぶようになったんだろう。正しい用法ではあるが、過渡期の世代としては、「ナポリタン」という響きそのものが、ついつい甘酸っぱいイメージを喚起してしまうのだ。

だから、自分でもたまに作る。
本当は、太麺をゆでて一晩寝かせたものをフライパンで焼くというのが基本だが、そこまで計画も手間も書けられないので、手軽にケチャップで焼いてしまう。具は、ソーセージと玉ねぎとピーマン。
ただし、この焼き加減が重要である。ケチャップを投入して、我慢強くしばらく待つと、いきなり香りが変わる瞬間がある。そう、酸味が飛んで、甘い香りに変身するのである。ここがK’ポイントである。

ダランも同世代。本人は誰にも言わないが、都内のある店には必ず行ったはず、と私は確信している。(は)


ランチに自炊したナポリタン。かみさんに怒られるので、サラダとスープをつけました。案外おいしいです。

■肉と粥

2015年01月09日 | 

熟成赤身のステーキ。これで1kg。サイズ感のためにタバコの箱を置いてみたけど・・・。


焼く前の状態。各1kg。大きさがわかりにくいが、周囲のフォークなどから想像されたい。


年末、事務所の忘年会はステーキだった。コースでついている150gに追加オーダーで、これ。
1kg×2を9人でペロリ。考えてみたら恐ろしい量だ。でも、熟成の赤身は案外食べられるのです。和牛の霜降りは、ホテルの鉄板焼きなどで世界的に有名になったが、むしろ、しゃぶしゃぶやすき焼きに合う肉質で、ステーキはやはり熟成の赤身がいい。
昨年はウルフ・ギャングなどの有名ステーキ店が続々オープンし、どこも30日くらい熟成した肉を焼いて出す。密かなブームかとおもっていたら、連日予約が取れない人気だそうである。

へえ、世の中、デフレとか言っているけど、こういう高級店や高級品に人が集まるというのは、景気が上向いて来たのか・・・あるところにはあるのか。やはり格差な現象だ。
ま、不相応な「贅沢はうたかた」、社会体験ということで自分たちでこんな店に行っておきながら何だけど、一方では、いまの日本でさえ7人に1人の子供は貧困に分類されるという。そのためのバウチャー支援を始めたところもある。
円高や需要の落ち込みを生産移転や人件費(非正規雇用)削減でカバーしてきた企業社会、それでいて過去最高の利益率とか言っている企業の気が知れない。
制度的疲労を誤摩化してきた福祉政策などのせいでセイフティネットが行き渡らないまま経済だけが進んできた顛末である。貧困を越えた最貧困を救う手だてもない。
ピケティが流行っているのもそういう裡にある。一億総中流とか言っていたのが懐かしいのではない。みんなが感じている何か得たいの知れない不平等の加速・・・、富の分配がうまくいっていないのだ。





ところで、7日は七草粥。「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ、春の七草」。子供の頃覚えさせられたので、いまでも忘れない。やっぱり暗記教育は大切だ。
今年は、暮れに買ったタラコと偏陸さんの手作り味噌で、日本酒を少々・・・。
七草は、草の苦みが胃を活性化し、正月的なご馳走や酒から身体を休めてくれる、とは近代的発想である。
元々、日本の代表的正月というのは歳神がやってきて、新魂を迎えるというものである。7日間は「斎」なので、火は使わない。なので、おせちは年末のうちにつくって、新しい年は七草粥で再生するという流れである。おせちはけっしておかあさんたちを休ませるためにあるわけではない。
バリもニュピは火を使わないし、ムスリムなら、ラマダンも火を使わない。民俗的には、火のない状態、御魂のフユが明けて、命のハルが来るという塩梅である。

ともあれ、ま、この現代。洋と和というか、伝統と新規というか、ノンベジタリアンとベジタリアンというか、肉から粥の間にいったい何をしたか。一年の計は元旦にありなどというが、みなさん、今年の年始はいかがでした?

今日もまだ仕事が終わらず・・・息抜きにこんなブログだらだら書いてるけど、明日は浜松なのに、トホホ、である。(は)

■A級・B級・中華三昧

2014年12月22日 | 


数日前、新宿で高級中華をご馳走になった。なかではこのフカヒレの姿煮、トリュフとかのっけちゃって豪華である。たぶん一皿5千円はくだらないだろう。こんなの数年ぶりに食べた。プリプリとトロトロを掛けて未知数Xで割ったような美味。贅沢ですね。その他の料理も紹興酒もお茶もすべて贅を尽くしたハイクオリティ。中国では食べられないニッポンの中華の質の高さがうかがえる。

帰りに、二丁目のオカマバーとクラブをハシゴし、タクシーで帰宅。そのギャップもあるが、新宿は強力に健在だった。




同じ中華でも、少し前に食べたのが、これ。外苑にある「福蘭」という店で、夜6時半から9時半の3時間しか営業していないため、滅多に入る機会に巡り会えない。約20年ぶりに入った。20年前からそうだったが、店内はお世辞にもきれいとは言えない。
そこの名物がこの餃子。これ、どこの餃子にも似ていない独自のものなれど、冷えたビールには滅法合う。
今回はカウンターに座り、作り方を観察してみたが、最初に餃子に片栗粉をまぶし、それを揚げ餃子にする。それをさらに自家製スープで煮立てて完成。何とも不思議なビジュアルと食感である。B級なれど、ここにしかない味がある。




はたまた先週、某女子大での今年最後の授業前に、昼食で入った店。いつも並んでいるので、きっとおいしいんだろう、とおもいつつ、そもそも何の店? とかおもっていたが、実は長崎ちゃんぽんと皿うどんの店でした。
店名は「来来来」。ライライライと読むらしい。ちなみに谷村新司とは何も関係ない。
カロリーが気になったが、ちゃんぽんは野菜たっぷりでそれほどでもないことを知り、これから「リア充のアゲポヨ~」とか言っている娘のような女性たちと話をしなければならないので、ここは気合いを入れて、おもいきって並んでみた。
ところがなんと、このちゃんぽん、うまい。ちゃんぽんがこんなにおいしかったとは知らなかった。
やっぱり味を知ることは大切ですね。今度は皿うどん食べてみよう。




ビー玉は、不良品のガラス玉だからビー玉というらしい。つまり、A玉ではなく、B玉である。でもみんなビー玉には親しんでいるが、A玉というのは見たこともない。そもそも何に使うもの?
世の中のお店にも料理にも、A級もB級もある。けっしてどちらがいいということではなく、それぞれ、それぞれの付き合いと味わいがあるのだ。

年末は、練習の後、噂の「新中華」で豪勢に北京ダックで忘年会だ。いつも300円均一の前菜ばかり頼んでいるから、年末くらいおもいきって他にも料理ものでも頼んでみるか・・・とか毎年いいながら小市民な我々はいつものパターンにハマるのであった。
考えてみたら、新中華は、面白いポジションだ。安い、けど、きちんとした本場風の料理。庶民的でありながら、雑さやごまかしが・・・、あまりない。最近は芝えびも使っているし・・・?
つまり、AでもBでもない??
仮にAとBを含む全体集合をUとすると、AでもBでもない場合、A∩Bは実数がないので、数学的には、A∪Bのバーか、Aバー∩Bバーということになる・・・、じゃ、それは何? いまのところ・・・わからない。なんだっけ? 
ともかく、新中華、案外ありそうでない店だ。どうせなら、料理も値段もやっぱ良心的な店がいいね。(は)



■ミドリムシの未来

2014年12月15日 | 


「か」さん、リンクしてますね。ちょうど土曜に同じくジャン=ポール・ジョー監督の「未来の食卓」を買ったばかりでした。
食卓といえば、「聖者たちの食卓」も先月観たけど、食卓つづき・・・感想はまた今度。
なんかホントに交換日記のようだけど、そもそもこのブログ、何人が読んでいるんだろう・・・?

で、「食」というわけではないけれど、最近、我が家でもちょっとした問題が発生した。
その主人公は、そう、ミドリムシ(ユーグレナともいうけれど)。淡水に生息する単細胞生物である。おそらくこうした原生生物は、人間より先に地球に住んでいる大先輩であろう。
実はこのミドリムシ、最近多くの分野で注目と活用がなされつつある。たとえばバイオ燃料の原料とか健康サプリメントや食品添加物など。数十種類の栄養素に加え、二酸化炭素を吸収するわけだから、「ミドリムシは地球を救う」、という人もいる。

そこで問題なのは、ベジタリアン。
なんと、ミドリムシは、学術的には植物とも動物とも判定されていないのである。アオミドロは植物、ゾウリムシは動物、その中間がミドリムシと考えればいい。実は昔から多くの偉~い先生が散々論考して未だに結論が出ていない。
うちのかみさんは結構厳密なベジタリアンなので、白黒ついてないものは食べられない。今度どこどこの店のお菓子にミドリムシ成分が入ったらしい、と聞くと、たとえ好物でも、いきなりそれは食べられなくなる。
食べていいかどうか専門学者の定義次第で決まるというのもどうかとおもうが、少なくとも伝統的なベジタリアンにミドリムシに対する判例がないので、新しい解釈が必要ということだろう。常人にはわからないこだわりがある、のだ、きっと。

生物の分類は、進化論以降だいぶ整理された後、最近では遺伝子工学によって判明した事実からかなり修正がなされつつある。
でも、我々にとって日常的に必要な分類といえば、植物と動物と菌類(原生生物に含まれる)の区分で十分である(幻想文学あたりでは鉱物も入れて自然界を語ったりするが)。
だからか、80年代の頃の神秘思想系の何人かは、植物でも動物でもないキノコ(菌類)こそが未来の意識や生き方を変える、とかよく言っていた。キノコには当然いいキノコとそうでないキノコがある。バリはその聖地だったこともありましたね。
ともあれ、現状、植物にも動物にも区分できないものが、このミドリムシなどの原生生物と菌類なのだ。

で、このミドリムシ、喰え、と言われてもピンと来ない。小学生の頃の実験経験の影響か、沼の藻のようでもあり虫のようでもあり、いくら健康にいいからといって食欲がわく種類のものではない。
もちろん、昆虫食は昔からあったわけで、イナゴやハチノコは食べたことはある。ハチノコは白身魚のようなタンパク質だった。アジアではアリやバッタや幼虫やタガメやセミなどは普通に食べている。セミは香ばしく、幼虫はクリーミーで美味、バッタ類はエビみそのようだと聞いたことがある。といっても進んで食べる気はしないけど・・・。
将来は、画期的な料理人が出て、ミドリムシの刺身や踊り食い、ミドリムシ軍艦などになって珍重されるなんてこともあるんだろうか・・・? バリならきっとミドリムシ・ラワールとか人気になるかもしれない。
そう考えると、ローフィッシュや生卵が食べれなかった昔の外国人の気持ちもわからなくはない。
食は文化と一緒に食すべき?(は)


ミドリムシの粉末。これをいろいろな食品に混ぜ込むわけで・・・。