
先日、かみさんから「今日は午前様はなしでお願いします」と言われたので、仕事も切り上げて、素直に12時前に帰って来たら節分であった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」となんか似ている・・・。
とまれ、ま、つまり、立春の前の日。要するに時空の境界線だ。
豆は、もう年齢の数+1は食べられないけれど。国産有機大豆。無駄にしてはモッタイナイ。三つぶほど外に投げやる・・・カランカラン・・・、どこかの屋根に当たったらしい。
普通は「鬼は外、福は内!」というけれど、我が家では伝統的に「福は内」のみ小声でささやく。
この言い方は、時空の境界でわざわざ隠された霊(モノ)を呼び起こすことはない、というかみさんの考え方かと推測しているが、ま、何も言わず(ホントは面倒なので)、素直に従うことにしている。
物の怪(もののけ)とは本来「霊の気」である。霊(もの)すごいものたちは、なんらかの境界に現れる。
ま、橋とか辻とかトンネルとか、夕暮れとか朝もやとか・・・。
有名な話だけれど、夕暮れは「黄昏=誰そ彼(たそがれ)」、逆に朝もやは「彼は誰(かわたれ)」という。薄暗くて誰だかわからないからだ。スピルバーグが子供の頃ぞっこんだったTV番組「トワイライトゾーン」というやつだ。
それを参考に「ウルトラQ」は誕生した。世にも不思議な物語は、光と闇の境界線、あっちの世界とこっちの世界の融和点から立ち現れる、ということだろう。
だし、そういう意味ではウルトラマンよりウルトラセブンだ。実は諸星弾、かみさんの初恋の人だという。へえ、君はアンヌ隊員か(世代的に理解できない人はすみません)。
顔を覆面で隠して踊る「西馬音内」の盆踊りに似ている。先祖が一緒に踊ってもわからないように、だそうだ。
何の話だっけ・・・?
ま、誰しも、毎日、この昼と夜の境界線、Who is he?とHe is Who?の間で一日を過ごしていることをたまには思い出のも大切か・・・などとおもいながら、家人を横目に豆をまく。
毎日ありがとうございます、などと柄にもないこともついおもってしまう。

ところで、この鬼。知っているようで実はそのアウトラインはボケている。
すぐに連想するのは、定番、歌人馬場あき子の「鬼の研究」と知切光蔵。日本の鬼とアジアの鬼だ。
馬場の鬼は情念の鬼。知切の鬼は、凡アジアに求めたルーツから日本の鬼を照射する。歴史の暗部、情念と差別と隠された秘密の鬼である。
鬼のイメージは概ね平安時代に確立した。
鬼門(丑寅の方角)だから牛の角と虎のパンツをはいている。鬼たちが近寄れないように、山城(京都)の鬼門・比叡山に延暦寺はできた。
その延暦寺根本中堂が建てられたせいで、「酒呑童子」は丹波・大江山に追われることとなる。
知切によると、この酒呑童子は、元々は越後の国上山出身の美少年だったそうである。国上山は良寛が住んだ庵が残っている。五合目にあったので「五合庵」という。新潟の数少ないヒーローだ。
なぜ、その美少年が鬼になったのか・・・背後にある人々の恨みは恐ろしいということ。
この話が気に入ってか、渋谷に友人が開いた店は「酒呑堂」という。狭くてたいへんだ。
八瀬童子は、平安時代以来受け継がれている最澄の式神としての鬼の末裔だ。
僕もすっかり伝説だとばかりおもっていたら、昭和天皇が崩御されたとき、いきなり出て来て棺を担いでいた。
なんとそのために数十年間守り継がれてきたのだ。鬼でなければできない所業だ。
で、鬼は、英語にできないそうだ。結局デビルになってしまうらしい。
デビルじゃ、「絶対悪」の概念なので奥行きがなさ過ぎる。鬼にはもっと幅がある。来年の話をすれば笑うし、時には泣いたりするくらいの心情もユーモアもある。
そうね・・・おもえば、「泣いた赤鬼」は、最初に読んだ文学?かもしれない・・・。
みなさん、覚えてますか?
村の子供たちと仲良くしたいのに怖がられている赤鬼を心配して、
青鬼が悪役を買って出る。
自分が悪さをするので、君が僕を退治する演技をしよう。
果たして見事、村の人気ものになって幸せに暮らす赤鬼が、
しばらくぶりとおもって青鬼の家を訪ねると、置き手紙があり、
僕がいると邪魔だとおもうので旅にでます。
「どこまでも きみのしんゆう あおおにより」。
赤鬼は、その場に泣き崩れる・・・。
というお話。
鬼とは、元々「おん・おぬ」などから転じたらしい。
隠されたものすべてであり、まつろわぬもの、怨霊や人々の情念を一身に受けるもの、世の中には必要だが、あってはならないもの、そのすべてを鬼に統合しているのである。ときには神にもなる。
そういえば子供の頃、「口裂け女」という都市伝説があった(住んでいたのは都市ではなかったけど)。
マスクをして近づいてくる女の人が、「わたしってきれい?」と訊きながらマスクをとると耳まで口が裂けている世にも恐ろしい形相。キャー、といって逃げるとどこまでも追いかけてくる、というお話。
きっと、醜いことが原因で差別されてきた寂しい存在の象徴なのかもしれない。
誰かに仲良くしてほしいのだ。
平安時代というのは、いまの数百倍は格差の社会である。
飢饉には、町に飢餓状態の子供や女が野宿していたそうだ。痩せこけなぜかお腹だけがぷっくり膨らんだあの状態。貴族は彼らを「餓鬼」と言って近寄らなかった。「クソまみれの餓鬼」である。貴族は「土」すら踏まなかったらしい。
仏教では、世界を下から「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏」の十界に分けている。
普通、下から6番目までの六道を輪廻する。この六道輪廻から抜けるには、修行して悟りを開くしかない。
二番目の餓鬼は地獄に堕ちた鬼化したもの、六道から抜けられない鬼である。さぞ苦しんだであろう。
般若の面(おもて)というのもそうだが、チベット仏教の歓喜仏や憤怒尊、不動明王というのは、現世の仮の世に現れるそういうものをみても惑わされることなく心静かに対峙できる知恵を促すために用意されたものである。
般若は、パーンニャ(知恵)の音訳である。般若心経の般若、六波羅蜜の最後を飾る概念である。
不遜を恐れずにいうと、札幌のお尻を見ても、広島の怖い人を見ても、かみさんに何を言われようと、動じない心の知恵が必要ということだ。だいぶ修行は積んだけど・・・。
昔話によく出てくるご存知「山姥」というのも、もともとはきっと悪い人ではなかった。
差別と飢餓が、食人習慣を生んだのだ。
嫉妬と情念と怨念が積もり積もって、髪が乱れ、目を剥き、角がはえ、牙が出て、口が裂けてくる。
鬼女とはそういうものだ。スターウォーズならダークフォースに負け闇に堕ちたものたちだ。
察しのよいみなさんはもう何が言いたいかおわかりだろう。
そう、スタソーマの助演男優賞プルサダは・・・「鬼」なのである。(は)




プルサダは、今年だけで何度改心したことか・・・、
気がつくとまた鬼になっている。輪廻だ。
早く、「あおおに」さんが現れますように。暮れまでにはきっと・・・。
