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空観方程式

「色」での重ね合わせによる相互作用で共感・共鳴が生じ、「空」としてのエネルギーで新たなる生命力の姿が実体化される。

マンドラゴラの象徴

2021年08月14日 | 読書・TV感想
イタリアの哲学者マキャベリ
道徳的・倫理的なものと、合理的な考えとの二元性の対比によって、
権力者のとるべきスタンスを書き表している。君主論(1534年)

愛されるべき倫理的なものと、恐怖という合理的な考え方である。
例えば、権力者は恐怖と愛のどちらを選択するのかと問われれば、
愛されるより恐れられる方がはるかに安全である。
そもそも人間は恩知らずで、むら気で、偽善者で、厚かましい。
人間は利己的で偽善的であり、たとえ従順に見えても
利がなくなれば反逆するが、君主を恐れていれば反逆しないからだ。
人間の本質を直視した、重要な倫理的問題を提起している言葉である。

君主が善良で慈悲深い人間であることは称賛すべきだとしつつも、
現実を見ればそうした君主は必ず没落するとして、
愛される君主より恐れられる君主のほうが安全だという。




薬草にも関わらず、人を殺す毒を持つ
マンドラゴラからの解放は、対立する
2元性と折り合いを付けるための特性として、
知っておいて無駄なことはない。




人間の二元対立を解決しようとする場合
マンドラゴラのように一体化している状態
であって、
そこに折り合いを付けようにもそうそう
簡単なことではない。

そこで
二元の対立が一体化している状態ならば
オイラーの公式にならって、
三角関数での解決方法ではなく、
指数関数の方法を取り入れることだ。



例えば、弁証法においても同様である。




要は見えない領域に気付かずに、
見える領域だけで決め付けてしまったり、
異質な考えにこだわって、不調和や排除したりしないことだ。

マンドラゴラの地上の葉である、人間いかに生きるべきかだけを見て、
地下にある現実の生きている姿を見逃す人間は、
自立するどころか、破滅を思い知らされるのが落ちである。
そのことに気が付かずに
一次元での正しい事だけで熱狂してしまえば、多くの場合で破綻する。

決めつけているもの(知識・理念)だけでは生きてゆけない。
人間は居心地の良い、悪いといった意識の領域も無視して生きてゆけない 。
正しい事だけで行動すれば、確かに間違いではないだけに
現実との一体化で、新たに生まれていることに気が付きにくいからだ。
しかも目には見えない概念や関係性であれば尚更だ。

新たに生まれる世界
人間はマンドラゴラの植物の様に、見えない領域の
どうしようもない不合理な領域と共に、
折り合って生きていかなければならぬ動物だ。

マンドラゴラの世界に気が付かづにいれば、
単にその場その場の感情で行動する人間だということになる。
その場合は損得・陰謀論などの外的要因に惑わされやすい。
マンドラゴラの世界に気が付けば、合理的な最適化を意識して
判断ができる。




同様に、科学の教えるもの
「人間はエントロピーの法則に
    逆らって生きてはいけない」

生命現象とはエントロピーに逆らう現象
従って、人間はマンドラゴラのように

エントロピーに逆らう領域(誕生)と
エントロピーに従う領域(死)
との双方一体化となって生きるしかない。


例えば
植物だけでなく動物との共生の場合
田んぼに鴨を育てると除草してくれる
楽になる・楽しいこととは、
他の生物と共生する(折り合いを付ける)ことで
パーフェクト・ハーモニーの世界に向かう。
共存できるレベル、即ちそれが自然の力だ。

要は見えない領域に気付かずに、
見える領域だけで決め付けてしまわぬことだ。

典型的な例:
「どう生きるべきか?」 は「何が正しいのか?」 の典型である。
一元的な見方では答えは出ない。

「人間いかに生きるべきか?」というのと、
「人が現実に生きている!」のとは、
マキャベリが言うマンドラゴラであって、
はなはだかけ離れているのだが、

マンドラゴラの象徴
二個の生命体が一つに接合しているのではなく、
一つの生命体がエントロピーに従う要素と
エントロピーに逆らう要素の二つを兼ね備えているので、
それらには境界がなく、もともと折り合った形の一体化である。
それらが同時に進行する状態での生命体だ。

エントロピーに逆らう領域(誕生)と
エントロピーに従う領域(死)
との一体化(循環)で生きるしかない。
 = 動的平衡状態


「人間が人生の意味は何かと問う前に、
人生のほうが人間に対し問いを発してきている。
だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。
人間は、人生から問われている存在である。
人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに
答えなくてはならない。
そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する
具体的な答えでなくてはならない」
ヴィクトール・E・フランクル

オイラーの公式はSINとCOSとの二つが一体化して
複素空間の中で同時に進行する状態の形となっている。
同様に、マンドラゴラも薬草と毒草とが一体となって
調和しながら生存している。

Opposite Polarities Harmonize To Become One.
Duality is a part of our existence.
Many people hate what isn’t like them.
However, without duality, you wouldn’t be alive.







変えるのではなく、新たな止揚概念を作り出すのでもなく
排除や差別でもなく、マンドラゴラのように
互いに折り合う形で一体化する。
やはりその二つが同時に進行する状態での生命体だ。

一方だけが膨張・拡大してしまう状態では破綻する
苦しいこととは、一方だけが膨張・拡大している状態なのであって、
損得だけでは破綻する。

オイラーの公式


オイラーの公式もマンドラゴラの植物の様に、
実数と虚数と共に、指数関数の姿として
折り合って一体化している。
さらに複素数での共役関係の折り合いによって
特別な世界を意識させる。

あるいは
SINとCOSとの二つが一体化して
同時に進行する状態の形となっている。

Opposite Polarities Harmonize To Become One.
Duality is a part of our existence.
Many people hate what isn’t like them.
However, without duality, you wouldn’t be alive.

剣と天秤を持つ正義の女神 観念と本質の場合

2021年06月01日 | 読書・TV感想
剣と天秤を持つ正義の女神テミスの姿は、
空観方程式でのオイラーの公式とも一体化する。
 

即ち複素数の、実数部が天秤で虚数部が剣である。


指数関数が目隠しでの実働を象徴している。


ネイピア数(e)の導入によって
逆関数と理想的バランス状態にある。

天秤と剣はいわば考える領域であって、目隠しは考えのない実動領域である。
目隠しは法の下での平等を象徴しているが、
ちょうど真実の下では渇愛や感情、自己都合などは混在させない、
純粋な領域であることと同一のように見える。

さらには、いささかこれもこじつけに近いのであるが、
西田幾多郎博士の「善の研究」の中にある


知識と情意の観念が天秤
「色即是空」と「空即是色」であり、
剣は執着やとらわれを断ち切るであって、
目隠しが「諸法空相」に対応している。

正しいか正しくないかの天秤(観念)だけでは
持続可能性はなく、 物事の本質が剣の部分であって、
観念と一体の関係となる。
いわば本質と観念とが動的平衡状態という
関係にある。
その結果での決意が、
真相である目隠しとして象徴され、
信じるべき真の実在「涅槃寂静」の状態が
出現し存在する。

正しいか正しくないかの観念の世界に
浸るだけではなく、
善の為に悪を指摘する建前だけでなく、
ごちゃごちゃした人生の中から、
すっきりとした純粋性が体現・一体化できるし、
余分なものや心も捨てることができる。
何か信じるものがあれば、希望を持てる。
多い少ないではなく、
例えば我欲であっても大吟醸の一滴があれば、
希望を持てるようなものだ。

これは空観方程式でいうところの
「色即是空」と「空即是色」が天秤(観念)であり、
剣(本質)が執着や自分と他との境界が断ち切られた現実であり、
真相「諸法空相」が目隠しの状態だ。
いわばオイラーの公式から
観念+本質=真相(真の実在)の関係であって、
この公式はすっきりとした純粋大吟醸の一滴、
真の実在「涅槃寂静」の象徴であるように見えなくもない。
つまりこれは
麹菌(天秤)によってでんぷんが糖化され、
酵母菌(剣)によって発酵が促され、
結果としてアルコールである真の実在が
生まれてくるようなものだ。

観念と本質は一体で尚、
観念よりも本質が先立つ。
つまり
何が正しいのか(観念)ではなく、
何が本当なのか(本質)である。
したがって
「正しいものが勝つ」とは限らない。
また観念には、
自分の都合の良いことだけを切り取って
考えるといった確証バイアスもかかる。
都合の悪いところはなかったことにする。
正義の女神が不在の場合である。


例題1 公平と正義
観念(心の世界)公平であることこそ正義だ
本質(外の世界)自然は偶発的であって尚、
       全て異なるものから成り立つ
       公平と正義も異なる
真の実在   心の世界を外の世界に合わせる


例題2 仕事と幸せ
観念     好きなことを仕事にするのが
       幸せだ
本質     好きなことをするためには
       嫌なこともしないと
       できないものだ
真の実在   嫌なことも好きになることだ




プロゴルファー松山選手の優勝

2021年04月12日 | 読書・TV感想
松山英樹 夢のマスターズV
日本男子初のメジャー制覇!15番で池ポチャも1打差で逃げ切る


正しいか正しくないかではなく、
「評価せずとらわれることなくただ観ること」である。
これがいかに大切なことか。

最終日15番パー5、2位と4打差あれば2オンを狙うことなく、
レイアップが正しい選択であるが、松山選手はそうしなかった。





第2打の選択に「何をすれば正しいのか」を考えると、
実作業に評価の行為が混在して、自己都合が紛れ込む。
決められた通りの作業をただアクションする
競技ではそれができるかどうかだ。

ゴルフではどの方向にどの位飛ばすかだけ。
レイアップを狙う行為は、あらかじめ決めた通りの作業以外の
「優勝したい」要素が入っている。
ツーオンするとあらかじめ決められた作業の純粋行為は、松山選手が
チャレンジする姿を同組2位の選手に見せつけることにつながった。
これを見た2位の選手は次の16番で追い詰められて、
逆にあらかじめ決めた通り以外の余分な力が入ってミスしてしまった。
ここで勝負が決着したような気がする。




「自分ひとりで、何がダメだとか、フィーリングだけでやっていた。
自分が正しいと思い過ぎていた。
コーチを付けて、今は客観的な目をもってもらいながら正しい方向に進んでいる」

 頑固なまでに「自分だけ」を貫いてきた松山が、そんな言葉を口にしたのは初めてだった。
勝利から遠ざかり、苦しんだ4年間の歳月は、松山に謙虚さをもたらした。
そうやって気持ちの上で成長し、変化したことが、彼のゴルフそのものの変化と成長につながった。

 その先に待っていたのが、マスターズ優勝だった。

舩越園子 2021/04/12 11:03 記事より



マスターズにチャレンジすること、
それが競技に向き合うありのままの姿だ。
それ以外の作業や評価を競技中に介在させると情意が邪魔する。

競技だけでなく、我々の日常作業においても、
「評価せずとらわれることなくただ観ること」である。
それが「日日是好日」の真実である。
そこには
何が正しいのか(観念)だけでなく、何を信じるのか、
何にチャレンジするか(本質)である。
色即是空と空即是色と同様に、
本質と観念は常に一体であって、動的平衡状態という関係にある。
それにより日常の情意や自己都合のない正常な分析評価が可能となる。
そしてフェイクニュースに惑わされることもなくなる。

二つの関数(動的平衡)から出現する特別な世界

2021年02月21日 | 読書・TV感想
人類の至宝といわれるオイラーの公式に於いては、
二つの関数の相互作用によって特別な状態が
実空間(実社会)に現れているということだ。
二つの関数から出現した、
縦糸と横糸により織り込まれ現れた布の
奇跡的で特別な秩序の世界だ。



全豪オープン/現地発リポート
「興奮」がポジティブな精神状態を生み、
「恐れ」が冷静な判断力へとつながる。
相反する2つの要素が連携を取りながら舵取りし、
大坂の心技体の針をピタリと勝利に定めていた。
2021/02/20 06:00現地取材・文●内田暁




スポーツ競技の時
実空間である競技中に、虚である喜怒哀楽を同居・介在させてしまい、
自分自身で挫折に追い込んでしまう現象がある。
競技中は今何をすべきかだけに集中しなければならない。
その為にプロゴルファーもプロテニスプレイヤーも
競技中に感情を持ち込まない工夫を、それぞれがしている。

虚と実とが一体となっている世界
「興奮」と「恐れ」との相反する2つの要素が動的平衡状態となって
「今何をすべきか?」の新たな世界が現れる。
興奮だけでもダメ、恐れだけでもダメ。

成功するから微笑むのではなく、微笑むことで成功する
「○○を得たい」、「これこそが!のこだわり」
このような渇愛の火はなくならないが、
笑顔は「私は今何をしているのか?」に一瞬注意を向けさせる。
喜怒哀楽ではなく、現実をあるがままに「感じる」ことである。
即ち一打一打に集中して、ただそれだけを積み重ねることができる。
一つ一つのプレーに一喜一憂しないことだ。
優勝したいという渇愛の火を完全に消してしまえば、
それに代わって完全な満足と平穏の状態が訪れる。
まさにゴータマ(仏教)の悟りだった。

これはちょうど量子の世界と同じ振る舞いをしている。
電子を見ているときは「粒子」として振る舞い、
電子を見ていないときには「波動」として振る舞う。

「興奮」がちょうど電子を見ているときの「粒子」として、
「恐れ」がちょうど電子を見ていない「波動」として振る舞う。
電子は波動でもあり粒子でもある。
現実社会での電子は「エネルギー」として振る舞うことになるので、
実作業の行動中はもっぱら「私は今何をしているのか?」に
集中することだ。
現実社会の中で「恐れ」のような渇愛の状態、あるいは「興奮」の
喜怒哀楽を持ち込むことは、「負の感情」が満足と平穏の状態を
乱してしまうことになる。
従ってこのとき実作業の行動は中断した方がよい。
中断できないときは
もっぱら「私は今何をしているのか?」に集中することだ。
とりもなおさず「今の自分に打ち込む!」ということだ。



”One for all, All for one”
「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」
ラグビーワールドカップを機会により有名になった言葉。
誰の意見であろうが、お互い自分の意思決定としてコミットして実行する。
一つ一つの行動が恣意的な感情によって、左右されないようにする
ニュートラル(空相)な特別な世界だ。
「必要なときに、そこに仲間がいる」
「ミスはいつでも起こる、 それを仲間が全力でフォローする」という世界だ。


「良心を束ねて河となす 〜医師・中村哲 73年の軌跡〜」NHK 2021. feb.
医師であった中村哲はその著書に
「人は愛するに足り真心は信ずるに足る  アフガンとの約束」とある。
理念ではなく「おなかいっぱい食べられれば、誰も戦争には行きません」
の現実の姿であって、そこに真実があるという信条によって出現した
その世界において、
人から砂粒手を投げられても、人を疑うことをしなかった生き方である。
「人を愛する」と「人を信じる」、「理念」と「現実」
日々の活動中においては負の感情を抱くことのない象徴的なことである。
真実だから人として守るべきもの、人として尊ぶべきものに生きる姿である。

動的平衡状態とバランス・オブ・パワー

2020年03月20日 | 読書・TV感想
最後の講義 ドキュメンタリーTV・ nhk
福島伸一教授の動的平衡
および
「動的平衡」の視点から「不安定な社会」を見る
不安定な状況を創り出すことで、あらゆる変化に対応できる高次元の
「安定」を実現しているのだ。
この「動的平衡」の考え方は生物学だけではなく社会を理解する時にも
ヒントになるのではないか。(柴沼俊一 Future Society 22)


「動的平衡」の視点から「不安定な社会」を見る  生物学者 福岡伸一教授
私たちは宇宙の大原則である「エントロピー増大則」に支配されている以上、
築き上げたものは崩れ、秩序あるものは無秩序化する。
一つの場所で止まっていることはできず、分散していきます。
でも、38億年も生きながらえてきた生物はどうやって朽ち果てることに
抗ってきたのでしょう。
生物は堅牢になることを諦め、自分で自分の細胞を壊すことを選んだんです。

例えば片足を前に差し出すことで、体全体のバランスを崩しています。
その不安定な状態を解消しようとして、もう一方の足が自然と前に出るんです。
最初に「分解(エントロピーの増大)」があり、「合成(自己組織化)」が起きる
というサイクルを、絶え間なく繰り返し続けていることで、
高次元の「安定」をつくり続けている、これが「動的平衡」の考え方です。
互いに影響し合うという「関係性」、「つながり」だけは変わらない。
細胞は変わっているのに、細胞同士がつながりながら、全体としては
バランスを取っているんです。


感想:
動的平衡とは、互いに逆向きの過程が同じ速度(程度)で進行することにより、
系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。 wikipedia
分解と合成・創造と破壊・過去と今・プラスとマイナス
人間の脳も矛盾したことを考えているし、
まったく関係ないもの同士をつなげたりしている。
決してロジカルではない。偶然もあるし、カオスだ。
まさにその二次元的な相互作用によって、
即ち混沌によってバランス・オブ・パワーを保っている。

長期的な生命維持のためにサステイナビリティという
方法がある。
丈夫で頑丈なものを作って環境の変化に対応しようとしない。
何のために(私は)生きるかとか、
優勝するために、成功するために頑張るといった
一方向だけでなく、正反応と逆反応の意識を同じように
作用させることで、意識の動的平衡を維持させる。
いい時もあれば、悪い時もある。柔軟に対応する。
その方が安定的であって長持ちする。

空観方程式の意識化では、
「空」と「色」、「虚」と「実」
複素空間と実空間、個人と公共(外部要因)、
内なるものと外なるもの
中空構造や自分自身の固有領域などが
二元性の相互作用での動的平衡の結果であった。
空観方程式ではこれを純粋実空間と複素空間と呼び、
それによりバランス・オブ。パワーを保つ。
左側が複素空間で、右側が純粋実空間である。

例えば「合成」が青で、「分解」が赤である。
相互作用によって実空間に安定を作り出している。
また「色即是空」が青で、「空即是色」が赤である。
そして「涅槃寂静」が純粋実空間に対応する。
同様に
自分の周りにある外部要因が青で、感情が赤である。
正反応と逆反応の速度が同じ場合には動的平衡となり、
反応系を構成する各物質の濃度(実空間)は変化しない。
複素空間では感情と逆向きの意識を相互作用させる。
そうした複素空間では、プラスとマイナスあるいは
互いに逆向きの行程が同じ速度(程度)で進行させることで、
日常の実空間では系全体として時間変化せず
プラスのみの平衡に達している状態。
「怒り」のない時空の意識空間を維持する。
「諸行無常」が複素空間で、
「今何をしているのか?」を純粋実空間という。


虚と実の二元論と「ミアレ」の原理

2019年08月05日 | 読書・TV感想
中沢新一著「アースダイバー 東京の聖地」2017より

明治神宮は、代々木の内苑と青山にある外苑と
二つの部分で成り立っている。
伊勢神宮も、
内宮と外宮という二つの宮で成り立っている。
二つの神社はシンメトリーをなしている。

さまざまな集団が移り住んで、より大きな集団を
形成していくときの知恵である。
「違いを呑み込んだ同一性」をつくるための、
じつに巧妙な原理なのだ。



ところが明治神宮に現れている二元論は、
伊勢神宮とは違う本質を持った二元論なのである。
それは「二重構造のうちにあらわれている霊力」である。

明治神宮の代々木内苑は内側に閉じこもる「隠す」考えで、
青山の外苑は自分を「開こう」としている。
異質な空間が南北の二本の連絡通路でつながれていて、
矛盾したものを統合する原理でできている。
人間の心の自然体の構造を、そのまま表現している。



世界がどのようにして生まれてくるのかをめぐって、
日本人が抱いてきた無意識の思想にほかならない。
内苑と外苑の二重構造のうちにあらわれているものは、
「ミアレ」の原理と呼ばれ、物事の生成をあらわす、
きわめて古い日本語である。

創造の原理としての「ミアレ」
世界の本質は、その閉ざされた見えない空間から、
存在の世界に向かって、神々はあらわれ出ようとする。
そのとき、聖なる力のミアレが起こるのである。

卵のように外から閉ざされた空間の中に、霊力は隠れている。
その力が現実世界に向かって、自分を開いていく。
そのとき現実世界のただ中に、神的な力が純粋に戯れているような
特別な場所がつくりだされる。神の「ニワ(斎場)」と呼んだ。
閉じ込められていた霊力が、ミアレをつうじて、神のニワに顕現し、
遊び戯れるのだ。
内苑と外苑の二元論は、ミアレの原理が、近代的な装いをして復活を
とげている。ニワである明治神宮外苑には、ミアレの原理を復活させて
絵画館や競技場が作られた。

内苑の幽から外苑の顕へ。
隠された状態から顕現された状態へ。
神話から歴史へ。
このミアレの構造を空間で表現したのが、明治神宮の二元論である。
内苑の幽(かくれ)の空間と、外苑に実現された顕の空間は、
はじめから一体でなければならない。
外苑なしの内苑も、内苑なしの外苑も考えられない。

幽から顕へというミアレの原理は、
前方後円墳の継承儀礼の例にも存在する。
霊界に隠れてしまった霊が、
四角い土檀の上で新天皇の登場が演出された、と
考古学者は考えている。



感想:
ミアレの原理は「創造の原理」にほかならない。
「閉ざされた見えない空間から、存在の世界に向かって、
あらわれ出ようとする」とある。
そのとき、聖なる力のミアレが起こるのである。
その力が現実世界に向かって、自分を開いていく。

空観方程式においての二元論も、虚と実の関係にあって、
虚である複素空間は意識の空間として、
「閉ざされた空間の中に隠された状態にある」
シュレーディンガーの猫の様なフタ付きの箱の中にある。
箱のフタを開けない限り、複数の状態を同時に持っている。
そこでの相互作用の力によって、現実の実空間へ、
いわば存在の世界に向かって、顕現する。

即ちそこでの複素空間と実空間と同様の関係を言い表す
「ミアレ」の原理は、古来からの日本にあった
意識としての概念であり、精神文化として存在していた
とは、まさしく驚きを禁じ得ない。

そもそも複素空間と実空間の関係は、次のような意識化である。
自分の意味を自分で見つけ、
自らを信じ、自らを頼りにして生きる。
法を頼り、自分の次元で自分を考えることだ。
これがブッタの二元論(自灯明・法灯明)

そこで
複素空間と実空間の二元の関係を中沢風に言えば、
虚空観と実空観が作用する力は、ミアレの力と同様に
「卵のように外から閉ざされた空間の中に隠れている。
その力が現実世界に向かって、自分を開いていく。」
この虚空観と実空観の構造を空間で表現したのが、
複素空間であり、まさしく言い得て妙!である。
その意識概念が虚空間と実空間との二元論となっている。

複素空間の意識は箱の中にある。
喜怒哀楽、悩める空間の世界である。
自と他、いきさつとこだわり、渇愛とあるがまま、
虚空観と実空観とが相互作用を起こして合成され、
現実世界に向かって出てゆく。(ミアレの力)

複素空間と実空間の二元関係は、意識と無意識の二元論ではなく、
正と負の意識と、(エネルギーや確率のように)正だけの意識との関係だ。
目的と手段の関係に近い。渇愛と同様に目的と手段が混在するから
苦の原因となる。
目的は箱の中で相互作用させることで、手段とは混在することがない。
いわば隠された状態から顕現された状態への意識化。
「虚である複素空間と、二乗することで実現された(ミアレの力)、
実体でのエネルギー実空間は、はじめから一体でなければならない。」


   内苑       外苑
  目的の設定     手段
 正と負の意識    正だけの意識
 

客観論的世界観と目的論的世界観との違い

2017年08月23日 | 読書・TV感想
こころの時代「唯識にいきる」
唯識の科学性 Aug.20.2017 NHK

科学者と宗教学者との対談
横山紘一(仏教学者)
大栗博司(理論物理学者)

共通した認識
人間も与えられた機能が発揮できている時が幸せである。

異なった認識
正しいかどうかをどのようにして証明するのか。
科学者:共通の言語である数学を使って証明する。
仏教学者:人によってすべて異なるが、
多数の人が幸せな状態となることで普遍性があり正しい。





丸山圭蔵著「生きるよすがを求めて」1997によれば、客観論と目的論の中で、

現代人は宗教家と科学者の互いに相いれない二つの世界観を合わせもっている。
科学技術は妥当性を検証するための方法に共通性があり、世界中どこでも通用する普遍性がある。
目的論的世界観では共通性に劣り、それを信ずる集団でしか通用しない。
そして正しいかどうか検証する手段がない。そうでないことの証明はできないから無敵である。

これによれば
多数の人が幸福になるとは、厳密には限られた集団の中での話であって、
いつでも誰にでもあてはまる普遍性ではないので、正しいことの検証にはならない。
幸せな状態となることが正しいとなると、自分にとって都合のよい面だけが強調されて
歯止めがなくなる。

丸山圭蔵著「生きるよすがを求めて」
(「MARC」データベースより)
生物機械論と生気論、客観論と目的論、還元論と全体論という生物学における生命についての対立的論議をとりあげ、順に考察。
生きているということはどういうことか、生命の本質について生物学的に論考する。

成功と幸福は別物である---洋の東西を問わず

2017年04月07日 | 読書・TV感想
TED Talks より

 

「成功すれば幸せになる」は誤りで
「幸せであれば成功する」が正しい
「病気でなければ健康である」は誤りで
「健康であれば病気にならない」が正しい
 Shawn Achor
現状が幸せである方法を見つける。
筋肉を鍛えるように、ポジテイブな脳にする。

(幸せを感じながら)やり抜く力、が成功の秘訣
 Angela Lee Duckworth



100分De名著 より
三木清著 人生論ノート1941年 創元社

成功と幸福は別物である
 解説:岸見一郎

幸福はオリジナルなもので誰も真似することができない。
成功と幸福を混同していると、組織にコントロールされる。

真の幸福とは
「鳥の歌うが如くおのずから外に現われて、他の人を幸福にする」
成功と幸福を同一視するようになって幸福が理解できなくなった

幸福に気付くかどうかは、成功するかどうかにかかわらない。

成功は誰でも可能であるが、過程であって、到達することがない。



空観方程式としての感想:
成功と幸福の二相系であって、それぞれが相互に関係している。
いわば縁起であって、ここでも別々に見える二相の状態によって、見える化される。
「色即是空」「空即是色」が幸せと成功の相互関係について表現されている。
ただし、「成功は幸せを導いてくれるわけではない」という関係である。
雪と水との二相系 付録参照

Shawn Achorは今ではMITの超人気心理学者なのだそうだが、2400年前には東洋に
同じ様なことを考えていた人物がいたとは、「人間の幸せ」については、科学技術がいかに
この先進化しようが、あまり変わらないということか。


付録:
時節柄、二相系の安全と安心でも、量的なものと質的なものとの関係がある。
対立物としてならば、安心と信頼との相互依存関係である。
ここでも安全と安心を同一視してはならない。

「清風払明月 明月払清風」 
清風明月を払い、明月清風を払うという五言対句で、禅のことば。
「美しく輝く月」はそれだけでただ美しい。
「さわやかで清らかな風」はそれだけでひたすら爽快だ。
風と月は対立するものではなく、一体である。 迷いを払いさった『空』である。

いずれの場合も双方のバランスとハーモニーにより成り立つべきものである。

魚を与えるのではなく、魚釣りを与える

2015年08月07日 | 読書・TV感想
老子の言葉で
 人に魚を与えれば一日生かすことができるが、
人に魚釣りを教えれば一生養うことができる。
というのがある。

この逸話(教訓)は知らず知らずのうちにモノにすがって生きることを戒める道徳とは異なり、
メンタル的な面での解決策という一面を含んでおり、それにより救済される場合がある。
道徳だけでは解決策にならないからだ。以下はそうした解決策についてのTV感想である。



モノ(魚)を与えるとは、
モノにすがって生きる」に通じていて、多い少ない、勝組負組、惹いてはあれが悪いこれが悪いの善悪二元の
排除の世界である。
特に注意が必要と思われるのは、悪いことは他のせいにするとか、あれが悪い、これがダメだのように、
全てを観念でとらえようとする場合で、「恨み(うらみ)、妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)」等に結びつきやすく、
従っていつまで経っても安心や喜びが遠のいてしまう。一種のヒステリー的な状態であって、批判ばかりが先行し、
問題なのはこうしてみたい、これをやってみよう、という前向きな意欲に欠ける点だ。
海外においてもアランの幸福論のようなうつ病の認知行動療法に通じるようなメンタル治療法が考案されている。
また、著名な哲学者であるニーチェも「善/悪」の価値観の背後にはルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)
潜んでいると言う。
『ツァラトゥストラ』は人間を堕落させる嫉妬や恨みの感情=「ルサンチマン」をどう克服するかということだった。注1

我が国においても昔から人間関係に深く関係する「うらみ、ねたみ、そねみ」は救われることがない難病であって、
治療が必要であるとの意識がある。
宗教的な観点では、ニーチェよりも、キリスト教伝来よりもはるか昔から、法然、親鸞等による独自の救済思想があった。
なによりニーチェは「神は死んだ」と言ってしまったことで、「ニヒリズム」の心配や「超人」「永遠回帰の思想」など、
病からの克服には自らの大変な努力が必要になってしまった。それに比べれば、法然、親鸞は、称名を唱え信心により
往生できると、誰でもたやすく病から立ち直る方法を編み出した(証明した)点で極めて画期的であった。
「ルサンチマン:難治の機」 藤田徹法住職のNHK日常の仏法より
病には種類があって、その種類によって対処法が異なっている。
(対治:医学によって治療する)、(同治:寄り添って治療する)、(聞治:仏法を聞き、光明を感じることで治療する)

老子の魚釣りの例では他との関係性、即ちコトによっては現実世界に働きかけてくる本願という生命力、
それを感じ取ることで、他のおかげによって生かされていることに気が付く、あるいは聴こえてくる。(聞治)
いわば他からの一体感から得れるものである。
他者とのかかわりによって生かされているから、
お互い様で生かされているから →お返しする、恩返しという感覚が生まれる。
お借りして(客として)いる人生だから、授かった人生だからお任せできる。注3

お任せしようとすれば、
 がんばらなくてよい(なんとかなるさ)
 いつまでも悲しまなくてよい
 善と悪の問題ではなくなる
 自分なりの生き方で納得できる

病からの克服法としてこの様な画期的なセーフティネットの他にも、従来よりの古典的解決策によっても、
善か悪かの観念だけの世界になってしまうことや、何年たっても解決できないというド壷にはまってしまう
こととか、めぐりめぐって戦争に発展する危険性を回避する要素にもなっている。注2
これがいわば魚釣りの部分である。7世紀にはこの方法を求めて玄奘三蔵が天竺(てんじく)を目指した。


他方の悲しみ解決策においては、例えば宮沢賢治『銀河鉄道の夜』 「悲しみを、乗り越えよ」がある。
想像することは現実からの逃避ではなく、明日への希望にもつながっていく。
悲しみにくれていては、なにも始まらない。想像し、自らの悲しみと折り合いをつける方法を見つけたからだ。
悲しみを乗り越える光明、失ったものや過ぎ去ったことよりも、今生きている人達のこと
ほかの人を自分のコトとして考える。<注4>みんながお互いに相手を思いやれば、どんな悲しみも乗り越えられる。
他者とのかかわりによって生かされているから、全ては何らかの関係の中で生きていることを知る。

つまりモノとコトの双方が必要である
ファンタジー と現実との融合、あるいは虚と実の一体化とは「心に伝わるもの」が共鳴して調和し、
ポジテイブなものに変える「色即是空」の部分である。
ファンタジックなものが本当に見えたリアリティとの一体感であって、銀河鉄道アナと雪の女王のみならず、
木も石も、すべては互いにつながっているから、あたかも感謝しているように花を咲かせ、
ダイアモンドの様に輝く。そのように聴こえてくるし、観えてくる。
傍らの草木が話しかけて来ているように、野に咲く花がささやいているように感じる。
その方が幸福になるし、成り切った中からワクワクをベースにした「生の高揚」につながる。

内部にある喜びの感情に降り注ぎ、強めていく。美しい言葉が美しさを与え、高貴な言葉が高尚にし、
強い言葉が力を与える。生きているものは積極的なものであり、過剰なエネルギーを生み出す物質空間
なのである。とはニーチェとまるで同じような捉え方のように感じてくる。
「悲しい時は悲しむより仕方がない」が、怨恨と同様にいつまでも悲しんでいては自分の体を食い尽くす。

[結論]
人間を堕落させる嫉妬や恨みの感情=ルサンチマンのこだわりを自覚し<注5>、どちらの対処法を選ぶかは
人によって異なる。
ただ道徳や儒教のように美徳理想観念だけではパワーにならないし、ルサンチマンの解決もしない。
怨恨は病ではないにしても、終わりが無いので病になってしまう。いつまでもひたすら堪えて待つ思い<注6>
だけでなく、心の変化が可能となる対処法も必要である。



<注1>
NHKテレビ番組「100分 de 名著 ニーチェ ツァラトゥストラ」
ニーチェ「ツァラトゥストラ」の思想から教わる人生・前向きな生き方


ニーチェ ツァラトゥストラ」のまとめ
著名な哲学者であるニーチェにいたっても恨み、妬み、嫉みの感情は後ろ向きな疫病であって、
その「ルサンチマン」は「喜びを感じる力を弱くする」と言う。
ルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)やニヒリズム(「すべのものは無価値である」とする考え方)
の良くないところは、喜びを忘れてしまうことである。

キリスト教においても「ルサンチマン」に対して「隣人愛」のように特別な対処法があった。
自分のことよりも他人のことを愛しなさいという教えである。
しかし「心清く生きる」という固定的な生き方になって、生き方の形が決まってしまう。
また、強い人間を悪く言うには、神様をもってくればいい。
キリスト教の神様は「あいつら(強い人間)は確かにこの現世では富を持ち、政治権力を持っているかもしれない。
でも、あいつらは結局、地獄に堕ちるんだ。神からしてみればダメな人間だ。」
これこそ「善/悪」の価値観の背後にはルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)が潜んでいると言います。
ニーチェは、キリスト教とは異なる価値、「価値の転換」をしなくてはならないと思ったのです。

ニーチェが提示する新しい価値観は「絶好調な感じ、楽しい、愉快だ、ワクワク」をベースにした
「生の高揚」なので様々なやり方がある。いろんなやり方を目指して、様々な人が実験をしていく。
まさに、「生の実験」。生きることは実験であるとニーチェは考えたのです。
「それぞれの人が高揚する生き方を目指していこうじゃないか」というイメージがニーチェの中にはあった。
「自分がどうやったらパワーアップするか」「元気が出てくるか」ということ。生が高揚して、
パワーアップして喜びを感じて生きていくことを重要視した。
しかし、その「神が死んだ」とは自分が信じられるものがなくなる。即ち「ニヒリズム」に陥ると
「安楽がよい、冒険しない、憧れというものを持たない」という人になってしまいがちである。

ではどうすればよいか
「生の高揚」をとことん実現しようとする人間となるにはどうするか。絶えず創造的に生きている人は
(恨み、妬み、嫉妬の感情)も持たず、ちょっとイヤなことがあってもすぐ忘れてしまい、
これまでの価値観にとらわれず、絶えず創造的にクリエイティブなパワーにあふれて生きていける人のこと。
ニーチェは幼子にように無垢なまま、でも気力をみなぎらして生きるためには「永遠回帰」の思想を
受け入れなくてはならないと言っています。自分の人生が最悪であっても、それを受け入れて超人となる。
その秘訣が「永遠回帰の思想」何度も何度も永遠に繰り返されるという思想なのです。
最悪の事態も含めた自分の人生を肯定して、「超人」になったということを現しているのです。
ニーチェは「エネルギー保存の法則のもとで万物が運動すると、永遠に時間がたてばまた元の状態がやってくる」
と説明しています。
「永遠回帰の指輪」は、自分の人生にはマイナスもプラスもあるが、トータルの人生の輪が何度も巡ってくる
ということを意味しています。
つまり、マイナス部分も「これで良かった」と全肯定する、自分のネガティブな事も含めて全肯定するということです。

注2「怨みは愛によってのみ止む」釈尊からの対処法
日本が戦争に負けた本当の相手は、貪り、怒り、怨み妬み憎しみという三毒煩悩の悪魔であって
そのことを知るべきです。
「目には目、歯には歯」と言わんばかりに、怨みに怨みを返している限り、毎日が三毒煩悩との
戦いであり、負ければ、やがて身を滅ぶす道が待っているだけです。
いかなる場合であっても、三毒煩悩に染まることのないよう、よくよく心して、冷静に対処しなければ
なりません。
ただ一つ言える事は、私達は「仏性」という強い味方に守られている分、恵まれた立場に居るという事です。
貪り、怒り、怨み妬み憎しみを向けてくる人々、仇なす人々の救いを祈らせて頂けるという事は、
それだけ私達が守られ、恵まれているからこそ、出来る事なのです。


<注3> 日経メルマガより (幸福と不幸2015.07.17善人と悪人2015.07.24)


<注4>NHK「100分 de 名著 」
小泉八雲著「日本の面影」第四話(2015.07.29)より 日本人の他者を理解する情:倫理観・美意識を紹介

小泉八雲は日本に古くから伝わる怪談・民話を通して、日本人の他人を批判しない、貶めない、相手をほめるという
倫理観・美意識について世界に紹介し、人間の普遍的な要素であるこの様な常識や倫理観を見つめ投げかけた。

ギリシャで生まれたラフカディオ・ハーンは日本人のこうした心オープンマインドに触れて、本当の居場所を見つけた。

<注5>
河合隼雄著「中空構造日本の深層」昔話と深層心理学より
精神分析医でもある著者によれば、深層心理学はノイローゼの治療という、極めて実際的な目的を持って発展してきた。
十九世紀末にフロイトは、人間の心の中に無意識という領域の存在を主張した。
患者の無意識内に存在するコンプレックスが、ヒステリーの症状発生の原因であり、それを患者が明確に「意識化」する
ことによって治癒されると主張した。(これによれば意識の自覚がなければヒステリーは際限無く続く)
それにより夢への研究が重視され、同時に昔話についても夢と同様の方法で、人間の無意識の心的過程の表出として研究された。
その後、さらにユングによって精神分析学は人間の無意識をより掘り下げて研究されて来た。それによって神話・昔話、
ファンタジーの分析から人類の深い知恵を導き出す形となった。
著者は日本での古事記神話から、中空・均衡構造のモデルを提示し、西欧型の中心統合構造と対比させて、東洋の中で
日本だけがどうして近代化にいち早く成功したのかについて記述している。


<注6>
NHK『100分 de 名著 旧約聖書』一言でいうなら、終末になって「神が動くのを待つ
「旧約聖書」第四話(2014年5月28日) 

なぜ悪いことをしていないのにヒドイ目にあわなきゃならないのか?
ルールを守っても、なぜ神様から祝福されないのか?
なぜ自分が正しいと主張することが神様から叱られることなのか?

正しいか否かは人間が決めることではないのである...
正しいか否かの基準は神様のみ、なのだ...
そこでヨブは、悔い改める...
思い上がった自己正当化(自力作善)を悔い改めたヨブには神様の祝福が下り、財産が戻ってきて、子供も新たにでき、
豊かで幸せな生活を送ったとさ。というストーリーである。
次々に訪れる試練は、神への信仰を試されているのであって、その試練に耐えていれば
いつか必ず神によって救済されることを信じ、いつまでも待ち続けるという思想が生まれる。

小泉八雲の日本観と銀河鉄道の夜

2015年07月12日 | 読書・TV感想
NHK100分de名著 第1話7/1 第2話7/8
小泉八雲著「日本の面影」の紹介より
   

アニミズムの感覚
「自然のすべてに霊魂が宿っている」と感じているように、
日本人には自然に対する感覚が研ぎ澄まされている。
民族の魂と言える強力な精神がコンコンと脈打っている。
例えば
桜の木は大切に育てられていると感じ、人間への感謝を示しているようだ。
盆踊りは目に見えない何かと一緒に踊っているようだ。

出雲大社の神殿を見て


幽霊・Old Japan
教育者としてのハーン―想像力・共感・霊性
ハーンが現代に語りかけるもの―共生・循環・アニミズム

アニミズムというファンタジー と現実との融合、あるいは虚と実の一体化とは
「心に伝わるもの」が共鳴して調和し、ポジテイブなものに変える「色即是空」の部分でもある。
即ちファンタジックなものが本当に見えた、「ドキドキ、ワクワク」のリアリティとの一体感である。

アニミズムという銀河、リアルで、妄想やファンタジー(幻想)の介入。
ラストは『不思議の国のアリス』と同じように夢からさめる。
木も石も、すべては互いにつながっているから、あたかも感謝しているように花を咲かせ、ダイアモンドの様に輝く。

そのように考えた方が幸福になる。
Imagine /John Lennon  Imagine there's no heaven.It's easy if you try.


宮沢賢治『銀河鉄道の夜』 悲しみを、乗り越えよ 100分de名著
ロジャー・パルバース著2012より
   

想像することは現実からの逃避ではなく、明日への希望にもつながっていく。
ゴッホのように実際に目に見えたものの描写であって、「すべては互いにつながっている」リアリティを作品にした。
悲しみにくれていては、なにも始まらない。想像し、自らの悲しみと折り合いをつける方法を見つけたからだ。
悲しみを乗り越える光明、失ったものや過ぎ去ったことよりも、今生きている人達のこと、
ほかの人を自分のコトとして考える。みんながお互いに相手を思いやれば、どんな悲しみも乗り越えられる。



アジア地域のDNA分布について

2015年06月22日 | 読書・TV感想
NHKおはよう日本2015年5月29日(金)





  
下図においては”O”タイプは青、”D”タイプが黄にて示される
大陸、朝鮮半島ではほとんどが”O”タイプとなってしまった。


感想:
日本人のY染色体は”D”タイプが32%、”O”タイプが54%の比率といわれる。
大陸も当初は”O”タイプと”D”タイプが混在していたのでしょうが、”D”タイプは
度重なる殺し合いの歴史の結果、”O”タイプに駆逐殲滅された。
その結果、大陸にはほとんどが”O”タイプしか残っていない。
”D”タイプは”O”タイプに殲滅駆逐されたことは、いささかこじつけ的であるが
現代の相撲やゴルフを見ればモンゴル系や朝鮮系に駆逐されていることでも証明される。

問題は何が強いか、何が弱いかではなく、DNAの混在が無くなって、いわば多様性の無い
DNA分布となってしまったことだ。MERSなどのパンデミックにもなりやすいが、そもそも
多様性が無いと効率はよいが、進化しないことが分かっている。いわば近親結婚と同じ
環境になってしまった。それが現代の大陸DNA分布として残っている。

幸運なことに、日本列島およびチベットとアンダマン諸島だけが、かろうじて地理的
隔離状態のために生き残り、今でも”O”タイプと”D”タイプが混在した状態が
奇跡的に残っている。その結果、日本では勤勉が尊ばれ、道具に神が宿っていると
考えたもの作りができる。また、古くから「和をもって貴しとなす」の考え方や、いわば
統合の理論ではなく、均衡バランスの理論である中間・中空構造としての神輿文化も、
善か悪かではない調和を重視する文化も、「色」と「空」との異質一体化文化として
受け継がれ、それによって自分自身の問題として「共感」につなげられるようになる。

現代ではチベット民族は漢民族に併合され、鉄道で結ばれ隔離状態ではなくなった。
以上の理論による警鐘は、今後チベットでも”D”タイプは”O”タイプに駆逐され、
腕力だけの”強いものだけが正義”の文化になってしまうかもしれないことだ。

無秩序の崩壊から秩序化へ、そして複雑化への理解

2014年05月12日 | 読書・TV感想
ブルーベリーの花 2014年5月

(黄金比の発現)

この宇宙には、バラバラの状態から秩序が発現することがある。
デビッド・クリスチャン“David Christian“の TED より

物質は自然のままではバラバラになろう無秩序・均一化になろうとする。
スクランブルエッグからタマゴには戻らないし、温度は自然のままだと高温から
低温にしか移動しなくて、その逆はない。(熱力学第Ⅱ法則)
タバコの煙もどんどん拡がって均一化してゆくが、その逆はない。
しかし突然複雑系に移動することもある。
そもそも逆の方向へ向かわせるのが生命であり、生命の本質は精神である。
これがガウス空間における2本のベクトルのなす角度θが0°に向かう、いわば
秩序化の完成に近づく方向である。即ち均一化の崩壊である。
良い悪いは別にして複雑性の発現だ。
湿った空気が低圧と低温の冷気に触れれば雪の結晶が生まれるように、
あるいは牛乳からチーズ、豆乳から豆腐やユバができるように、
バラバラの無秩序状態の溶解スープから、均衡・均一化を破って
突然秩序化した塊が発現したりする。これが複雑性の発現である。
秩序化、規則化、一体化、一極集中化、そのような法則があるからこそ
生命が生まれた。それこそが「ありのままに!」である。
それ以外の理想の法則は有るかもしれないが、我らの存在が否定される世界の
法則をいかに吟味してもあまり意味がない。
その動向は、モノと精神であるコトの関係性によってもバランスされている。
協調性、強い想いとは秩序化である。
「経糸」と「緯糸」が一体化した時に発現する織色に似ていて、特異点が
はっきりしている。あるいはどっちの特異点に向かっているのかが見える。

     

現代はトラブルを起こす事や、リスクのあることを嫌う傾向が強い。前例に従い
新規なことはやらない、建前にはだまって従う、扁桃体の発達した気性の激しい
弱い犬になってしまう。組織全体がこの様な溶解スーとプなっては、破綻するまで
誰にも止められない。
そうなれば命がかかる場合もあるし、それを回避しようとすれば安全装置を破壊してでも、
列車を運行していた事が直近でも現実に発生している。

そこで空観方程式では、種々の社会的要素を、関係性であるコトと、 実体である
モノとに振り分けて、その複雑形での相互作用をベクトルで可視化している。
経済分野は唯物論だけでは説明できないし、特に人間の心理や欲望、駆け引きなどの
コト的な要素が大きいためである。空観方程式では「経糸」と「緯糸」のように二つの
ベクトルに分けて秩序化に向かう実体との関係を見える化した上で使われる。

同様に「モノとコトが一体となれば、即ち複雑性を理解できれば、不確実性や対立への
認容性が高くなって「本質的で価値ある世界が現われる」。さらに具体的なプロセスと共に、
「新たなる世界へと変化をもたらす」といったような関係が見えてくる。
いわば勝ち負け、成功失敗よりも、「想いの強いものが、新たなるステージに到達する」
ことが可能となってくる。これこそが秩序化であって暗黒の溶解スープからの決別である。
何をすべきか「どうするか」が見え、明確な三位一体の形が見えてくれば、 不都合の公開と、
文書化された具体的プロセスの有無によって、それが実体か虚構かの判断材料となりうる。




秩序化の象徴 フウロソウ(左)と準結晶(AlMnCo合金)1995年
 黄金比



TED「18分でわかる!宇宙の歴史」より
卵からスクランブルエッグをつくることはできますが、スクランブルエッグから卵の白身と黄身に分離することは普通できません。
これは科学的に不可逆な現象であり、戻すことのできない一方通行の現象です。
よく言われるのは、熱いお湯は何もしなくても冷めて水になりますが、冷たい水は何もしないと水のままでお湯にはなりません。
私たちの身の周りの自然現象は普通、卵のような秩序的・構造的な状態からスクラブルエッグのような無秩序的・非構造的な状態になろうとします。
しかしながら、宇宙ではスクランブルエッグから卵がつくられるような、水がお湯になるような、普通では考えられない現象が起きています。
その現象はどのように引き起こされるのか、それは宇宙のもつ「複雑性」によって引き起こされます。
ここで言う「複雑性」とは、周りの基準から少しでも異なる状態のことをいいます。たとえば、周りよりほんの少しだけ温度が高いとか、
ほんの少しだけ大きいとか、ほんの少しだけ成分が多いとかです。
理想的な条件下でこの小さな複雑性が連鎖的に重なっていくと、ある一線を越えて今までとは違った新しいものが生まれます。
ここではこの一線を越える段階を「しきい値を超える(Threshold moment)」と表現しています。
この宇宙は「複雑性」と「しきい値を超える」ことの積み重ねにより誕生し、成長し、現在の形になりました。
デビッド・クリスチャン“David Christian“の TED より

TED「いかに複雑さが簡潔さへとつながるか」より
より多くの情報が、簡潔で優れた解答へ導いてくれることを知っているからです。
知っていれば何も恐れることはない。大きな問題に取り組
複雑性を受け入れる程 簡単な答えを得る機会が増えるのです
自然界では簡潔さはしばしば複雑さの 反対側に存在します。
つまりどんな問題でも 縮小して 複雑性を受け入れるほど、最も重要で簡潔な詳細に
焦点を当てる可能性が高まる。
複雑な問題も、可視化して、俯瞰して分析することで、最も重要な論点に気づける
ということです。
エリック・バーロウ Eric Berlow (Ecologist)のTED より

閑さや岩にしみいる蝉の声 芭蕉 --- 空観方程式とは  

2010年06月09日 | 読書・TV感想
閑さや岩にしみいる蝉の声  芭蕉

岩と蝉の声(モノ)との一体感(コト)を方程式に入力すると、
閑さという解が導かれる。これが空観方程式である。
即ち「どうするか」が入力されると、「どうなるか」が出力
される。
芭蕉の句の例では、感じる(コト)が入力項である。
それによって、「どうなるか」の静寂、安心などの解が
出力される。

そもそも「どうなるか」は無限の可能性があって際限がない。
空観では「色」に相当する。
他を気にするのではなく、自分がどう感じたかの「どうするか」
は「空」に相当する。
それを方程式に入力することで、無限の可能性の中から解が
導かれる。いわば目に見えない概念と、目に見える実在との
双方の関係式である。
仮に方程式に「どうなるかを」入力すると、虚数解となり、
それは2乗することでマイナスの符号が付いた実体を示す。
善と悪のようなモノだけの関係性でも、同様である。

他人を気にしすぎたり、他人本位、他人のせいにすることが、
空虚さや不安の原因となる。
これがマイナス符号が付いた実体だ。
主体性のない「どうなるか」のみを強調させる方法は、不安を
掻き立てて、たいして価値のないものを売りつける霊感商法や
投機的なデリバティブ商法とたいして変わらない。
現に米国発の金融危機は、みんながやっているから大丈夫だ
という他人の動きに追従したことが原因になっている。

空観方程式に従えば、上記のような不具合や不安を未然に防止
することができる。




写真は実体のない逆格子空間と呼ばれる虚数空間立体像の例で、
空観方程式の結果と同じシュミレーションの空間として使われている。

身を捨ててこそ 身をも助けめ    西行

2010年05月28日 | 読書・TV感想
『惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは
      身を捨ててこそ 身をも助けめ』                 
                        西行

いくら惜しんでも惜しみ通すことはできないこの世の中です。
身を捨ることこそが己を救う道でしょう。



ここでも「どうするか」(空)と「どうなるか」(色)の関係性であって、
「色不異空、空不異色」 「色即是空、空即是色」です。
「身を捨ててこそ(空)、幸せ、本質を感じる(色)ことができる」
「人生に向き合う覚悟」「身を捨てる覚悟」のようなものが有ればこそ、
むしろ不安から離別できて、本質、真実が見えてきて、安心につながる
のでしょうか...


一般には家族のためにも「身を捨てる」いわば出家する生き方は
できませんから、生活に不安がない範囲で「どうするか」を
決めるしかありません。
しかし精神的に余分なもの、どうでもいいことを捨てることは
できます。
いわば空の状態であればこそ本質が見えてくる(色)。
まっさらで純粋であればこそ運命を受け容れられる。
従って「もっともっと」が有ればこそ、「身を捨てる」という関係性
でしょうか。
それによりまた新たな世界が見えてくる。
「もっともっと」と思っていても、「もっともっと」だけでは思い通りに
行かないこの世では、
精神的に余分なものを捨て、幸せになるためだけに働くことを捨て、
幸せを感じることのできる生き方、感謝により自身が納得できる生き方、
謙虚さのある生き方、本質が浮びあがってくる生き方を目指す。
例えば豪邸ではなく、くつろぎや癒しを目指した上での生き方、
仕事でしょうか。



脳梗塞(こうそく)からの“再生” ~免疫学者・多田富雄の闘い~
2005年12月4日

NHKアーカイブス「免疫学者 多田富雄の遺(のこ)したもの」
2010/05/30

「運命を受け容れる力」
それは全部捨てる気持ち。一種の悟りである。
そのせいか新しい自分を積極的に生きようと思った。 多田富雄



仏教では「舎得」のことを「あげてこそ、もらうことがある」と説いている。