こうした世界だからこそ我らは
生きている。
誕生間もない初期の宇宙は
温度が非常に高く、
「対称性」の保たれた均一な世界だった。
やがて、
宇宙が膨張して冷えはじめ、
ある温度以下になったとき、
粒子に「質量」を与えることになった。
種々の粒子がこの世に出現して、
原子や分子が誕生した。
それら原子や分子が
さまざまに結合することで
各種の物質が生まれ、
いつしか有機物が登場する。
やがて生命が誕生し、
私たち人聞が存在するようになった。
物理学者のナッシム・ハラマイン氏によると、
「宇宙空間は虚空ではなく、
エネルギーに満ちている」と。
何もないとは真空であるが、
眼に見えなくても
エネルギーに満ち溢れている世界。
しかも普通の物質は
宇宙の膨張とともに薄まるが、
そうした真空エネルギーは薄まらない。
従って、真空のいたるところで
多数の粒子がひんぱんに出没している。
要は、人間の眼に見えない
感じることしかできない
高次の世界によって、
次々に作られる世界だ。
宇宙が加速膨張していても、
真空エネルギーにより
回り舞台の回転速度は今でも
遅延することなく一定だ。
そして仏教の「空」も、
「感じることしかできないが
存在しているもの」(佐々木閑)である。
その満ち溢れたエネルギーにより
人間は自発的に現れる時空や粒子、
即ち「色」を初めて目の前にする。
いわば我らは回り舞台の上に
立たされているようなものだ。
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている。
つまり、
目の前に現れてきた「色」という
回り舞台の上で、
どのように振る舞うかという
ことになるわけだ。
いうなれば
与えられたものが回り舞台で、
課せられたものが振る舞いだ。
そこで
(V,E,フランクル)によれば、
「それでも人生にイエスという」より
生きるとはいつでも
課せられた仕事なのである。
私たちの可能性は制約されている。
が、こういう事実のおかげで、・・・
どのような態度をとり、
どうふるまうのか、により
人生に意味がある。(意味が生まれる)
従いそれは次から次へと際限なく
目まぐるしく変化する回り舞台だ。
その回り舞台の回転速度は一定だ。
モットモットと思っていても、
舞台の方はそれには構わず、
次から次へと変わってゆく。
舞台の風景がすっかり
変わってしまっているのに、
モットモットのままでは
破綻するのは明白だ。
例えば、
もっと崇高な生き方は?といわれたって、
比較しているひまなど少しもない。
できる時にはできるように、
できないときにはできないように。だ!
ある時はあるように、
ない時はないように。だ!
自然には逆らえないと
よくと言われるように、この世の
真空エネルギー、あるいは回り舞台
には逆らえない。
「柳は緑 花は紅」
これ以上の(比較する基準がないから)
生き方は存在しなし、目的もない。
ところで科学の発達によって、
人間は必ず間違った見方をするものだ
ということも解ってきた。
人間は言語や文字の伝達能力を獲得したが、
その代償として悩める存在となった。
即ち苦を自覚しながら(悩みながら)
生きることとなった。そこから
死や老化の自覚からの逃避により、
あるいはまた象の鼻が長くなったように、
人間は目先のことを優先する脳となった。
将来のことよりも現在の状態、
他人の事より自分の事を優先する特性だ。
その為に自分中心(自己都合)という
思い込みするようになった。
そこからモットモットが幅を利かす。
いうなれば生きる為の、
パニックにならないための防衛手段
という進化だ。
人間も
何かに最終的に到達することを
目指して生きているわけではない。
生きるために
いろんな事をしなければならない。
生きるための目的ではなく、
生きることが目的である。
即ち生きるために生きる。(更科功)
自己都合とは異なる回り舞台の上で、
こうした無常の世界だからこそ我らは
生きていられる。
参照:「天の扉開き」
生きている。
誕生間もない初期の宇宙は
温度が非常に高く、
「対称性」の保たれた均一な世界だった。
やがて、
宇宙が膨張して冷えはじめ、
ある温度以下になったとき、
粒子に「質量」を与えることになった。
種々の粒子がこの世に出現して、
原子や分子が誕生した。
それら原子や分子が
さまざまに結合することで
各種の物質が生まれ、
いつしか有機物が登場する。
やがて生命が誕生し、
私たち人聞が存在するようになった。
物理学者のナッシム・ハラマイン氏によると、
「宇宙空間は虚空ではなく、
エネルギーに満ちている」と。
何もないとは真空であるが、
眼に見えなくても
エネルギーに満ち溢れている世界。
しかも普通の物質は
宇宙の膨張とともに薄まるが、
そうした真空エネルギーは薄まらない。
従って、真空のいたるところで
多数の粒子がひんぱんに出没している。
要は、人間の眼に見えない
感じることしかできない
高次の世界によって、
次々に作られる世界だ。
宇宙が加速膨張していても、
真空エネルギーにより
回り舞台の回転速度は今でも
遅延することなく一定だ。
そして仏教の「空」も、
「感じることしかできないが
存在しているもの」(佐々木閑)である。
その満ち溢れたエネルギーにより
人間は自発的に現れる時空や粒子、
即ち「色」を初めて目の前にする。
いわば我らは回り舞台の上に
立たされているようなものだ。
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている。
つまり、
目の前に現れてきた「色」という
回り舞台の上で、
どのように振る舞うかという
ことになるわけだ。
いうなれば
与えられたものが回り舞台で、
課せられたものが振る舞いだ。
そこで
(V,E,フランクル)によれば、
「それでも人生にイエスという」より
生きるとはいつでも
課せられた仕事なのである。
私たちの可能性は制約されている。
が、こういう事実のおかげで、・・・
どのような態度をとり、
どうふるまうのか、により
人生に意味がある。(意味が生まれる)
従いそれは次から次へと際限なく
目まぐるしく変化する回り舞台だ。
その回り舞台の回転速度は一定だ。
モットモットと思っていても、
舞台の方はそれには構わず、
次から次へと変わってゆく。
舞台の風景がすっかり
変わってしまっているのに、
モットモットのままでは
破綻するのは明白だ。
例えば、
もっと崇高な生き方は?といわれたって、
比較しているひまなど少しもない。
できる時にはできるように、
できないときにはできないように。だ!
ある時はあるように、
ない時はないように。だ!
自然には逆らえないと
よくと言われるように、この世の
真空エネルギー、あるいは回り舞台
には逆らえない。
「柳は緑 花は紅」
これ以上の(比較する基準がないから)
生き方は存在しなし、目的もない。
ところで科学の発達によって、
人間は必ず間違った見方をするものだ
ということも解ってきた。
人間は言語や文字の伝達能力を獲得したが、
その代償として悩める存在となった。
即ち苦を自覚しながら(悩みながら)
生きることとなった。そこから
死や老化の自覚からの逃避により、
あるいはまた象の鼻が長くなったように、
人間は目先のことを優先する脳となった。
将来のことよりも現在の状態、
他人の事より自分の事を優先する特性だ。
その為に自分中心(自己都合)という
思い込みするようになった。
そこからモットモットが幅を利かす。
いうなれば生きる為の、
パニックにならないための防衛手段
という進化だ。
人間も
何かに最終的に到達することを
目指して生きているわけではない。
生きるために
いろんな事をしなければならない。
生きるための目的ではなく、
生きることが目的である。
即ち生きるために生きる。(更科功)
自己都合とは異なる回り舞台の上で、
こうした無常の世界だからこそ我らは
生きていられる。
参照:「天の扉開き」