空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

宇宙が加速膨張していても、 回り舞台の回転速度は一定だ

2022年06月17日 | 読書・TV感想
こうした世界だからこそ我らは
生きている。

誕生間もない初期の宇宙は
温度が非常に高く、
「対称性」の保たれた均一な世界だった。
やがて、
宇宙が膨張して冷えはじめ、
ある温度以下になったとき、
粒子に「質量」を与えることになった。
種々の粒子がこの世に出現して、
原子や分子が誕生した。
それら原子や分子が
さまざまに結合することで
各種の物質が生まれ、
いつしか有機物が登場する。
やがて生命が誕生し、
私たち人聞が存在するようになった。





物理学者のナッシム・ハラマイン氏によると、
「宇宙空間は虚空ではなく、
エネルギーに満ちている」と。
何もないとは真空であるが、
眼に見えなくても
エネルギーに満ち溢れている世界。
しかも普通の物質は
宇宙の膨張とともに薄まるが、
そうした真空エネルギーは薄まらない。
従って、真空のいたるところで
多数の粒子がひんぱんに出没している。

要は、人間の眼に見えない
感じることしかできない
高次の世界によって、
次々に作られる世界だ。




宇宙が加速膨張していても、
真空エネルギーにより
回り舞台の回転速度は今でも
遅延することなく一定だ。

そして仏教の「空」も、
「感じることしかできないが
存在しているもの」(佐々木閑)である。
その満ち溢れたエネルギーにより
人間は自発的に現れる時空や粒子、
即ち「色」を初めて目の前にする。

いわば我らは回り舞台の上に
立たされているようなものだ。
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている。
つまり、
目の前に現れてきた「色」という
回り舞台の上で、
どのように振る舞うかという
ことになるわけだ。

いうなれば
与えられたものが回り舞台で、
課せられたものが振る舞いだ。

そこで
V,E,フランクル)によれば、
「それでも人生にイエスという」より
生きるとはいつでも
課せられた仕事なのである。
私たちの可能性は制約されている。
が、こういう事実のおかげで、・・・
どのような態度をとり、
どうふるまうのか、により
人生に意味がある。(意味が生まれる)


従いそれは次から次へと際限なく
目まぐるしく変化する回り舞台だ。
その回り舞台の回転速度は一定だ。
モットモットと思っていても、
舞台の方はそれには構わず、
次から次へと変わってゆく。

舞台の風景がすっかり
変わってしまっているのに、
モットモットのままでは
破綻するのは明白だ。





例えば、
もっと崇高な生き方は?といわれたって、
比較しているひまなど少しもない。

できる時にはできるように、
できないときにはできないように。だ!

ある時はあるように、
ない時はないように。だ!

自然には逆らえないと
よくと言われるように、この世の
真空エネルギー、あるいは回り舞台
には逆らえない。
「柳は緑 花は紅」
これ以上の(比較する基準がないから)
生き方は存在しなし、目的もない。



ところで科学の発達によって、
人間は必ず間違った見方をするものだ
ということも解ってきた。
人間は言語や文字の伝達能力を獲得したが、
その代償として悩める存在となった。
即ち苦を自覚しながら(悩みながら)
生きることとなった。そこから
死や老化の自覚からの逃避により、
あるいはまた象の鼻が長くなったように、
人間は目先のことを優先する脳となった。
将来のことよりも現在の状態、
他人の事より自分の事を優先する特性だ。
その為に自分中心(自己都合)という
思い込みするようになった。
そこからモットモットが幅を利かす。
いうなれば生きる為の、
パニックにならないための防衛手段
という進化だ。


人間も
何かに最終的に到達することを
目指して生きているわけではない。
生きるために
いろんな事をしなければならない。
生きるための目的ではなく、
生きることが目的である。
即ち生きるために生きる。(更科功)

自己都合とは異なる回り舞台の上で、
こうした無常の世界だからこそ我らは
生きていられる。







参照:「天の扉開き」
コメント

我らが感じられないところに高次元の世界がある

2022年06月01日 | スクラップブック
電子スピンはコマのように
自転していて、
それは永久に止まることはないし、
止めることも出来ない。
その電子スピンの向きによって
磁性が現れる。
しかし
電子は粒子でもあり波でもあるという
現実により、大きさの概念がない。
従い電子の姿は感じたままの想像図
となる。




電子スピンは
トップスピンとダウン(ボトム)スピン
それに重ね合わせのスピンの3種である。
トップどうし、ダウンどうしの
重ね合わせは存在できない。
また、トップスピンとダウンスピンが
隣り合うと、重ね合わせの状態となる。
ただし
重ね合わせの姿・形も観察ができない。



磁性が現れたり磁性がなかったりするのは
電子スピンによって決まる。
そしてスピンの向きは外的要因により
簡単に変えることができる。




ボトムスピンとトップスピンが
同数であったり
スピンが重ね合わせの状態であれば
磁性は現れない。



金属原子一個当たりの
スピン配列により磁性が現れる。
下記に鉄原子の例を示す。








従って金属の結晶構造によって
決まった磁性が現れる。







要は
人間の眼に見えない電子の
重ね合わせの分布によって
磁性の状態が決められて
現れているということだ。







ところで
最近流通していると思われる
般若心経「空」の表現のなかに、
「感じることしかできないが
存在しているもの」佐々木閑
というのがあった。
より高次元の世界が
我らが感じられないところにある。
というものだ。

これはまるで
量子の重ね合わせの世界のようだ。
量子世界の重ね合わせとは、
英語ではsuperpositionといって
やはり高次元の世界だといっている。

重ね合わせの姿は
想像図や数式においては
シュミュレーションとしての
表現が可能であるが、
実体として見ることはできない。
そもそも電子自身が
「粒子でもあり波でもある状態」
であり、これも
実体として見ることはできない。


ブラックホールも
「感じることしかできないが
存在しているもの」である。
人間はそこから自発的に現れる時空、
即ち関係性の縁起やら関係者を初めて
目の前にする。
それが「色」というもので表現される。
具体的には重力波が観測されている。
その時空の世界の複素状態、
時空のゆがみと時空の変化とが
ふたたび重ね合わせとなった状態が
元の「空」なのであろう。






さて、
合成と分解の動的平衡状態から
生命が生まれ維持される。
重ね合わせとは異なり
互いに対抗する複素状態が
順次入れ替わり発生する状態だ。
このような状態の中で
少しだけ「分解」の方を
先回りさせる(福岡伸一)だけで、
生命は変えることのできない
エントロピー増大の法則と
折り合うことが可能となる。

一方、重ね合わせの世界では
動的平衡とは異なり
対抗する複素状態が順次現れてくる
とは限らないのだが、
動的平衡状態と同様
生命はどうすることもできないことと
共存しながら生きている。

要するに
人間は動的平衡状態から生まれて、
重ね合わせの状態から出現する
人生とか運命のような
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている
ということだ。
自然には逆らえないと
よくと言われるように、
量子の重ね合わせには逆らえない。




人間が高次元の世界、つまり
変えられない世界を相手にするとき、
目の前に現れてきた「色」という
舞台の上で、
我らがどのように振る舞うかという
ことになるわけだ。即ち
共存する法則とどのようにして
折り合うのかということだ。



人間の日常も
成功や失敗、喜びと悲しみ
の変えられない世界、即ち
重ね合わせから生まれる。

そうした「空」と「色」の
変えられない関係から、
ミスや悲しみのない世界だけを
追求したのでは破たんする。
変えられないことを
変えようとしてしまえば、
死ぬまで苦しむことになる。
無くしてしまえと思わないことだ。
量子のスピンや重ね合わせは
無くならない。
ミスや悲しみとは
乗り越えようとするのか、
(バックアップしておく)
折り合いを付けようとするのか
のいずれかだ。

成功や失敗、喜びと悲しみ
の繰り返しの世界で生きている。
そのことに気が付けば、
いつまでも
悲しみに暮れていても始まらない。
成功や喜びも同様に生まれている
ことが認められれば、次には
チャレンジしようという意識が
生まれる。



どうすればよいのか?
動的平衡状態の時と同様に、
少しだけ
心の老廃物の分解を
先回りさせればいい。
それは
重ね合わせの状態を知ることから
始まる。
superpositionといって
変えることのできない
高次元の世界を知ることから始まる。

そしてそこから新たに生まれてくる
秩序やら意識から希望が生まれる。
そして少しずつ、楽しいことを
増やしていく。

低次元の中で、何かにしがみついたり、
何かにこだわってしまっているのは、
コップ(想像上の秩序)の中で
泳いでいるようなものだ。

いい時もあれば悪い時もある。
それは変えられない人生の舞台だ。
悪いことの回避だけに邁進するのではなく、
いい時もあれば悪い時もある。それが
高次元の存在を知ることから生まれる
囚われからの解放だ。


「あるがままに」と思ったとたん、
あるがままではなくなる。
「あるがまま」を捨ててこそ、
あるがままになれる。
それが
少しだけ「分解」の方を
先回りさせるということだ。

自分というものを捨ててこそ、
本当の自分というものになる
ことができるということか。

親鸞も
「無義の義」といって、
こうでなければならぬ!や、
こうあるべきだ!を捨てたところにこそ
本当のあるべき姿が現れる。


西行も
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな
身を捨ててこそ 身をも助けめ」
と詠んでいて、いささかこじ付け的ながら
量子の世界と共通するところがある
ように思えた。











スピンの想像図

コメント