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空観方程式

「色」での重ね合わせによる相互作用で共感・共鳴が生じ、「空」としてのエネルギーで新たなる生命力の姿が実体化される。

何を守って生きてゆく?

2023年07月02日 | 読書・TV感想
朝ドラ「らんまん」 (65回よりの文字おこし)

家というのはなんじゃろ
血筋、金、格式、何を守ってきたがじゃろう
それより今ここにおる 
おまんらが幸せなのが肝心ながじゃ
この先も健やかに幸せに生きていく
家の願いじゃのうて己の願いに生きていくことが....


今更なんじゃ!
これまで散々本家と分家を区別して
わしら分家を見下してきたがは誰じゃ!


わしがそうさせてきた、けれど時が変わった
この先は本家分家と上下の別なく互いに手を取りおうて
商いに励んでいってほしい






役に立つ観念かどうかは人間が決めるのではなく、
自然環境や偶然のめぐり合わせが、そして何よりも
その場その時代での外的環境によって作用される。
例えば時代の移り変わり、感情、インパクトである。
従って、その時代には命がけで守り続けていた
絶対的な観念でさえも、
もともとは無価値なものであったとの立場が
ここでも一層鮮明になる。









人々は何を恐れ何を守って生きてきた?

本家分家の区別を守ることで
村組織・秩序を守ってきた。
自由や平等の観念が犠牲となるけれど、
それよりも従来のしきたりの方が役に立つ。
即ち誰もが決められた秩序で定められた
作業をこなしてゆけば、
誰もが食う事に困ることがない。
長年にわたって
従来通りの変化のない秩序が保たれる。
昔からの役割分担で、
定められた取り分でお互いが納得して
生きて行ける。
これが戦もなく、
もめ事もなく平和で何よりだった。

集団での組織防衛には
格差や差別の問題が付きまとうものだ。
何よりも
活気や熱意には格差や差別が障害となる。
特に我が国においては鎖国の状態では、
活気や熱意よりも、波風の立たない
競争の無い整然とした秩序の方が
役に立つ状態が長期間続いた。

ところが産業革命は、
世界的な交流が活発になるにつれ
国家の力や富の大きさが注目される。
やがて商工業の発展は、村から都会に
出ることで現金収入と自由が得られる
という認識が拡散する。この外部環境が
長年続いた村の掟の観念を打ち砕く。
格差や差別の観念と相まって、
大勢が同一の新たな観念を共有し
熱狂してしまう。

一方、
尊王攘夷など信条や正義の観念では、
正しいか正しくないかの一辺倒となって、
人間が多数の観念を勝手に序列化してしまう。
この場合は必ずモットモットとなって、
パワーバランスが崩壊したという外部環境の中で
不安定で悲惨な道に進んでしまいがちだ。

従って、進化の法則と同様に、
血筋を守る観念も、接ぎ木による新たな観念も
正義、信念、自由や霊魂、お家の観念も、
無限にある観念を同列に扱って序列化しない。
その中から人間が価値を決めるのではなく、
外部環境がその場その時で
選別・淘汰し、ただそれを繰り返すだけだ。

一旦秩序が崩壊すれば、革命的な改革がない限り、
平和な秩序に戻ることの保証がない。
富国強兵をあきらめて、元の村秩序に戻ることは
ほぼ不可能だ。




人間が考える観念の序列

「観念は無価値である」と唐突に主張しても
直ぐには受け入れられない。
こういう場合には事例で示すのが良い。
象徴的には独裁政治の中で
被支配者達が正しいか正しくないかを主張しても、
聞いてもらえないのなら価値がないのと同然だ。
独裁政治と同様な立場にある外部環境が
人間の観念を評価・選別するのであれば、やはり
人間にとって観念は価値がないのと同然だ。
無価値なものを都合で序列化しても無意味だ。
進化でも同様に、
勝手に人間が序列化した進化の図は誤りとされる。
(下図)
要は無価値なものだと自覚したうえで、自分に合う
観念を選択し、肯定してゆくことだ。
失望したり後悔したりすることがなくなるために。
それが「らんまん」での脚本に今回登場した
ということだ。










参考:
東京八王子南大沢にある牧野標本館には
おびただしい実物標本(16万点が収蔵)が保管され
データべース化されている。
参考に牧野博士が宮崎、高知、岩手早池峰で採取した
スイフヨウヒメウコギカトウハコベ
データベースにリンクする。
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人間が考える観念に価値がないとすれば分別が無くなる

2023年06月27日 | 読書・TV感想
人間が考える観念について
奈良富雄丸山古墳から盾と刀剣が出土した。
盾の防御性や鏡や剣の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念の存在を示すものだ。



物品を死者と共に埋葬しとうとする観念は
我が国のみならず古代文明発祥の地からは
多数発掘されており、人間共有の観念だ。
死者を丁寧に葬ることと次の世界での
安寧を求める姿勢でもある。
しかし科学技術発展の環境変化により
物品の埋葬が必ずしも丁寧な埋葬と
結びつかない状況となった。
ところが
物品が伴わない観念については
環境の変化にも関わらず
今なお多くの人々によって肯定されている。
観念は「楽しいから」「楽になるから」などが
一般的であるが、
「観念の通りに行動しないから悪いことが起きる」
と言われれば、ブラックスワンの証明と同様に
反証できない。そしてその点を利用して
【カルマ(業)を浄化し、新しく生まれ変わりたいあなたへ】
こうした商売上のうたい文句が堂々と貼り付けられたり、
場合によっては
高額なツボを購入させたりする違法性の商売迄
いまだに存在する。ここではそうした
輪廻転生や無分別の観念について考察する、






思い込みやトラウマ、
常識といったこともすべて観念だ。
観念とは人間の考えたものでありながら、
役に立つかどうかは人間ではなく、
自然選択と同様に、感情や経験などを含む
生き残りやすかったかどうかの
外部環境が決める。
感情や経験の種類は無限にあるので
観念も無限に存在する。
さらに「観念」自体には
善い・悪いという判断は存在しない。
なぜなら、善と悪も観念に過ぎないから。
観念の間に善悪の差がないのであれば
進化の枝分かれと同様に
無限に枝分かれして同格で存在する。

しかし、
辟邪(へきじゃ)の観念と
無分別(平等)の観念を比べると,
無分別の観念の方を役に立ちそうな
優れた観念と感じてしまう。
このように勝手に分別・序列化してしまう。
自分のみに特化された外部環境の中で
役に立つ観念は存在することを意味する。
さらには自分の力では何ともしがたいような
困難を経験すると
信仰の観念にも強く引き寄せられる。
信仰は科学と異なり、
無いことの証明ができない関係性から
「こうなっている!」と断定することが可能だ。
(目的論的世界観)
信仰をもつ人がどう向き合い、生きたのか。
多数の語りの中に同一の観念が生きる。
例えば
仏教では無分別という「空」の観念のほかに
「因果応報」という教えの観念がある。
縁が来たときに、因と縁が和合して、
因果応報によって目に見える運命となって現われる。
現在の出来事は過去の結果であり、
現在の行為は将来の原因になる。そして
善い業(善行)には良い結果が、
悪い業(悪行)には悪い結果が訪れるとされる。








さて、輪廻転生の観念においても
善い行いと悪い行いは、
一つ上の状態である「業」という
過去の行いに依存して決められる。
輪廻転生の思想に業(カルマ)という状態を
結びつけた(生み出した)点が止揚の思想
(弁証法)と同一である。
良いことも悪いこともむくい、すなわち
業のはたらきによって生じると説く。
しかし
人間の観念を序列化しない無分別の
観点から眺めれば、善と悪とを
別の世界であるカルマの世界で決めている。
輪廻転生とカルマの間で
分別・序列化がなされている。
カルマの世界を特別扱いしているようなものだ。
本来は
偶然に引き起こされた結果においても、
因果応報に結び付けられてしまう。
善い結果と悪い結果が分別されて
過去の行いとに結び付けられる。
偶然の結果ということは、例えば
恐竜が絶滅して哺乳類が勢力を付けたことや、
地球に生命が誕生したことなど。
そもそも進化の多様性は突然変異という偶然に依って
引き起こされた様に、かなりの頻度になると思われる。
キリンの首が長いのも、象の鼻が長いのも偶然に依るものだ。
にもかかわらず、
因と縁によって引き起こされた結果であると
強く断定されてしまう。その結果
生まれ変わってやり直すといった
思い込みに依る観念が誘発されてしまう。

「因果応報」の観念においても、偶然という要素を
取り入れなければならないだろう。
因と縁が和合する場合に、
何らかの偶然が働いた結果が引き起こされることもある。
種と田んぼから米が作られるだけでなく、
種と田んぼから大豆が生まれる場合だって考えられる。
同様に
善い業(善行)には良い結果だけでなく、
何らかの偶然に依って、
善い行いから悪い結果が引き起こされる場合もあるし、
悪い行いから善い行いが訪れることもありうる。
進化の突然変異から見れば何ら不思議なことではない。







西洋の哲学者ニーチェは「永劫回帰」の中で
「人間の観念には価値がない」といった。
全てに価値がないのであれば分別しようがなく、
「無分別」の教えに近づく。
そうであれば人間の観念に進化の法則と同様に
序列化は存在しない。
辟邪の観念と無分別の観念は同格として存在し、
因果応報も同様に価値の序列は無く同格である。
哲学を引き合いに出すまでもなく、そもそも
善い悪いの基準も曖昧であり、
かつ偶然を考慮すれば、確かに
固定化された価値など存在しない。これは
独裁政治の中で善い悪いを論じても
意味が無いのと同様である。
人間に役に立つものかどうかを
独裁政治のような外部環境が決めるのであれば
人間が考える観念には価値がない。

無限にある観念を
序列化することに価値がないのであるならば、
カルマの世界が輪廻転生の世界から
序列化されて尚、善悪を決めていること自体が
無価値であるということだ。一方
全ての観念には価値がない訳ではなく、
中には自分の経験上において
役に立つ観念も確実に存在する。
ご先祖様がこの世に帰ってくるという
盆の観念により、親子や孫と親交の機会
となってとても有用である。
無限の観念の中から
自分に役立ちそうな観念を選択して、
自分のものとして再定義し肯定する。
いずれにせよ、
他の大勢が肯定している観念に
惑わされないことが重要だ。

社会や他人からけし掛けられたありもしない
観念にとらわれて、達成できなくても、
あるいは
無益な価値判断を押し付けられても、
失望したり、余計な不幸を背負わなくてもいい。
今この瞬間を味わって力強く生きることだけだ。
過去のことをクヨクヨと悔やんだり、
将来をアレコレ心配する必要がなくなる。
















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親鸞の「無義の義」とニーチェの「永劫回帰」の類似

2023年05月12日 | 読書・TV感想
[起]
法然上人は
「他力には義なきを義とす」といった。
また親鸞上人は
「念仏には無義をもって義とす」歎異抄第10章
といった。
哲学者ニーチェは
「世界は何度でも繰り返される。
意味を持たず、目的もない。
すべてが無価値である」
といった。

いずれも
人間にどのようなはたらき方をするかが述べられる。


[承]
親鸞は心の信心に触れ
「義」を「はからい」と訓読し、
自分の人生の意味を考え、価値を計ること
「はからい」を超えるようにと呼びかけているのが
親鸞の他力「念仏」だ。
無義の世界とは
計らいがきれいになくなる世界(無礙の一道)。
「むなしさ」を超えるはたらきが得られる。
「本願力にあいぬれば」ということは、
それは人間の価値基準のこころを、
もはやあてにしないということだ。
人間が意味があるとかないと決めているのは、
すべて人間の価値基準の範囲内のことであって、
リンゴは「赤い、丸い、甘い」といった価値基準のことだ。
同様に「役に立たぬものは意味がない」というのも
人間の価値基準だ。
我らはそうした価値基準によって苦悩する社会に住む。
親鸞の思想は人間の価値基準の世界を超越した視点であり、
本来、人間の考える義というものは無いとする考え。



ニーチェの「永劫回帰」では、
「あらゆる出来事が同じ順番で、永遠に繰り返し起こるような世界像」
世界は意味を持たず、ただあるがままに永遠に繰り返される。
世界には目的もない。
人と人の間に起こるうりとあらゆる出来事を
それまでの人間社会にある価値観に捉われず
個人で再定義することで、
より良い毎日の体験をもたらすことができる考え方である。
神が世界と万物を 「創造」 したように、神も
形而上における人間の価値基準なのだ。


[転]
時間が無限にあって、物質や原理・法則は有限であれば
繰り返しが発生する。
そもそも進化の法則そのものが繰り返しの法則だ。
進化の歴史を遡ってリプレイさせてみても
地球環境が同じであれば、同じ枝分かれが発生すると
科学者は考えている。(J・B・ロソス)
進化は同じように繰り返されうる、ということだ。
進化の枝分かれは繰り返しの結果なのだ。
それは終わることがない。
そもそも生命そのものも分解と合成、解体と構築を
繰り返すことでエントロピーの法則に対抗している。
動的平衡状態(福島伸一)
ただ無機質に繰り返すのみのシステムである。




進化によって新たな価値が生まれるが、
その価値のみにこだわってしまえば進化は停止する。
むしろ価値を認めずに繰り返しを継続することが
生きていることになる。
繰り返しの継続によって次から次へと進化の枝分かれが生成される。
意味があるからそうしている。
やらないリスクはやるリスクより大きいからだ。
少なくとも一つの価値にこだわり、その価値を渇愛すれば、
他はやらないというクローン的な進化となる。
無価値だからこそ次から次へと繰り返す。
諸行無常のごとく常に変化して繰り返しているのであれば
変わらぬ価値など存在しない。
仏教でも執着しない、
こだわらないが基本的なスタンスだ。


[結]
親鸞は絶対他力による救済、ニーチェは自力での救済で
異なる点があるものの、
人間の価値基準の存在を否定し、
無条件での救済という点においては一致している。
信じることで救われる、あるいは
念仏唱えれば救われる、という条件付きではない点だ。
即ち全てが無価値であるというところに価値を見出す。
無価値であれば渇愛はしないであろう。

後付けで設定された価値観は人間の都合によって変化する。
従い意味があると思った価値観はその場限りのものだとして
振る舞うべきである。
要は他に押し付けたり、渇愛したりしないことだ。
そうすることで
お金の為にあくせくしないし、後悔もなくなる。
現在の自分を肯定する以外に、何かを守る必要もない。
人間は自己との出会いや発見で救済される。
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業の花びら

2023年04月01日 | 読書・TV感想
人間は誰でも多かれ少なかれ
業を背負って生きている。

賢治は嫁をとらぬという
業の花びらを
空いっぱいに投げ上げた。

没後90年特集 業の花びら
〜宮沢賢治 父と子の秘史〜
ドキュメンタリー/教養
2023年3月24日 NHKBSプレミアム


何が起きるかわからない人生、
どうして
このようになるのかわからない人生、
将来の不安を解消するために、

業の花びらという信仰により
受け入れ折り合うのか、
あるいは
現実とロマンという二項対立により
現れた観念・物語により納得するかだ。


古墳から出土する剣や鏡は
邪気を払うという観念が古来より
生まれて存在していたことを示す。
即ち死という現実と、
盾の防御性や鏡の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念だ。


二項対立から新しい観念が生まれる。
夜が来るから朝が来る。
電子スピンのように人生の
回り舞台が回り続けるかぎり、
エネルギー保存則のように
良いことも悪いことも、姿を変えて
現れてくるのが自然の摂理だ。
そこから新たなストーリーが生まれる。


一方の仏教では
良いことも悪いことも
むくい、すなわち
業のはたらきによって生じる
と説く。
賢治は真理と現実世界のギャップ
の中で悶絶し、
そのギャップが生じる原理を
知ることで、業の花びらを
空に向かって投げ上げるしか
方法がなかった。

そして
どう向き合うべきかを考え、
現実とファンタジーの二項から
悲しみを乗り越え、
苦悩と折り合う方法を見つけた。

人間は本当に苦しい時に
「幸せとは何か」と問うものだ。

ファンタジー と現実との融合、
重ね合わせとは
「心に伝わるもの」が共鳴して調和し、
ポジテイブなものに変える
「色即是空」の部分である。
ファンタジー と現実との一体化であって、
野に咲く花がささやいているように感じ、
あたかも感謝しているように花を咲かせ、
ダイアモンドの様に輝く。そのような
「生の高揚」につながる。

内部にある喜びの感情に降り注ぎ、
強めていく。
美しい言葉が美しさを与え、
高貴な言葉が高尚にし、
強い言葉が力を与える。
生きているものは積極的なものであり、
過剰なエネルギーを生み出す物質空間
なのである。


ニーチェの「永劫回帰の思想」は、
「エネルギー保存の法則のもとで
万物が運動すると、
永遠に時間がたてば
また元の状態がやってくる」
何度も何度も
永遠に繰り返されるという思想。

始まりがあれば終わりもある。
最悪の事態も含めた
自分の人生を肯定して、
それを受け入れて
絶えず創造的にクリエイティブな
パワーにあふれて生きていける人。
それが
自分の人生が最悪であっても、
それを受け入れて超人となる
「空即是色」の部分であって、
まさに「永遠回帰の思想」だ。
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桜は散るから美しい

2023年03月20日 | 読書・TV感想
散ればこそ いとど桜は めでたけれ
憂き世になにか 久しかるべき

伊勢物語

散るからこそ、いっそう桜は美しく
素晴らしい
憂い世に、いつまでも変わらぬ
永遠なものはない

 
桜散るという現実と
桜咲くという
美しきめでたきロマンとが
一体となって、
心にはいっそうの愛着が生まれる


2020年5月23日(土)放送の
「静かに咲く 弘前公園の名桜」
NHK BS4K
コロナ対策で閉鎖された無人の公園で、
閉鎖となった弘前公園の桜の様子。
変わらず咲き誇る桜を愛でる。
2023年3月20日再放送より




夜があるから朝が来る
色即是空があるから
空即是色が現れる

夜は寝るためにある
歌は歌うためにある
朝はもう一度生きるためにある
(辻仁成のことば)
だから夜から朝へつながることで
いっそう
朝のありがたさがかみしめられる。





諸行無常の憂い多き世においてさえ
ロマンと現実とが一体となることで
かえって美しさが現れて
乗り越えられる。

やがては散りゆく桜とむしろ
折り合うことができる。




スポーツでの勝ちと負けにおいても
同じであって、
競技で勝つことだけが楽しみではないはずだ。
勝ったり負けたりすることで成長できる
ことが楽しいのであって、
勝つことだけが楽しみになってしまった
指導者は、
競技中でのペッパーミルのしぐさを
禁止してしまう


勝つことが目的となってしまっては、
乗り越えることが困難であるし、
負けることと折り合うことができない。
勝つことと、負けることがあって
お互いを気遣う心が生まれるものだし、
自分の得意なものを発揮するとの方から
諦めない心が生まれ、かえって
一生懸命になって継続できるものだ。




 
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厭離穢土 欣求浄土の二項

2023年02月15日 | 読書・TV感想
NHK大河ドラマ「どうする家康」
で取り上げられた松平家の菩提寺は
岡崎市の大樹寺である。
若き家康(元康)が将来に絶望し、
切腹しようとした際に、
寺に掲げられた
「厭離穢土 欣求浄土」によって
「汚れた世をただす」として、
万民の苦しみを無くする姿勢に
再起を決意したとされる。


「厭離穢土 欣求浄土」は単に
戦争反対、平和賛成ではない。
あるいはまた、
天下を武力でもって制する
でもない。
何故
切腹を思いとどまったのであろうか。


以下は其の講座からの抜粋である。
松平元康は桶狭間の戦いで
今川義元が討ち死した事を知り、
命かながら大樹寺に逃げて帰ってくる。
そこで将来に絶望し、
先祖の墓前で切腹自害しようと
その時の住職に告げる。
寺の住職は
若い時から戦場に向かっておるけれども、
その心はただ敵を殺すだけにあるのか?と
元康は、
自分で勇気を振い起こして、
功をたてて、城を落として、国を奪わんとすると。
最後は天下を領せんという事が目的である。
寺の住職は
天に得ざるの国を強奪するというのは、
これ盗人の所為ではないか。
万民のために天下の父母となって
万民の苦しみを無くする
というような事をしていかなければいけない。
そういうことを懇々と諭されて、
時の元康自身は、その大慈大悲の心というもの、
仏教の心というものをはじめて悟る。
そうして
将来安定した日本の国を作るためには
どうあるべきかという事を悟った。

戦乱の根となるものは
全て所有欲からくるわけで、
家康公はその後半生でこれに気づいた。
所有したかにみえるのは
実は預かり物であると。
人間は元来無一物というのは
仏教的な考えが根底にある。

「岡崎学―岡崎を考える―」講座
2006 年 12 月 23 日
「厭離穢土 欣求浄土~家康公の平和思想~」
大樹寺 責任役員 成 田 敏 圀




単に勝つだけの戦いではなく、
戦い(武力)と浄土(平和)の
二項があってはじめて
新しい心が生まれる。
勝つことだけが目的で戦う
自己都合の姿勢から、
穢(けが)れたこの世を
住みよい浄土にするのが
おまえの役目と諭されて、
戦いだけの精神から、一旦立ち止まって、
元に戻って自分と向き合ってみて、
万人の平和のために闘うと考えて、
切腹を思いとどまったとされる。

まさしく、
色即是空から空即是色へと
リセットされた状態、同期したその心である。
片方だけに(自己都合だけに)執着すると、
悲惨な状態となって破綻する。
例えばプラスとマイナスの二項において、
マイナスだけの思考では破綻してしまう。
どうせ死ぬのに何故生きるのか?と。
マイナスとプラスの双方の思考により
はじめて何が本当なのかが見えてくるものだ。
あるいはまた、
何が正しくて何が間違いなのかだけの思考では
何が本当なのかがわからないものだ。

宮沢賢治も現実とファンタジーの二項から
悲しみを乗り越え、苦悩と折り合う方法を見つけた。
人間は本当に苦しい時に「幸せとは何か」と問う。
法華経のように(悲しみと幸福の二項から)
すべてのものが仏として現れる。

現代においても、
イデオロギーだけでは積極性が生まれずに
悲惨な道を歩むことになる。
イデオロギーだけでなく、
人間の自由や意欲との双方があって、
それらが同期してはじめて
積極的な姿勢が生まれてくるものだ。
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差別の禁止と表現の自由について

2022年12月09日 | 読書・TV感想
信仰上の理由により、同性婚からの
ウェブサイト業務依頼を拒絶することは、
表現の自由を保証した憲法により
認められるべきと、
米国連邦最高裁判所での審議が報道されている。

差別の禁止は表現の自由を侵害しているとの
訴えである。




所で、我が国の仏教において
「人間が見る全てが実体のないものだから執着しない」
という「空」の概念から導かれる自由の
制限がある。
白紙の表と裏とにこだわることに意味がないと同様、
分別・差別することに意味がないというものだ。
ここに、人間の自由と「空」のスタンスとの
関係がある。
苦悩の原因となるものには執着しない。
分別は苦の原因であって、そこから争いが生じる。

執着しないという禁止の要素を設定し、
そこを乗り越えていくという意識に
意味を持たせている。


さて、人間の自由には
迷いながら生きるという自由も含まれる。
「こうであるべきだ」という行動の制限ではなく
むしろ苦悩しながら生きることも自由の領域だ。
要は権威・全体主義からの回避でもある。
苦難から逃れるために、権威主義体制へと
進んだ国家の歴史もあるからだ。
 
自由を拠り所とするこの様なスタンスにおいては、
どこまでが制限される生き方なのかは一律でない。
分別・差別とは折り合いながら協調し進めてゆく、
いわばケースバイケースの状態だ。
これはちょうど
米国の連邦最高裁判所のように、
ケースバイケースで審議する形に近いように
思われる。

一方の、「空の因縁・因果」思想では、
「すべての結果の責任は自分にある」とされる。
解決法は各個人の任せられているところに
多様性が確保されているように思う。そこから
自分に向き合うことが
般若心経の精神ということになる所以だ。



差別の禁止と表現の自由がそれぞれ
個別的であったり、一律均等化ではなく、
双方が一体化したことで、
米国では人種を考慮した大学入試選考
アファーマティブアクション
(積極的差別是正措置)と呼ばれる制度が
新たに誕生している。
差別と自由の折り合いをつけようとするものだ。
こうして大学入試における人種差別の是非も、
職場や雇用でのLGBTQによる差別是非も、
あるいは人工中絶の自由についても、
それぞれの多様性において、
時代の趨勢や民意でのケースバイケースで
進めてゆく状態か生まれている。。



差別の禁止と表現の自由は、
生と死同様に、矛盾をはらんだ姿であるが、
共存して平衡する、
これがいわば国が異なる状態でも
本当の姿ではないか。
能力があればこれを乗り越え、
そうでなければ一律に制限するのではなく、
生命のように折り合いながら生きる。



「動的平衡」から構想する“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照






参考:



  
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歌う般若心経

2022年11月03日 | 読書・TV感想
NHK松山
WEB ニュース特集 愛媛インサイト

コロナ禍の今だから聴きたい
般若心経×ミュージック

「空(くう)」という教えがあります。
「世の中の全てのものに実体はなく、
悩みや苦しみに意味はない」
という考え方です。
一度自分の心の中をリセットして、
そこからまた改めて
目の前のことに向き合う、
という精神が、
今を生きる私たち現代人に
フィットしているのではと
薬師寺さんは分析しています。



「心をリセットして自らと向き合う」と
いう般若心経の精神。
コロナ禍の今、
その重要性は大きくなっているのではと
薬師寺さんは考えています。

「コロナ禍は仏教の修行に似ているなと
思ったんですよね。
今まで当たり前のようにできていたことが
できなくなるストレスをみんなが
同じだけ抱えて生きていかなきゃいけない。
「自分と向き合う時間」というものが
より大事になった。







この教えから導かれるのが
リセットして向き合うということだ。
保留にするだけでは問題の
解決にならない。
リセットするとは
一旦立ち止まって、そして自分に
向き合うことが大事なことだ。
自分に向き合うことで
何か新しいものが生まれてくる。


例えば
「やればできる!」の日常から
リセットするということは、
「いい人やめれば楽になる」
の分別であって、
これらの一体化から
新たな感情や意識が生まれてくる。

「自分と向き合う時間」が大事と
説かれておられるように、
迷いによることと、
自分に向き合うことの
一体化された姿勢から
新たな価値が生まれることの
実体に、
より注目すべきではないかと
思った次第です。


ところで
自分に向き合う、そこから先が
大問題なのであって、
そこから先への展開がなければ
保留と同じで問題解決とはならない。
仏教ではそこから先は
自分で解決しなさいと説く。
絶対他力への信仰にしても、
他力という誓願への自覚・共感に
強く引かれる人と、そうでない人が
いるのであって、そこには
気がつく為の自力も必要だ。


心を省みるの
リセットすること(いい人やめてみる)と、
物事を省みる(迷い、おかげ様の縁)。
双方の平衡状態から
本当にしなくてはならない事が
(先への展開が)
見えてくる。

即ち
リセットと迷いの一体化された状態が
「空」であり、
迷いの方(合成)より、
リセットの方(分解)を、
少しだけ先回りさせることによる
解決策が「色」と言う実体の概念だ。
要は
人それぞれによって
共感共鳴での価値観が異なる。
しかし
恐れずにやってみる、
やればできるの一辺倒でなく、あるいは
いい人やめれば楽になるの一辺倒でなく、
(分別が苦の原因だの一辺倒でなく)
双方の分別によりリセットする方を、
(他の話を聞く、自らを変えること)
少しだけ先回りさせることだ。

実体がない、分別しないの一辺倒ではなく、
あるいはまた
乗り越えるの一辺倒ではなく、
折り合いを付ける方を少しだけ先回りさせる。

自分が変われば世界が変わる

均一化・平等の法則とは逆の行為が
生きることだ。つまり生命と同様に
変えられない法則
均一化・平等(無分別)と折り合いながら
生きることだ。
生と死同様に、矛盾をはらんだ姿であるが、
共存して平衡する、
これがいわば本当の姿ではないか。
折り合うためにも矛盾の分別は必要である。
















  



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始まりがあるから終わりがある

2022年10月21日 | 読書・TV感想
煩悩を解脱して悟りに達する  について
分別・対立を「空」だとするところに
根源的な問題がある様に思う。
「空」とは実体が無い、実体を持たないということ。
「実体が無いのだから執着してはならぬ」となり、
そこに苦悩を解消するという
実践に対しての困難な状況が生まれる。
即ち
「空」という体験の境地によって、
平等性の意識が求められる。
自他の差別がなく、
自己 と他人 とが一体 不 二 という
意識 を もっ てな さ れるものであり、
さらには
西洋とは異なる
個人の独立の否定にもつながるものだ。
確 かに
対立や憎悪の不在、あるいは平等性が
慈悲の必要条件であることは理解できるが、
分別しないままの実践はいよいよ困難である。

加えて、
仏教には「因縁、因果」という概念があり、
苦はただ因縁によって誕生しただけであり、
自分が犯した業によって今があるとされている。
即ち全ての結果の原因は自分にある。
関係性は自分の所業であって、責任は自分にある。
そこの領域にカルトが入り込む。
例えば旧統一教会の代表的な教義には
「先祖の供養ができていないから災難に遭う」
となってしまう。
そこに高額な商品を売りつける実体が生まれる。
そうすることで
教義や指導者に従った上での結果は
自分に責任はなくなり苦悩も解消する。
「迷って生きていく自由」を放棄することにより、
人間は実に心地よく楽に生きることができる。

大乗仏教となっていても、
分別による苦悩は解消されず、
伝統仏教の困難さがあぶり出される。
苦しみを「実体のない空」だとして、
大衆の総てに対して無分別とするところ、
「総てに分別は虚妄である」には
限界がある様に思う。
分別に意味がある場合や、意味のない
場合が混在しているのが現実だ。
そもそも仏教に生きる目的はない。
しかし、
どう生きればよいか、ここでも
分別の意識によって葛藤し、結局
自分で決める事が苦しいので
教義や教祖様に頼る。

言うだけならば正しいことは無数にある。
正しいこと(空)だけを示すのではなく、
何が本当なのか(色)を示すべきだ。
何が現実に生じて、何が実在して起きているのか。
要はここでも何が正しいことなのかと、
何が本当のことなのかの分別だ。
自灯明と法灯明も、表も裏も実在している。
表だけでなく、裏だけでなく、双方を分別し、理解して
(平等性やバランスでの平衡状態にして)共存させる。

空観方程式のやり方では
「空」とは一体化された実体であり、
教義や教祖様に頼るのではなく、
生命の法則に頼ろうとするものだ。
具体的には
エントロピー増大の法則の中で折り合う方法である。
分別や対立をなくそうとするものではなく、分別によって、
分解の方を合成よりも少しだけ先回りさせる事だ。

関係性は自分の所業であって、
責任は自分にある点はそのままで、
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態だ。
即ち、
「いい人やめる」と、「やればできる」の両方だ。
そして、
いい人やめる、を少しだけ先回りさせる。

空観方程式では分別はそのままに、
一体化された存在の世界が「空」である。
どう行動するかは、自分で決められる。
できるときにやり、できないときにはやらない。
そもそも分別から生まれる一体化とは
各人に役割がそれぞれに与えられ、
それを各自分担するような意識である。
即ち自力の精神構造である。
禍福はあざなえる縄の如くである。
良いときもあれば悪いときもある。
表と裏という分別概念によって、
「紙」の概念が生まれてくるように、
始まりがあるから終わりがあるという分別によって、
生命の概念が生まれるように。
楽にさせると苦を取り除くという概念によって、
「慈悲」の概念が生まれてくるように。

私のように智慧のない人間は、分別によって
自分を是とし、他の人を非として、
自己都合や自己中心にこだわった
生き方しかできなくなる。(分別による苦の原因)
だから、他人の方を少しだけ先回りさせる。 
いわば
他人から聞く方を少しだけ先回りさせることだ。
分別はそのままで、苦と折り合いをつける方法だ。

自分になぜ生きるのかと自問することは、
キリンにどうして首が長いのか?
と聞いているようなものだ。
自分にどう生きるのかと自問することは、
象にどうして鼻が長いのか?
と聞いているようなものだ。
答えは誰にもわからない。
唯一解っているのは
生命が採用しているように、合成よりも
分解の方を少しだけ先回りさせる事だ。

「動的平衡」から構想する“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照


自分だけの一辺倒でなく、
他者(教祖様)だけの一辺倒でなく、
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態だ。

表があるから、裏もある。

生にだけこだわるのではなく、
死にだけこだわるのでもなく、
双方在るのが生命だ。

始まりがあるから終わりがある。




分別はそのままに、
一体化された存在の世界が「空」である。
そこから新たに生まれてくる。

荒々しさと機能性

分別・対立によって生じる迷いから、
共感・共鳴のインパクトに奮い立たされ、
新たなる思いや生命力が実体化される。


楽観主義と他者への励まし






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繰り返される権威主義集団の出現

2022年08月14日 | 読書・TV感想
権威主義集団の出現

権威主義は民主主義と対峙する姿であって、
全体主義への端緒である。
弱さから生まれるもので
絶対的権威への帰依につながる部分である。
宗教も同様に
神への絶対的な帰依が本質部分であり、
そこの部分では自由は放棄されている。
そこでの姿は
信仰の自由を享受しながら、
集団組織内では自由を放棄しているという、
ねじれの姿である。
その代わり苦から解放されて楽になる。

世の中には様々な集団が形成されている。
特に権威的集団形成のプロセスは、
弱い立場の大衆が
群れを作るプロセスと似ている。
ナチスが生まれる歴史的背景には
第一次大戦で敗退したドイツが
多額の賠償金を背負い、
大量の失業者であふれていたことにある。
そこに「国家が君を必要としている」と
プライドの持てる国家つくりの政党が現れ、
集団で結束した権威主義が形成され、
全体主義へと突き進んでいった。

我が国でも明治維新以後、
著しい工業化や経済自由主義の発展により、
資産家や労働者集団が出現した。
地方(農業)と都市(政治・商工業)での
差別化が進み地方から都市への大量の
人口流入が行われた。
そこでは弱い立場である労働者が
群れを形成する。
労働組合は小規模集団の典型であるが、
一方では、
新しい生き方や様々な人生に憧れて、
地方の農家から都会に出てきた
おびただしい人口は「大衆」と呼ばれ、
地方では得られなかったビジョン、
現金収入と自由を手にすることができた。
しかし
それと引き換えに大都市特有の
孤独に見舞われた。
その孤独が「新しいつながりの欲求」に向かい、
群れを形成するプロセスが働く。
特にここでも権威主義への憧れが台頭する。

自由は
村社会での連帯とは反対の方向であって、
各自が好きに生きればよいのであり、
孤独に向かうのは必然である。
一方の村社会では指導者の権威に従うことで、
人生の無意味さに対する不安や孤独などとは
初めから切り離される。
村の古来からの掟に従っていればよいことだ。
しかし権威に疑問を持つことや、
集団内でしか通用しない「正しさ」を疑う
という自由を放棄することになる。
そして権威主義の中に埋没して楽になる。

さて、
信仰は自由だけれど、
カルトと呼ばれる反社会性の内容であれば
ある程度の制限(法律・課税)が必要だ。
日本にはないのだが、既にフランスでは
信仰の内容・教義によって規制するのではなく
反社会性によって規制している。
要は、
社会の風習や伝統、価値観が国によって
反社会の基準が異なるからである。
ここに政治と宗教の関係が生まれてくる。




権威主義集団の実体

権威主義の種類も多義に渡るが、
全体主義と民主主義(自由主義)の
中間にあるといわれる。
それぞれの優先項目は
以下のようになっていて大別できる。

自由主義は個人の権利と民主化
(数量評価中心:多数決や利益)
権威主義は秩序と権威と虚飾
(理念、指導者、格やヒエラルキーの尊重)

大衆が向かう都会での集団化特徴とは
「他者の動向のみに注意を払う」
「大きな不祥事が生じても
    誰も責任をとろうとしない」
「不都合な事実については誰もが口を閉ざし、
    事実が隠蔽されてしまう」…
以上に加えて
集団化を強める働きをする要素としては
熱狂と憎悪と不寛容といった、
要素の存在である。
より巨大な権威主義への歯止めとして
具体的には
オルテガ「大衆の反逆」である。
「自らとは異なる意見や
少数派の意見に丁寧に耳を傾け、
粘り強く議論を積み重ねる」
「自らの能力を過信することなく、
歴史の叡知を常に参照する」
「短期的な目先の利益だけのために
物事を強引に進めない」
「敵/味方といった
安易なレッテル貼りに組しない
『懐疑する精神』を大切にする」


一方の権威的である「力」による
統治者により与えられた答えによって、
その「正しさに依存」することでも、
この決断の責任を
自分で取らなくてもよくなる。

ここでも盲目的な信仰と
一途な忠誠を求めるのである。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ
向かう過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。

あるいはまた、
現代はたしかに神が死んだ時代であるが、
忠実な信奉者たちは
依然として減少はしていない。
新興宗教においては
「力」によるものではないが、
オルテガより安易であり純粋である。
そして忠実な信奉者たちであり、
聖なる大義のために自分の生命を
犠牲にする準備ができている
狂信的な信仰を抱いている人々である。
そして政治と同様に集団が巨大化すれば
明らかに民主主義の劣化へと進む。



孤独からの解放(都会における群れの形成)

地方から都会に向かう大衆が自覚する孤独により
「新たなつながりの欲求」が生まれる。
本当は人間に生きる目的などはなくても、
苦悩から解放するために、
あえて生きる目的を打ち出す必要が生じる。
生きる目的などの説明には目的論的世界観といって、
強い断定・ビジョン・決断が必要である。
あるいは受け取る側においても
自己都合による思い込みや正しさも必要である。
その正しさの御心(あるいは虚飾)に
依存していればよく、それによって
その問いには悩む必要が無くなり、
あるいはそうした虚飾にどっぷり浸ることにより
孤独や苦から解放される。



コンピュータシュミレーションの要素・結果からも
同じ方向に向く →  地方から都会に向かう大衆
仲間に近ずく  →  新しいつながりの欲求
仲間から離れる →  新しい生き方の自由な選択

こうしてみれば
以上のような同様のルールによって
都会の大衆により集団が形成されるのは
必然のように思われる。
そして
自己都合による虚構に埋もれてしまう。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」が
大きくならないかぎりにおいては、
権威主義への集団には向かわないように思うのだが、
歯止め要素の欠損による大集団化に於いては、
自分達が絶対的に正しいと思っているから
権威主義的集団は強大となり、その中では
自己の自由はますます放棄される。



「大衆の反逆」よりも科学を

科学は無いことの証明(ブラックスワンの証明)
はできない。
そのための証拠がないので
断定することができないのである。

何が「正しいのか」ではなく、
「何が本当なのか」を知るために
科学技術を使うことだ。
科学は誰でも何時でも再現が可能で、
普遍的なものであるからだ。
そもそも宗教においては信仰により
「正しさ」を疑うことが困難である。
「宗教として何が正しく、
何が間違っているのか」という判断基準に
普遍的な証拠は存在しないからだ。

権威主義の政治だろうが、宗教だろうが
集団化をゼロにすることはできない。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」
はゼロにすることはできる。

空観方程式においては
熱狂と憎悪と不寛容の原因にスポットを当て
その基準を科学に求めようとするものだ。
具体的には
「無明」を取り除くための「光明」を
科学に求める空観方程式のスタンスであって、
信仰や集団化の自由と、
その自由はどこまで許されるものなのかの提案だ。
自由を制限する範囲に的を絞って
何が本質な状態なのかを示してみようと思う。


何が正しいのか?、
意義在る人生とは?、
より良く生きるためには?
役に立つ存在のために?
こうした権威主義ではなく、
科学の普遍性「何が本当なのか」
を最優先にする。
それをもとにすることで、
変えられないものを変えようとしないことだ。
ただ盲目的に従うのではなく
折り合いを付ける方法を模索する。

従い
無いときには無いように、
あるときにはあるように。
できるときにはできるように、
できないときはできないように。
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人の命は定められたもの それにあらがってどうする

2022年07月09日 | 読書・TV感想
人の命は定められたもの。それにあらがってどうする。
あまんじて受け入れ、好きなように生きる。
神仏にすがり、おびえて過ごすのは時の無駄だ。  
NHK「鎌倉殿の13人」より




人間の不安と対立は無くならない。 
(変えられないものと折り合い合いながら生きる)


できるときにはできるように、
できないときはできないように。
そして
ある時はあるように、ない時はないように。

我らは生と死とが同居している世界に生きているので、
二元の状態も片方だけにこだわらないことだ。



ところで
「空」から「色」への変化は以下の様になっている。
片方だけでは存在できない二元である
時空、表と裏、生と死、プラスとマイナスなどの
重ね合わせ状態から
禍福、闇と明るさ、悲しさと喜び、そのような
二元の状態が50対50で次々に休みなく現れる が、
受け入れる側でその比率は変化する。
こうして
片方だけでも存在が可能な状態へと変化する。



だからあるがままでもいいし、
あるがままでなくてもいい。

片方だけでも存在が可能な
低次元の中で、何かにしがみついたり、
何かにこだわってしまっているのは、
コップ(想像上の秩序)の中で
泳いでいるようなものだ。

いい時もあれば悪い時もある。
それは変えられない人生の舞台だ。
悪いことの回避だけに邁進するのではなく、
いい時もあれば悪い時もある。それが
高次元の存在を知ることから生まれる
囚われからの解放だ。


要は
「合成よりも分解を少しだけ先回りさせる」即ち、
負けても構わないと思うと勝つことに
繋がったり、
このような世界だからこそ生きていられる
と感じたりする人間原理。
    動的平衡状態(福岡伸一)より

二元の比率が変わってしまう
低次元の世界にこだわったり、しがみつかない。
自分の心(心の反応ではなく)を変えてみる
変えられないものを自覚して、それを変えようとしない。

あるがままにと思った(合成)途端に、
あるがままでなくなる。
あるがままを捨ててこそ(分解)、
あるがままとなれる。

繰り返しになるけれど、
「こうでなければならぬ」「こうすべきだ」
を捨ててこそ、
「こういう世界だからこそ生きていられる」
が生まれてくる。



ところで
慈善活動と新興宗教は
自己都合を捨てられない人たちの活動かも?

あまり恵まれた状態にないと感じていると、
意味のある人生だということを確認してみたくなって、
あるいは
役に立っている人間だということを確認するために、
人を助ける活動に入りたいと考える。
(合成を優先的にしてしまう)

そこから
あなたはかわいそう!助けてあげる!
その自己都合の虜となって、

慈善活動に入る人

新興宗教に入る人

のめり込むと言われている。



「何かをしなければ」との思い(合成)から
始めることは、
できる時はできるように、できない時はできないように、
といった意識からは離れてしまった状態であり、
囚われからの思い込みである。

だから結論は
囚われや計らいは捨て、回り舞台の風景によって
できる時であればできるように!
となる所以である。



人の命は定められたもの。
それにあらがってどうする。あまんじて受け入れ、
好きなように生きる。(できる時はできるように)
即ち「分解を合成より少しだけ先回りさせる」生き方だ。


身を捨ててこそ身をも助けめ  西行
無義の義  親鸞
はからいを捨ててこそ本当の自分に出会う





















あとがき:参照記事
「人は『正しい』と信じてブレなくなった時に
手に負えなくなる。
自分たちが絶対的に正しいと思っているから、
従わないものを迷わず虐待したり排除したり
できるようになる」という――。
カルトに与えられた答えによって
「正しさに依存」すると、
この決断の責任を自分で取らなくてもよくなる。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ向かう
過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。
カルト宗教の心地よさ
PRESIDENT Online(2022/07/29 10:00)
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宇宙が加速膨張していても、 回り舞台の回転速度は一定だ

2022年06月17日 | 読書・TV感想
こうした世界だからこそ我らは
生きている。

誕生間もない初期の宇宙は
温度が非常に高く、
「対称性」の保たれた均一な世界だった。
やがて、
宇宙が膨張して冷えはじめ、
ある温度以下になったとき、
粒子に「質量」を与えることになった。
種々の粒子がこの世に出現して、
原子や分子が誕生した。
それら原子や分子が
さまざまに結合することで
各種の物質が生まれ、
いつしか有機物が登場する。
やがて生命が誕生し、
私たち人聞が存在するようになった。





物理学者のナッシム・ハラマイン氏によると、
「宇宙空間は虚空ではなく、
エネルギーに満ちている」と。
何もないとは真空であるが、
眼に見えなくても
エネルギーに満ち溢れている世界。
しかも普通の物質は
宇宙の膨張とともに薄まるが、
そうした真空エネルギーは薄まらない。
従って、真空のいたるところで
多数の粒子がひんぱんに出没している。

要は、人間の眼に見えない
感じることしかできない
高次の世界によって、
次々に作られる世界だ。




宇宙が加速膨張していても、
真空エネルギーにより
回り舞台の回転速度は今でも
遅延することなく一定だ。

そして仏教の「空」も、
「感じることしかできないが
存在しているもの」(佐々木閑)である。
その満ち溢れたエネルギーにより
人間は自発的に現れる時空や粒子、
即ち「色」を初めて目の前にする。

いわば我らは回り舞台の上に
立たされているようなものだ。
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている。
つまり、
目の前に現れてきた「色」という
回り舞台の上で、
どのように振る舞うかという
ことになるわけだ。

いうなれば
与えられたものが回り舞台で、
課せられたものが振る舞いだ。

そこで
V,E,フランクル)によれば、
「それでも人生にイエスという」より
生きるとはいつでも
課せられた仕事なのである。
私たちの可能性は制約されている。
が、こういう事実のおかげで、・・・
どのような態度をとり、
どうふるまうのか、により
人生に意味がある。(意味が生まれる)


従いそれは次から次へと際限なく
目まぐるしく変化する回り舞台だ。
その回り舞台の回転速度は一定だ。
モットモットと思っていても、
舞台の方はそれには構わず、
次から次へと変わってゆく。

舞台の風景がすっかり
変わってしまっているのに、
モットモットのままでは
破綻するのは明白だ。





例えば、
もっと崇高な生き方は?といわれたって、
比較しているひまなど少しもない。

できる時にはできるように、
できないときにはできないように。だ!

ある時はあるように、
ない時はないように。だ!

自然には逆らえないと
よくと言われるように、この世の
真空エネルギー、あるいは回り舞台
には逆らえない。
「柳は緑 花は紅」
これ以上の(比較する基準がないから)
生き方は存在しなし、目的もない。



ところで科学の発達によって、
人間は必ず間違った見方をするものだ
ということも解ってきた。
人間は言語や文字の伝達能力を獲得したが、
その代償として悩める存在となった。
即ち苦を自覚しながら(悩みながら)
生きることとなった。そこから
死や老化の自覚からの逃避により、
あるいはまた象の鼻が長くなったように、
人間は目先のことを優先する脳となった。
将来のことよりも現在の状態、
他人の事より自分の事を優先する特性だ。
その為に自分中心(自己都合)という
思い込みするようになった。
そこからモットモットが幅を利かす。
いうなれば生きる為の、
パニックにならないための防衛手段
という進化だ。


人間も
何かに最終的に到達することを
目指して生きているわけではない。
生きるために
いろんな事をしなければならない。
生きるための目的ではなく、
生きることが目的である。
即ち生きるために生きる。(更科功)

自己都合とは異なる回り舞台の上で、
こうした無常の世界だからこそ我らは
生きていられる。







参照:「天の扉開き」
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量子コンピュータの原理と三法印

2022年03月16日 | 読書・TV感想
量子コンピュータの原理の一つに
「重ね合わせ」の原理がある。
象徴的には、
電子が波でもあり粒子でもあるという
二つの状態を同時に共存していることだ。
いわばコインを空中に放り投げて、表と裏が
同時に共存している状態であって、
地上に落ちれば、裏か表かが初めて確定する。
同様に量子ビットでも
時計回りと反時計回りの回転を
同時に共存する状態を使って、
重ね合わせのままで計算する。




オイラーの公式では
指数関数はSIN関数とCOS関数の
「重ね合わせ」となっている。







     
仏教での三法印においても
涅槃(悟り)と寂静(安らぎ)の二つの状態が
同時に共存していることにある。
いわば「重ね合わせ」の状態である。
涅槃=SIN関数
寂静=COS関数




そうした状態が量子ビットと同様に
問題の解決に役立っている。

空観方程式でも
両方の状態をいつも同時に持つことであり、
二つの状態の連立方程式となっている。

涅槃=空間(関係)
寂静=時間

即ち、
あるときはあるように
ないときはないように。

できないときはできないように
できるときはできるように。

戦える時は戦い、
戦えないときは戦わない。







参考:弁証論について
対立したり矛盾したりする概念の
双方を合わせ、どちらも切り捨てることなく
より高次の次元での概念を導く。



とんかつとカレーライスを
どちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと
カツカレーが生まれる。

子供に必要な勉強とゲームの場合
どちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと
学習ゲームが生まれる。

キリストが生誕した時の祝日名
メリークリスマスは非キリスト教徒には
当てはめられない。そこで双方の合議により
ハッピーホリデーという名称による
祝日が生まれる。


以上のような合議は止揚論として使われるが、
いずれも静的な事例や概念によるものである。


一方の
量子ビットの場合はどちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと「重ね合わせ」という
動的な概念として導入されている。






弁証論

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命を懸けても守るべきものがある・・・

2022年03月07日 | 読書・TV感想
ウクライナが多くの犠牲者を出しながら、
ロシアの軍事侵攻を阻止している。
国民も色々な立場、考えがあり、
逃げるのも踏みとどまるのも自由。
しかし「命が大切だから降伏しよう」
だけでは、降伏後に法律が無視されて
大量殺りくされる可能性もある。
従って、一方では
「座して死を待つより、戦って死ぬ」
という価値観も現実に存在する。


軍事力ではロシアと比べて大きく異なる。
命を懸けて守るべきものがある場合には、
守れそうなら守る。
命の方が大事になれば戦いを止める。

突き詰めれば、
「命よりも大切なものがある」だけでもダメ。
「命が一番大切だ」だけでもダメ。
双方が混在しているのが真の姿だ。

自分の命より大切のものがある。
命を掛けてでも守りたいものがある。
家族や社会が守れないなら戦う。
大きな犠牲をもとに大切なものを守るのも
事実なので、多くの命が犠牲になり、
国家・社会が消失するのなら戦いを止めることも
必要な考え方だ。


指揮官は戦争状態にあれば、
国民の命を守るために何でもありで、
最後まで戦うと発言するのも当たり前。
善良で慈悲深い指揮官だけでは早晩
没落するだけだ。

要は軍事的決断には、他国との連帯と
これらの状態を把握して制御できる
精神状態であるかどうかだ。
「座して死を待つより、戦う」といった
勇ましくかっこいいものだけに
熱中してしまわないことだ。
バランスを維持するためには
悪魔とも手を結ぶ。
これが外交の基本である。

なによりも
ウクライナが大国ロシアと闘う姿を見せたことで、
NATO諸国がばらばらに進めていた天然ガス
対応では、一致団結した経済制裁という
「群れの形」を世界に示すようになった。
さらには世界企業がロシアから引き上げたり、
世界の人の心がロシアから離れてしまうという
新たな「群れの形」が生まれた。

権威主義は専制主義ともよばれ、
強権的な政治体制のもとで市民の権利を
制限して統治するやり方だ。現実には
権力が一人や一党に集中する独裁主義である
場合が多く、2019年時点では
民主主義国・地域は87、非民主主義国は92と
民主主義は少数派となっている。
特にコロナ禍では、人の動きを強権的に抑える
権威主義国のやり方が効果を発揮している。
また中国のように著しい経済成長をも実現する。
しかし今回、オリンピック期間中に発覚した
ドーピング問題や、プーチン大統領が行った
突然の、誰も予期できなかった
ウクライナへの侵攻は、
専制主義が潜在して抱え持つ暴挙として
民主主義国の同盟を一層強固なものに
していった。


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素晴らしいものは困難から生まれる

2021年10月12日 | 読書・TV感想
◇国内女子◇
スタンレーレディスゴルフトーナメント

渋野が「スタンレーレディス」で演じたのは、
まさしく“苦労して勝つドラマ”だった。

苦労して勝つ方がドラマがあるというか。
女子でも男子でも、
例えば何年もスランプになっている方が
優勝しているところを見ると、
周りの選手まですごく熱くなるというか。
何年も苦労して勝ったというのは、
自分の中でもいろんな思いが出てくる・・・
渋野日向子が体現した“苦労して勝つドラマ”

1年11カ月ぶりのタイトルには、
2019年に積み重ねた優勝とはまた違う意味がある。

苦難を乗り越えて悲願をかなえた松山の姿は、
まぶしかった。
「本当にいろんな人に影響を与えてくれる。
自分も、そういう立場になれたらいいな」。
再び目指すメジャーの頂へ、
唯一無二のストーリーを描いていく。


 10/12(火) 8:13配信 亀山泰宏より


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