空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

正しさや快適な環境は幸福と関係しない

2024年09月02日 | 読書・TV感想
動物学者ジョン・B・カルフーンの行った実験「ユニバース25」は、
ネズミに好きなだけの餌と水を与え、快適な環境で育てたら
どういう社会をつくるか? という実験だった。(1968~)

JBカルフーン博士の実験
Universe25
 
私たちの生活は衣食住が保証され、
至る所にコンビニとスーパーがあり、
冷暖房は完備され、非常に快適だ。
ネズミたちにも同様に非常に快適な環境が用意された。
ネズミにとってのパラダイスが実験施設ユニバース25だった。

 しかし実験はおよそ人間の想像を超える経過と結末を迎えた。
パラダイスのはずのユニバース25で、すべてのネズミが殺し合い、
やがて子供を産まなくなり、全滅したのだ。
同じ実験を25回繰り返しても結果は同じであった。




ネズミの実験は、いくら正しくて快適な空間であっても、
移動しなければ(閉鎖空間内では)変化が生まれない。
その結果、絶滅を迎えるというものだ。

人類はアフリカ大陸から各地に移動することで
進化を繰り返した。
特にホモ・サピエンスは
国家や貨幣、神という虚構を共有する能力を
(突然変異という)進化によって獲得したことが
大きく寄与したとされる。
例えば
守護神の共有によって大集団での役割分担が可能となり
一体感の共有によって、適材適所による効率的な
組織運営が可能となったとされることだ。
やがて
ホモ・サピエンスが地球上で最強の生き物となり、
ネアンデルタールをはじめとする多くの種族は
途絶えてしまうこととなった。




進化は環境の変化によって育まれる。
生き延びるには
新たなる秩序や創造・改革改良が必要なのだ。
「同じところに居続けたのでは争いや育児放棄によって
ネズミ同様の結果、絶滅を迎える」のではないか?

人間の意識も同様であって、
双方が正しいとする一極集中のような
いつまでも同じ意識のままでは、
虚構の共有に齟齬が生まれ、争いが生まれる。
例えば保守とリベラルの対立のように。
一人で生きるのであれば争いは生まれないが、
問題は多くの人間が共助・役割分担による
集団社会の中で生きる場合だ。
その場合
「悪貨は良貨を駆逐する」であって、
悪い価値判断のほうがラクで楽しいから
そうした虚構の共有といった一極集中の状態に
固まってしまうのはネズミと同様の結果で
危険であるということかもしれない。

社会組織の移動を繰り返すことは困難であるため、
争いを避けるために日常での試行錯誤が必要だ。
そこから生まれる虚構共有以外の意識変化、
尊重すべき共通の価値判断が必要ではなかろうか。


空観方程式では
対立ではなく重ね合わせの状態での思考だ。
例えば動的平衡状態のようなものだ。
生きるために壊すという思考である。
壊すことで生命を維持する。
解体と構築とを繰り返すことで新たな秩序生み出す点だ。

鎖国制度の下においても我が国は
武士道と呼ばれる組織・秩序を守ってきた。
自由や平等の観念が犠牲となるけれど、
士農工商、本家分家の区別を守ることで
対立が生まれることを避けてきた。
しかし進化の法則と同様に、産業革命のような
黒船来襲による外部環境が変化を促し
選別・淘汰の試行錯誤により、従来の身分制度を一掃し、
解体することで
新たな国家秩序を生み出した。

正しく快適な秩序を壊すことなく、
維持しようとすることの方がむしろ危険である。
だから生きるとは、幸福とは、
積極的でも能動的でも共通して
「試行錯誤を繰り返す」ことなのかもしれない。



参考1
TVドラマの中でも、
変化によって新たな秩序が生まれることを
取り上げている。



参考2
求める幸福のかたちも、幸福を手に入れる方法も人それぞれだ。
しかしながら著名な哲学者のアランやラッセルに共通しているのが、
外に目を向けて意識の変化を求めることだ。
じっとしたままでは幸福になれない。
幸せになるために「外に目を向ける」とアランが言う。
また、ラッセルも
不幸になるのは自分の内ばかりに目を向けて主観的になっているから。
そして幸福になる方法は、外に目を向けて“客観的に生きる”ことだと唱えた。
主観的なとらわれ(感情主体の偏桃体思考)から逃れ、試行錯誤の繰り返しで
心のバランス(スロー思考とファースト思考)を保つのを助けてくれる。




八王子方向の雷と虹

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保守とリベラル

2024年07月10日 | 読書・TV感想
保守とリベラルとの選挙が世界中で生まれている。
戦争、核兵器反対、差別反対と、仮に実現困難であっても
「正しいことを言い続けることが大切だ」がリベラルの主張で、
「いくら正しいことを主張しても実現できないのであれば価値がない」
が保守の主張である。

確かに平等は正しい。
細胞レベルでは西欧人も東洋人も、障害者も健常者も、男も女も、
黒人も白人も区別はない。従い差別はあってはならないことだ。
しかし現実には2
車の免許には視力検査があって差別が行われている。このように
社会での生存には、社会と折り合いをつけながら生きている存在だ。
正しくても実現できなければ意味がない。
そうした現実に目を向けるべきだ。リアリズムと呼ばれる考え。
それが人間存在の根本だ。

「幸せ」は人々によって異なるものであり、
個々の価値観や経験によって定義される。
幸せは個人や文化によって異なるが、
共通の要素として、自己の満足感や希望を持つことが
挙げられている。
大前提として
「人間存在とは何か」という根本的な問題に関連してくる。

要は
今(の現実)を重視するのか、
魂(思い)を重視するのかである。






「現実よりも希望や正しさの方を優先する」
希望や夢を抱き続けることが幸福だ。
戦争反対と言い続けることが重要だ。
観念としては宗教に近く、リベラリズムと呼ばれる。
一方では
「何が正しいのかよりも、何が本当なのかが優先される」
実現しないものに価値はない。
戦争・核兵器反対と言い続けるよりも、
具体的に何をやれば、
どうすればそれらは実現するのかが優先される。

人間は何に力を注ぐべきか。
国家も同様に国力や経済力このような現実優先が保守と呼ばれる。
何が実現できるものなのか、自己利益の優先である。
それが幸せにつながるという考え。
従い、実現できないものはあきらめ、次の道や別の道に進む。




結論:

仏教でいわれる「こだわり・執着を捨てる」とは
偏桃体思考から離れることで、
得と感じるか、損と感じるかの参照点(基準)を
下げることで幸せを感じる、すなわち
ノーベル賞学者ダニエル・カーネマン博士の言う
「参照点の違いによって、人の価値判断は変化する」
である。



幸せの基準値「参照点」が低い人が幸せになる。
これは前頭葉(スロー)思考によって可能であり、
それにより初めて幸せをもたらす。

戦争・核兵器反対と言い続けるよりも、
今何をすれば、
どうすればそれらは実現するのかが優先される。
人間は何に力を注ぐべきか。
国家も同様に国力や経済力このような現実優先が保守と呼ばれる。
何が実現できるものなのか、自己利益の優先である。
それが幸せにつながるという考え。
従い、実現できないものはあきらめ、次の道や別の道に進む。
自己利益優先の考えで、米国ではトランプの存在が象徴的だ。
英国やフランス選挙のように、世界中でどちらを優先すべきかの選択が
今盛んにおこなわれている。

こだわりを抱き続ける(リベラル)、こだわりを捨てる(保守)。
二者択一ではなく、双方を取り入れることが幸福につながる。






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幸せな気分になる人

2024年06月14日 | 読書・TV感想
幸せな気分になれる人
身近にある小さな幸せを見つけて満足する、
あるいは
どうせ死ぬのだから
好きなことをしてワクワクした思い出づくり。
または
このような偏桃体思考から離れることで、
得と感じるか、損と感じるかの参照点(基準)を
下げることで幸せを感じる、すなわち
ノーベル賞学者ダニエル・カーネマン博士の言う
「参照点の違いによって、人の価値判断は変化する」
から
幸せの基準値「参照点」が低い人が幸せになる。
このような
前頭葉思考が安心をもたらす。


一方、
飛行機をキャンセルしたことで助かった!
「生きているだけで丸儲け」
こうして死期を自覚することは、
どうでもいいことに時間を使わないようになる。
それは自由で幸福なことだ。ハイデガー

こうした
奇跡的な幸運に恵まれなくても、
老人に対して「生きているだけで丸儲け」
の合理性を発見した。

ウサギのような弱い動物の群れは
生き延びるために老ウサギを大切にする。
それは猛獣に襲われた時、
老ウサギが犠牲になって子ウサギが助かるからだ。

ホモ・サピエンスにも生き延びるために
ウサギの群れのような
子供の命を守るために老人を大切にする
その遺伝子がつくられているから、
今でも
「老人は子供を守るために価値ある存在だ」
皆んながそう思って生きている。

現代において
老人が子供を守る事態が本当に来るのか?
それはどんな事態なのか?
誰もわからなくても問題ない。
老人は価値ある存在だと思えれば良い。
それがダニエルカールマン博士の
いつか来るかもしれないうわさ話を信じる
前頭葉(スロー)思考の合理性だ。
同時にこれが老人に対する
「生きているだけで丸儲け」の合理性だ。
そしてそのことに感謝できれば最高の気分となる。

いずれにせよ、すべてが
幸せになることを捨てて、
幸せを感じる生き方だ。





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生きているだけで丸儲け

2024年03月01日 | 読書・TV感想
日々是好日は
「生きているだけで丸儲け」の生き方でもあり、
あるいは
今日という日は二度とない、
今日しかないと思って全力で生きる。
というこだわりの一極集中型の要素でもある。
ところで「生きているだけで丸儲け」の中には
得した損したこだわりの感情も存在している。
「生きているだけ」ではない、こだわりの感情の中で、
災害のような大損失に見舞われた時にはどうするかだ。

問題は日々是好日の
「どんな日でも毎日が好い日だ」では
済まされなくなった時にどうするかだ。

一方で「今日しかない」「今日だからできる」
というこだわりの一極集中で過ごしているうちに、
くよくよ考えること(偏桃体思考)が自然に
なくなることもある。
こだわりのような一極集中型がリセットされている状態だ。
「生きているだけで丸儲け」においても、
儲けていると思っているから
損した得したのこだわりがなくなる。

さて、生命が生きるために選んだ堅牢ではなく破壊、
つまり生きるために壊し続ける動的平衡状態のように
良い悪いではなく、損した得したでもなく、
一極集中か試行錯誤かではなく、
ハッピーかどうかでもなく、
人間の観念とは関係のない
自然の営み、外部環境によって
生き残りやすかったどうかで決まる場合もある。
要は単に「生きているだけ」なのであれば
儲けは捨てた状態だ。
捨てたことによって初めて儲けとなる。
こだわりを捨てるというこだわりだ。
義なきを義とす:親鸞のスタンスだ。
人間の観念に対応する外部環境は
無限に存在するから、その結果、進化のように
無限に枝分かれさせる要素が生まれている。
したがって
何が正しいのか、何が楽しいのか、何が得するのか
のこだわりではなく、
何を選択すれば生きやすいのかで決まる。
要は動的平衡によって、
こだわりを捨てるという
一極集中で生きているうちに
一極集中(こだわり)が消える現象だ。

なにも人間が決めつけることをしなくても、
自分の直感(扁桃体思考)による決定のエラーを
修正することや、こだわりを捨てて、
自然に任せながら後戻りやリセットを行う
試行錯誤や試考錯誤の前頭葉思考だ。つまり
善い悪いの中で生きているうちに
善い悪いのこだわりが消えてしまう。
具体的な前頭葉思考は
他人と相談する、書物やAIの様な他の考えを利用する。
何が正しいかではなく何が本当かを観察してみる。
何が本当に生きやすいのかを体現してみる。

感情をつかさどる扁桃体思考と
合理性を追求する前頭葉思考の均等化が
大切だ。
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ファースト&スロー

2024年02月26日 | 読書・TV感想
感情をつかさどる扁桃体思考と
合理性を追求する前頭葉思考の均等化が
大切だ。

日常ではほとんどが扁桃体思考であって、
健康やマネーがいくら合理的だとしても
日常が楽しくなければハッピーにはならない。
問題は困難と遭遇した時に
扁桃体思考だけで乗り越えようとしないことが
重要だとノーベル賞心理学者D.カーネマンが言う。
ファースト&スロー、2014より
精神科医によれば
ファーストが扁桃体思考にスローが前頭葉思考に
対応するのだそうだ。

前頭葉思考は怠け者で
意識的に努力しないと働かない。
しかも疲れると働かないという特徴がある。
したがって日常のほとんどが
扁桃体思考の独裁者に支配される。
これが一極集中の形骸である。
戦争反対と叫ぶだけでは感情支配による
扁桃体思考のままの一極集中型だ。
これではコンサートホールで盛り上がるのと
変わりがない。
悩み(ファースト)は考える(スロー)と異なり、
扁桃体思考であり堂々巡りしている状態だ。
本質は(前頭葉思考)どうすれば戦争が防げるかである。
一極集中(ファースト)から試行錯誤(スロー)への
切り換えが大切だといわれる。
また、何が正しいのかがファーストであり、
何が本当かがスローに該当する。
コメント

日本での国民性の歪み

2023年12月16日 | 読書・TV感想
2023年12月15日は
記憶に残る日となった。
大谷選手のドジャーズ入団会見と、
日本での国会議員裏金疑惑の報道が
重なったからだ。
要は
金に対する無執着さと金に対する執着とが
重なった状況だ。
問題は20代の若者が金にこだわりのない
野球へのひたむきさと、
60、70代の老人が金に執着する
醜い姿とが折り重なっていたからだ。
特に老人が金に執着する姿ほど
醜いものはない。
その老人たちが政治家だったというから
さらに驚きだ。

法律を作る政治家が金のために法律を無視し、
一方、大谷選手の野球プレーにこだわった
歴代最高の契約金1000億円は、
契約終了まで無利子での
後払いにしたという内容だった。



年を取って老後を迎えれば、
平穏でのんびり過ごせる姿を
若者に見せるだけで、
老人の役割は果たせる。それには
食うだけの金があれば十分で、
それ以上の余剰は不要だ。
70歳前後の政治家が
自身の裏金作りに奔走している姿はまさに
恥の概念が消滅してしまった姿だ。
この国のモラルが崩壊し、世代での役割が
ねじれた状態となってしまっている状況を
どう立て直せばよいのか。


白熱教室でのサンデル教授が大谷選手について
紹介する。同時に日本人の国民性について、
自分より他人との共同性、
「助け合い」「おかげさま」の精神だという。
また、大谷(日本人)が持つ優れた能力
礼に始まり礼に終わる姿。
ひたむきに努力する姿勢と成功した後でも
一人で成し遂げたものでないという
謙虚な意識についてだ。



これは
「日日是好日」の関係にも当てはまる。
若者のスタンスでは現在を採用する。
過去や未来にこだわらず、今日こそが良い日だ
という一極集中型だ。





一方、老人ではいつでも良い毎日だという
道徳型の姿勢だ。



これこそ
老人と若者の世代間での役割分担の姿ではないか。
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認知革命の価値と形態

2023年10月09日 | 読書・TV感想
ホモ・サピエンスの認知革命とは
眼で見た現実と想像の現実との
コミュニケーションによって
試行錯誤を行い、外部の環境に
適用できるようになることだ。
即ち
多数の人間が分裂することなく、
大集団としてそれぞれがうまく
連携しながら適材適所で
個々の能力を発揮できるように
なることだ。



ところで認知革命での形態と価値には
二通りある。(一極集中か試行錯誤か)





例えばある集団が敵の襲来に
さらされるようになれば、
想像のコミュニケーションによって、
「こう組み合わせれば敵に襲われにくくなる」
との試行錯誤が働く。
複数の組み合わせや
適材適所の大集団であればあるほど
連携が働き効果的となる。
しかしある環境下に於いて
試行錯誤が繰り返されて、一旦
適材適所が最適化されてしまえば
(教義や思想によって、あるいは
最強の指導者によって
決められてしまえば、)
今度は一極集中型へと進む。
一極集中化に於いては非効率な
個々の試行錯誤はかえって邪魔になる。
ところが効率は良いが
外部の環境変化に対しては
対応できなくなる。



さて、
ロシアの権威主義での
一極集中化においても
侵攻される前に侵攻する
との意識が働き、
益々最強での支配秩序を目指すこととなった。
そこに非効率な試行錯誤は無用である。
それは更なる
個々の自由制限につながってゆく。


我が国においても
かつて多様性が許容されていた
日本神道の精神にもかかわらず、
尊王攘夷思想の一極集中へと歩んだ結果、
いばらの道への経験となった。




このことから、一極集中の
「武装侵攻」なる行為に対しては、
一極集中によって対抗するのではなく、
「こう組み合わせれば敵に
襲われにくくなる」といった
試行錯誤を持続的に行うための、
自由と民主の基本方針を守ることで、
我が国はこのたびの
武装侵攻されたウクライナを
支援することとなった。


200万年前にホモ・サピエンスが
獲得した認知革命によって、
我らの生き方は試行錯誤と、それぞれの
連携によって成し遂げられる。
ところがある一定の環境下で
最適化を目指した結果、
一極集中となれば、こんどは
試行錯誤の自由は無くなり、
環境の変化によって一極集中は
崩壊する。その繰り返しだ。
何万年経とうがその形態は
あまり進化していないように見える。
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高校野球での想い

2023年08月07日 | 読書・TV感想
甲子園での高校野球について

長年にわたり
関西地域や四国地域からは東北地方に比べて
出場校が多いけれども、突出して破天荒な選手は少い。
なぜだろうか

甲子園に出ようとするには
善い行いが決められていて、
それ以外の行為はしてはならない・・・
からではなかろうか。

逆に甲子園出場にこだわることが少ない学校では、
してはいけない行為だけが決められていて、
あとは何をやってもかまわない。
だからアメリカのプロ野球で二刀流をやってみようと
型破りなことを考える選手が生まれる。

逆に甲子園にこだわる学校からは、
決められたことしかやらない選手や
言われたことしかできない選手が
育ってしまうのではないだろうか。

日本の高校野球のシステムは、
野球人口の拡大には有効なシステムなのかもしれないけれど、
自由な発想のできる人間形成には不向きなシステムではなかろうか。


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何を守って生きてゆく?

2023年07月02日 | 読書・TV感想
朝ドラ「らんまん」 (65回よりの文字おこし)

家というのはなんじゃろ
血筋、金、格式、何を守ってきたがじゃろう
それより今ここにおる 
おまんらが幸せなのが肝心ながじゃ
この先も健やかに幸せに生きていく
家の願いじゃのうて己の願いに生きていくことが....


今更なんじゃ!
これまで散々本家と分家を区別して
わしら分家を見下してきたがは誰じゃ!


わしがそうさせてきた、けれど時が変わった
この先は本家分家と上下の別なく互いに手を取りおうて
商いに励んでいってほしい






役に立つ観念かどうかは人間が決めるのではなく、
自然環境や偶然のめぐり合わせが、そして何よりも
その場その時代での外的環境によって作用される。
例えば時代の移り変わり、感情、インパクトである。
従って、その時代には命がけで守り続けていた
絶対的な観念でさえも、
もともとは無価値なものであったとの立場が
ここでも一層鮮明になる。









人々は何を恐れ何を守って生きてきた?

本家分家の区別を守ることで
村組織・秩序を守ってきた。
自由や平等の観念が犠牲となるけれど、
それよりも従来のしきたりの方が役に立つ。
即ち誰もが決められた秩序で定められた
作業をこなしてゆけば、
誰もが食う事に困ることがない。
長年にわたって
従来通りの変化のない秩序が保たれる。
昔からの役割分担で、
定められた取り分でお互いが納得して
生きて行ける。
これが戦もなく、
もめ事もなく平和で何よりだった。

集団での組織防衛には
格差や差別の問題が付きまとうものだ。
何よりも
活気や熱意には格差や差別が障害となる。
特に我が国においては鎖国の状態では、
活気や熱意よりも、波風の立たない
競争の無い整然とした秩序の方が
役に立つ状態が長期間続いた。

ところが産業革命は、
世界的な交流が活発になるにつれ
国家の力や富の大きさが注目される。
やがて商工業の発展は、村から都会に
出ることで現金収入と自由が得られる
という認識が拡散する。この外部環境が
長年続いた村の掟の観念を打ち砕く。
格差や差別の観念と相まって、
大勢が同一の新たな観念を共有し
熱狂してしまう。

一方、
尊王攘夷など信条や正義の観念では、
正しいか正しくないかの一辺倒となって、
人間が多数の観念を勝手に序列化してしまう。
この場合は必ずモットモットとなって、
パワーバランスが崩壊したという外部環境の中で
不安定で悲惨な道に進んでしまいがちだ。

従って、進化の法則と同様に、
血筋を守る観念も、接ぎ木による新たな観念も
正義、信念、自由や霊魂、お家の観念も、
無限にある観念を同列に扱って序列化しない。
その中から人間が価値を決めるのではなく、
外部環境がその場その時で
選別・淘汰し、ただそれを繰り返すだけだ。

一旦秩序が崩壊すれば、革命的な改革がない限り、
平和な秩序に戻ることの保証がない。
富国強兵をあきらめて、元の村秩序に戻ることは
ほぼ不可能だ。




人間が考える観念の序列

「観念は無価値である」と唐突に主張しても
直ぐには受け入れられない。
こういう場合には事例で示すのが良い。
象徴的には独裁政治の中で
被支配者達が正しいか正しくないかを主張しても、
聞いてもらえないのなら価値がないのと同然だ。
独裁政治と同様な立場にある外部環境が
人間の観念を評価・選別するのであれば、やはり
人間にとって観念は価値がないのと同然だ。
無価値なものを都合で序列化しても無意味だ。
進化でも同様に、
勝手に人間が序列化した進化の図は誤りとされる。
(下図)
要は無価値なものだと自覚したうえで、自分に合う
観念を選択し、肯定してゆくことだ。
失望したり後悔したりすることがなくなるために。
それが「らんまん」での脚本に今回登場した
ということだ。










参考:
東京八王子南大沢にある牧野標本館には
おびただしい実物標本(16万点が収蔵)が保管され
データべース化されている。
参考に牧野博士が宮崎、高知、岩手早池峰で採取した
スイフヨウヒメウコギカトウハコベ
データベースにリンクする。
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人間が考える観念に価値がないとすれば分別が無くなる

2023年06月27日 | 読書・TV感想
人間が考える観念について
奈良富雄丸山古墳から盾と刀剣が出土した。
盾の防御性や鏡や剣の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念の存在を示すものだ。



物品を死者と共に埋葬しとうとする観念は
我が国のみならず古代文明発祥の地からは
多数発掘されており、人間共有の観念だ。
死者を丁寧に葬ることと次の世界での
安寧を求める姿勢でもある。
しかし科学技術発展の環境変化により
物品の埋葬が必ずしも丁寧な埋葬と
結びつかない状況となった。
ところが
物品が伴わない観念については
環境の変化にも関わらず
今なお多くの人々によって肯定されている。
観念は「楽しいから」「楽になるから」などが
一般的であるが、
「観念の通りに行動しないから悪いことが起きる」
と言われれば、ブラックスワンの証明と同様に
反証できない。そしてその点を利用して
【カルマ(業)を浄化し、新しく生まれ変わりたいあなたへ】
こうした商売上のうたい文句が堂々と貼り付けられたり、
場合によっては
高額なツボを購入させたりする違法性の商売迄
いまだに存在する。ここではそうした
輪廻転生や無分別の観念について考察する、






思い込みやトラウマ、
常識といったこともすべて観念だ。
観念とは人間の考えたものでありながら、
役に立つかどうかは人間ではなく、
自然選択と同様に、感情や経験などを含む
生き残りやすかったかどうかの
外部環境が決める。
感情や経験の種類は無限にあるので
観念も無限に存在する。
さらに「観念」自体には
善い・悪いという判断は存在しない。
なぜなら、善と悪も観念に過ぎないから。
観念の間に善悪の差がないのであれば
進化の枝分かれと同様に
無限に枝分かれして同格で存在する。

しかし、
辟邪(へきじゃ)の観念と
無分別(平等)の観念を比べると,
無分別の観念の方を役に立ちそうな
優れた観念と感じてしまう。
このように勝手に分別・序列化してしまう。
自分のみに特化された外部環境の中で
役に立つ観念は存在することを意味する。
さらには自分の力では何ともしがたいような
困難を経験すると
信仰の観念にも強く引き寄せられる。
信仰は科学と異なり、
無いことの証明ができない関係性から
「こうなっている!」と断定することが可能だ。
(目的論的世界観)
信仰をもつ人がどう向き合い、生きたのか。
多数の語りの中に同一の観念が生きる。
例えば
仏教では無分別という「空」の観念のほかに
「因果応報」という教えの観念がある。
縁が来たときに、因と縁が和合して、
因果応報によって目に見える運命となって現われる。
現在の出来事は過去の結果であり、
現在の行為は将来の原因になる。そして
善い業(善行)には良い結果が、
悪い業(悪行)には悪い結果が訪れるとされる。








さて、輪廻転生の観念においても
善い行いと悪い行いは、
一つ上の状態である「業」という
過去の行いに依存して決められる。
輪廻転生の思想に業(カルマ)という状態を
結びつけた(生み出した)点が止揚の思想
(弁証法)と同一である。
良いことも悪いこともむくい、すなわち
業のはたらきによって生じると説く。
しかし
人間の観念を序列化しない無分別の
観点から眺めれば、善と悪とを
別の世界であるカルマの世界で決めている。
輪廻転生とカルマの間で
分別・序列化がなされている。
カルマの世界を特別扱いしているようなものだ。
本来は
偶然に引き起こされた結果においても、
因果応報に結び付けられてしまう。
善い結果と悪い結果が分別されて
過去の行いとに結び付けられる。
偶然の結果ということは、例えば
恐竜が絶滅して哺乳類が勢力を付けたことや、
地球に生命が誕生したことなど。
そもそも進化の多様性は突然変異という偶然に依って
引き起こされた様に、かなりの頻度になると思われる。
キリンの首が長いのも、象の鼻が長いのも偶然に依るものだ。
にもかかわらず、
因と縁によって引き起こされた結果であると
強く断定されてしまう。その結果
生まれ変わってやり直すといった
思い込みに依る観念が誘発されてしまう。

「因果応報」の観念においても、偶然という要素を
取り入れなければならないだろう。
因と縁が和合する場合に、
何らかの偶然が働いた結果が引き起こされることもある。
種と田んぼから米が作られるだけでなく、
種と田んぼから大豆が生まれる場合だって考えられる。
同様に
善い業(善行)には良い結果だけでなく、
何らかの偶然に依って、
善い行いから悪い結果が引き起こされる場合もあるし、
悪い行いから善い行いが訪れることもありうる。
進化の突然変異から見れば何ら不思議なことではない。







西洋の哲学者ニーチェは「永劫回帰」の中で
「人間の観念には価値がない」といった。
全てに価値がないのであれば分別しようがなく、
「無分別」の教えに近づく。
そうであれば人間の観念に進化の法則と同様に
序列化は存在しない。
辟邪の観念と無分別の観念は同格として存在し、
因果応報も同様に価値の序列は無く同格である。
哲学を引き合いに出すまでもなく、そもそも
善い悪いの基準も曖昧であり、
かつ偶然を考慮すれば、確かに
固定化された価値など存在しない。これは
独裁政治の中で善い悪いを論じても
意味が無いのと同様である。
人間に役に立つものかどうかを
独裁政治のような外部環境が決めるのであれば
人間が考える観念には価値がない。

無限にある観念を
序列化することに価値がないのであるならば、
カルマの世界が輪廻転生の世界から
序列化されて尚、善悪を決めていること自体が
無価値であるということだ。一方
全ての観念には価値がない訳ではなく、
中には自分の経験上において
役に立つ観念も確実に存在する。
ご先祖様がこの世に帰ってくるという
盆の観念により、親子や孫と親交の機会
となってとても有用である。
無限の観念の中から
自分に役立ちそうな観念を選択して、
自分のものとして再定義し肯定する。
いずれにせよ、
他の大勢が肯定している観念に
惑わされないことが重要だ。

社会や他人からけし掛けられたありもしない
観念にとらわれて、達成できなくても、
あるいは
無益な価値判断を押し付けられても、
失望したり、余計な不幸を背負わなくてもいい。
今この瞬間を味わって力強く生きることだけだ。
過去のことをクヨクヨと悔やんだり、
将来をアレコレ心配する必要がなくなる。
















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親鸞の「無義の義」とニーチェの「永劫回帰」の類似

2023年05月12日 | 読書・TV感想
[起]
法然上人は
「他力には義なきを義とす」といった。
また親鸞上人は
「念仏には無義をもって義とす」歎異抄第10章
といった。
哲学者ニーチェは
「世界は何度でも繰り返される。
意味を持たず、目的もない。
すべてが無価値である」
といった。

いずれも
人間にどのようなはたらき方をするかが述べられる。


[承]
親鸞は心の信心に触れ
「義」を「はからい」と訓読し、
自分の人生の意味を考え、価値を計ること
「はからい」を超えるようにと呼びかけているのが
親鸞の他力「念仏」だ。
無義の世界とは
計らいがきれいになくなる世界(無礙の一道)。
「むなしさ」を超えるはたらきが得られる。
「本願力にあいぬれば」ということは、
それは人間の価値基準のこころを、
もはやあてにしないということだ。
人間が意味があるとかないと決めているのは、
すべて人間の価値基準の範囲内のことであって、
リンゴは「赤い、丸い、甘い」といった価値基準のことだ。
同様に「役に立たぬものは意味がない」というのも
人間の価値基準だ。
我らはそうした価値基準によって苦悩する社会に住む。
親鸞の思想は人間の価値基準の世界を超越した視点であり、
本来、人間の考える義というものは無いとする考え。



ニーチェの「永劫回帰」では、
「あらゆる出来事が同じ順番で、永遠に繰り返し起こるような世界像」
世界は意味を持たず、ただあるがままに永遠に繰り返される。
世界には目的もない。
人と人の間に起こるうりとあらゆる出来事を
それまでの人間社会にある価値観に捉われず
個人で再定義することで、
より良い毎日の体験をもたらすことができる考え方である。
神が世界と万物を 「創造」 したように、神も
形而上における人間の価値基準なのだ。


[転]
時間が無限にあって、物質や原理・法則は有限であれば
繰り返しが発生する。
そもそも進化の法則そのものが繰り返しの法則だ。
進化の歴史を遡ってリプレイさせてみても
地球環境が同じであれば、同じ枝分かれが発生すると
科学者は考えている。(J・B・ロソス)
進化は同じように繰り返されうる、ということだ。
進化の枝分かれは繰り返しの結果なのだ。
それは終わることがない。
そもそも生命そのものも分解と合成、解体と構築を
繰り返すことでエントロピーの法則に対抗している。
動的平衡状態(福島伸一)
ただ無機質に繰り返すのみのシステムである。




進化によって新たな価値が生まれるが、
その価値のみにこだわってしまえば進化は停止する。
むしろ価値を認めずに繰り返しを継続することが
生きていることになる。
繰り返しの継続によって次から次へと進化の枝分かれが生成される。
意味があるからそうしている。
やらないリスクはやるリスクより大きいからだ。
少なくとも一つの価値にこだわり、その価値を渇愛すれば、
他はやらないというクローン的な進化となる。
無価値だからこそ次から次へと繰り返す。
諸行無常のごとく常に変化して繰り返しているのであれば
変わらぬ価値など存在しない。
仏教でも執着しない、
こだわらないが基本的なスタンスだ。


[結]
親鸞は絶対他力による救済、ニーチェは自力での救済で
異なる点があるものの、
人間の価値基準の存在を否定し、
無条件での救済という点においては一致している。
信じることで救われる、あるいは
念仏唱えれば救われる、という条件付きではない点だ。
即ち全てが無価値であるというところに価値を見出す。
無価値であれば渇愛はしないであろう。

後付けで設定された価値観は人間の都合によって変化する。
従い意味があると思った価値観はその場限りのものだとして
振る舞うべきである。
要は他に押し付けたり、渇愛したりしないことだ。
そうすることで
お金の為にあくせくしないし、後悔もなくなる。
現在の自分を肯定する以外に、何かを守る必要もない。
人間は自己との出会いや発見で救済される。
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業の花びら

2023年04月01日 | 読書・TV感想
人間は誰でも多かれ少なかれ
業を背負って生きている。

賢治は嫁をとらぬという
業の花びらを
空いっぱいに投げ上げた。

没後90年特集 業の花びら
〜宮沢賢治 父と子の秘史〜
ドキュメンタリー/教養
2023年3月24日 NHKBSプレミアム


何が起きるかわからない人生、
どうして
このようになるのかわからない人生、
将来の不安を解消するために、

業の花びらという信仰により
受け入れ折り合うのか、
あるいは
現実とロマンという二項対立により
現れた観念・物語により納得するかだ。


古墳から出土する剣や鏡は
邪気を払うという観念が古来より
生まれて存在していたことを示す。
即ち死という現実と、
盾の防御性や鏡の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念だ。


二項対立から新しい観念が生まれる。
夜が来るから朝が来る。
電子スピンのように人生の
回り舞台が回り続けるかぎり、
エネルギー保存則のように
良いことも悪いことも、姿を変えて
現れてくるのが自然の摂理だ。
そこから新たなストーリーが生まれる。


一方の仏教では
良いことも悪いことも
むくい、すなわち
業のはたらきによって生じる
と説く。
賢治は真理と現実世界のギャップ
の中で悶絶し、
そのギャップが生じる原理を
知ることで、業の花びらを
空に向かって投げ上げるしか
方法がなかった。

そして
どう向き合うべきかを考え、
現実とファンタジーの二項から
悲しみを乗り越え、
苦悩と折り合う方法を見つけた。

人間は本当に苦しい時に
「幸せとは何か」と問うものだ。

ファンタジー と現実との融合、
重ね合わせとは
「心に伝わるもの」が共鳴して調和し、
ポジテイブなものに変える
「色即是空」の部分である。
ファンタジー と現実との一体化であって、
野に咲く花がささやいているように感じ、
あたかも感謝しているように花を咲かせ、
ダイアモンドの様に輝く。そのような
「生の高揚」につながる。

内部にある喜びの感情に降り注ぎ、
強めていく。
美しい言葉が美しさを与え、
高貴な言葉が高尚にし、
強い言葉が力を与える。
生きているものは積極的なものであり、
過剰なエネルギーを生み出す物質空間
なのである。


ニーチェの「永劫回帰の思想」は、
「エネルギー保存の法則のもとで
万物が運動すると、
永遠に時間がたてば
また元の状態がやってくる」
何度も何度も
永遠に繰り返されるという思想。

始まりがあれば終わりもある。
最悪の事態も含めた
自分の人生を肯定して、
それを受け入れて
絶えず創造的にクリエイティブな
パワーにあふれて生きていける人。
それが
自分の人生が最悪であっても、
それを受け入れて超人となる
「空即是色」の部分であって、
まさに「永遠回帰の思想」だ。
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桜は散るから美しい

2023年03月20日 | 読書・TV感想
散ればこそ いとど桜は めでたけれ
憂き世になにか 久しかるべき

伊勢物語

散るからこそ、いっそう桜は美しく
素晴らしい
憂い世に、いつまでも変わらぬ
永遠なものはない

 
桜散るという現実と
桜咲くという
美しきめでたきロマンとが
一体となって、
心にはいっそうの愛着が生まれる


2020年5月23日(土)放送の
「静かに咲く 弘前公園の名桜」
NHK BS4K
コロナ対策で閉鎖された無人の公園で、
閉鎖となった弘前公園の桜の様子。
変わらず咲き誇る桜を愛でる。
2023年3月20日再放送より




夜があるから朝が来る
色即是空があるから
空即是色が現れる

夜は寝るためにある
歌は歌うためにある
朝はもう一度生きるためにある
(辻仁成のことば)
だから夜から朝へつながることで
いっそう
朝のありがたさがかみしめられる。





諸行無常の憂い多き世においてさえ
ロマンと現実とが一体となることで
かえって美しさが現れて
乗り越えられる。

やがては散りゆく桜とむしろ
折り合うことができる。




スポーツでの勝ちと負けにおいても
同じであって、
競技で勝つことだけが楽しみではないはずだ。
勝ったり負けたりすることで成長できる
ことが楽しいのであって、
勝つことだけが楽しみになってしまった
指導者は、
競技中でのペッパーミルのしぐさを
禁止してしまう


勝つことが目的となってしまっては、
乗り越えることが困難であるし、
負けることと折り合うことができない。
勝つことと、負けることがあって
お互いを気遣う心が生まれるものだし、
自分の得意なものを発揮するとの方から
諦めない心が生まれ、かえって
一生懸命になって継続できるものだ。




 
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厭離穢土 欣求浄土の二項

2023年02月15日 | 読書・TV感想
NHK大河ドラマ「どうする家康」
で取り上げられた松平家の菩提寺は
岡崎市の大樹寺である。
若き家康(元康)が将来に絶望し、
切腹しようとした際に、
寺に掲げられた
「厭離穢土 欣求浄土」によって
「汚れた世をただす」として、
万民の苦しみを無くする姿勢に
再起を決意したとされる。


「厭離穢土 欣求浄土」は単に
戦争反対、平和賛成ではない。
あるいはまた、
天下を武力でもって制する
でもない。
何故
切腹を思いとどまったのであろうか。


以下は其の講座からの抜粋である。
松平元康は桶狭間の戦いで
今川義元が討ち死した事を知り、
命かながら大樹寺に逃げて帰ってくる。
そこで将来に絶望し、
先祖の墓前で切腹自害しようと
その時の住職に告げる。
寺の住職は
若い時から戦場に向かっておるけれども、
その心はただ敵を殺すだけにあるのか?と
元康は、
自分で勇気を振い起こして、
功をたてて、城を落として、国を奪わんとすると。
最後は天下を領せんという事が目的である。
寺の住職は
天に得ざるの国を強奪するというのは、
これ盗人の所為ではないか。
万民のために天下の父母となって
万民の苦しみを無くする
というような事をしていかなければいけない。
そういうことを懇々と諭されて、
時の元康自身は、その大慈大悲の心というもの、
仏教の心というものをはじめて悟る。
そうして
将来安定した日本の国を作るためには
どうあるべきかという事を悟った。

戦乱の根となるものは
全て所有欲からくるわけで、
家康公はその後半生でこれに気づいた。
所有したかにみえるのは
実は預かり物であると。
人間は元来無一物というのは
仏教的な考えが根底にある。

「岡崎学―岡崎を考える―」講座
2006 年 12 月 23 日
「厭離穢土 欣求浄土~家康公の平和思想~」
大樹寺 責任役員 成 田 敏 圀




単に勝つだけの戦いではなく、
戦い(武力)と浄土(平和)の
二項があってはじめて
新しい心が生まれる。
勝つことだけが目的で戦う
自己都合の姿勢から、
穢(けが)れたこの世を
住みよい浄土にするのが
おまえの役目と諭されて、
戦いだけの精神から、一旦立ち止まって、
元に戻って自分と向き合ってみて、
万人の平和のために闘うと考えて、
切腹を思いとどまったとされる。

まさしく、
色即是空から空即是色へと
リセットされた状態、同期したその心である。
片方だけに(自己都合だけに)執着すると、
悲惨な状態となって破綻する。
例えばプラスとマイナスの二項において、
マイナスだけの思考では破綻してしまう。
どうせ死ぬのに何故生きるのか?と。
マイナスとプラスの双方の思考により
はじめて何が本当なのかが見えてくるものだ。
あるいはまた、
何が正しくて何が間違いなのかだけの思考では
何が本当なのかがわからないものだ。

宮沢賢治も現実とファンタジーの二項から
悲しみを乗り越え、苦悩と折り合う方法を見つけた。
人間は本当に苦しい時に「幸せとは何か」と問う。
法華経のように(悲しみと幸福の二項から)
すべてのものが仏として現れる。

現代においても、
イデオロギーだけでは積極性が生まれずに
悲惨な道を歩むことになる。
イデオロギーだけでなく、
人間の自由や意欲との双方があって、
それらが同期してはじめて
積極的な姿勢が生まれてくるものだ。
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差別の禁止と表現の自由について

2022年12月09日 | 読書・TV感想
信仰上の理由により、同性婚からの
ウェブサイト業務依頼を拒絶することは、
表現の自由を保証した憲法により
認められるべきと、
米国連邦最高裁判所での審議が報道されている。

差別の禁止は表現の自由を侵害しているとの
訴えである。




所で、我が国の仏教において
「人間が見る全てが実体のないものだから執着しない」
という「空」の概念から導かれる自由の
制限がある。
白紙の表と裏とにこだわることに意味がないと同様、
分別・差別することに意味がないというものだ。
ここに、人間の自由と「空」のスタンスとの
関係がある。
苦悩の原因となるものには執着しない。
分別は苦の原因であって、そこから争いが生じる。

執着しないという禁止の要素を設定し、
そこを乗り越えていくという意識に
意味を持たせている。


さて、人間の自由には
迷いながら生きるという自由も含まれる。
「こうであるべきだ」という行動の制限ではなく
むしろ苦悩しながら生きることも自由の領域だ。
要は権威・全体主義からの回避でもある。
苦難から逃れるために、権威主義体制へと
進んだ国家の歴史もあるからだ。
 
自由を拠り所とするこの様なスタンスにおいては、
どこまでが制限される生き方なのかは一律でない。
分別・差別とは折り合いながら協調し進めてゆく、
いわばケースバイケースの状態だ。
これはちょうど
米国の連邦最高裁判所のように、
ケースバイケースで審議する形に近いように
思われる。

一方の、「空の因縁・因果」思想では、
「すべての結果の責任は自分にある」とされる。
解決法は各個人の任せられているところに
多様性が確保されているように思う。そこから
自分に向き合うことが
般若心経の精神ということになる所以だ。



差別の禁止と表現の自由がそれぞれ
個別的であったり、一律均等化ではなく、
双方が一体化したことで、
米国では人種を考慮した大学入試選考
アファーマティブアクション
(積極的差別是正措置)と呼ばれる制度が
新たに誕生している。
差別と自由の折り合いをつけようとするものだ。
こうして大学入試における人種差別の是非も、
職場や雇用でのLGBTQによる差別是非も、
あるいは人工中絶の自由についても、
それぞれの多様性において、
時代の趨勢や民意でのケースバイケースで
進めてゆく状態か生まれている。。



差別の禁止と表現の自由は、
生と死同様に、矛盾をはらんだ姿であるが、
共存して平衡する、
これがいわば国が異なる状態でも
本当の姿ではないか。
能力があればこれを乗り越え、
そうでなければ一律に制限するのではなく、
生命のように折り合いながら生きる。



「動的平衡」から構想する“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照






参考:



  
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