空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

2024年 日本および日本人の注目項目

2024年10月20日 | 記事のコメント
ノーベル平和賞の受賞

米国プロ野球(MLB)で日本人の活躍
大谷選手の一試合6打数6安打、3本塁打、10打点、2盗塁の大活躍や
「3本塁打&複数盗塁」「17塁打&複数盗塁」50-50前人未踏記録等

トヨタ売上販売台数世界トップ

ドラマ「SHOUGUN」でエミー賞受賞
アカデミー賞は宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」長編アニメーション賞と
山崎貴監督の「ゴジラ-1.0」が日本映画として初めて視覚効果賞を受賞した

パリオリンピック金メダル20の数でもメダルの総数45でも最多数を更新
金メダル世界3位

米国女子プロゴルフで笹生選手、古江選手がメジャー優勝
卓球50年ぶり、ケイリン37年ぶり優勝
プロボクシング井上尚弥4団体統一スーパーバンタム級タイトルマッチに勝利しタイトル防衛
現WBAスーパー・WBC・IBF・WBO世界スーパーバンタム級統一王者。

JAXA月面ピンポイント着陸成功

日本航空516便の乗員・乗客379人は衝突から3分で全員が脱出用スライドから避難した。

能登地方で震度7の地震

東京30度観測史上最も遅い真夏日10月19日

日本少子化過去最少75万人

日銀による利上げ17年ぶりで、世界的にも異例な対応が続いてきた日本のマイナス金利が転換

4月円安がさらに加速して、1990年4月以来、34年ぶりに1ドル=160円台をつけた

日経平均株価の終値は4400円を超えるかつてない急落
日経平均株価がバブル絶頂期の水準を超え世界的に株価が暴落した1987年のブラックマンデーの翌日につけた
3836円を超えて過去最大の下落幅を記録した

日本で開かれた「日本・台湾イノベーションサミット2024」会議

ウクライナ大統領と日本がイタリアで首脳会談を行った
岸田総理大臣から、ウクライナの復旧・復興のための支援を強化する

運輸・建設・医療の3業種で、働く人たちの時間外労働、つまり残業の上限規制が始まった
建築費、橋やトンネルのインフラ修理費高騰、円安などによる資材、人件費の高騰も背景にある
日本郵便は手紙の料金を84円から110円に





追加:
フィギュアスケート女子、16年ぶり坂本を中心に、松生、吉田が表彰台を独占
Japanese sweep at ISU Grand Prix Skate Canada!  26 Oct 2024





コメント

心の中から湧き出るアトラクター

2024年09月29日 | 記事のコメント
2つの無秩序 x振動とy振動、
例えば「暖かさ」と「光」の刺激から、
ろうそくの明かり(x-y空間のアトラクター)という
秩序化した灯が心の中で浮かび上がる。




同じく大空に表れる虹での具体例
虹と美しさといった(無秩序な振動)刺激の
重ね合わせによって出現する、(心の中で感じる)
アトラクターによって、
それが湧き出る感情となって現れる場合がある。

人間は虹を見ることにより
「虹」と「美しさ」の刺激が重ね合わされて
秩序化が出現し、それが内面から湧き出る
ポジティブな動機・活力となって表れる。



そもそも無秩序といった刺激の要素だけでは
秩序化が生まれない。
無秩序の重ね合わせによって、すなわち
これを自覚し、意識化することにより、
美しさや幸せという秩序化がアトラクターとなって
心の中から湧き出てくる。
「心で感じる美しさ」とは
ポジティブな湧き出る感情が秩序化して現れているのである。
その自由なプロセスが幸福へのプロセスとなっている。
それにより
美しさが見えたり、幸せを感じたりするわけだ。
こうしたプロセス感情や動機の出現を眺めてみることだ。
その様な無秩序から生まれる仮想現実が、
人間の獲得した幸せの認知革命だ。

下図は津田一郎中部大教授が示した
竜巻における3次元アトラクター例である。





ところで脳細胞の中でも
眼や耳からの刺激にる神経伝達アトラクターが形成されているといわれている。

子供がブランコして楽しいのは、上下に揺れる物理的な刺激によって、
即ちスウィングの重力刺激と目で見える景色変化の刺激によって
心の中から湧き出るアトラクター(楽しいという秩序化)を自覚するからだ。

無秩序から形成される秩序化への気付きや自覚がなければ動機につながらない。
要は、目の前にある幸せに気付かなければ、幸せになれない。

大人のブランコ(精神的な刺激・振動)でも、
~しないといけない、~しなくてもいいの振動刺激。
へんなことにむきになる、いちいちこだわらないという振動刺激。
豪華絢爛と繊細優美(清楚端麗)というそれぞれの無秩序な振動刺激。
あるいは読書によっても、
登場人物に自分を重ね合わせることで刺激が伝わる。
目に見えないものでも、思考を眺めることで
前頭前野に現われてくる秩序化したアトラクターに気づければ、
その心から湧き出るものが自覚される。

これらは
過去の失敗や将来の不安に駆られたときに、
一日一日、積み重ねて生きている
今の自分に向き合うことができる。
あるいはまた
自分を変えてみることにもつながる。
住む場所を変えてみるだけでなく、
こうした思考のブランコによっても実現する。
要は、
危機管理器官の扁桃体ネガティブ思考一辺倒から
前頭葉思考による秩序化を眺めてみることで
カオスの中での自由な世界から
自分を変えてみることの一例だ。










コメント

長期の扁桃体思考によって生まれる心の汚物

2024年03月13日 | 記事のコメント
悩むことと考える事とは異なるので、
この違いを良く認識すべきである。
悩むとは一つのことにとらわれて、
くよくよと或いは
ぐるぐる堂々巡りする状態を
扁桃体思考(一極集中の状態)といい、
一旦リセットしながら思いを巡らせ
考える状態の思考を
前頭葉思考(試行錯誤の状態)という。

感情は
ホモ・サピエンスの大脳周辺系の発達(突然変異)と
大いに関連しているとされる。
主に扁桃体(刺激反応)、とともに
海馬(記憶)、帯状回(痛み)の発達だ。
これらの要素としては
集団社会とのつながりや言語の生成などから、
一極集中や試行錯誤に関与する。
「認知革命」と呼ばれているもので、
集団の中での問題解決能力や共感能力の獲得である。
しかしこれらの獲得とのトレードによって、
人間は悩みを抱えることとなった。

扁桃体は、生存に関わる重大なものかどうかを
一瞬のうちに評価する機能だ。
集団生活における安心や恐怖、
好き嫌いの反応が扁桃体に任されているので、
特に怒り・悲しみの様なネガティブ感情の
コントロールには心の安定が必要である。
こうした判断や決断が
感情に振り回されない様にする為には、
扁桃体の活動を制御することが必要だが、
身の安全を司る進化により制御不可能だ。
そこで感情の独裁者とも呼ばれる。
従い感情の管理者と呼ばれる前頭前野によって
制御するしかない。

   

悩むとは考えるとは異なり思い込みから始まり、
一極集中化へ進行して行く過程と同じだ。
悩みの多くは扁桃体思考といって
人間の感情をつかさどる部位で起る。
元来は進化の危機管理のために発達したもので、
瞬時の対処ができるようにするための機能である。
深い考察は行わず、
とっさに行動するための機能である。
(思考の停止・固定)
眼に見えない現象でも最悪のケースを予見して、
回避行動を起こそうとする部位だ。
したがって
前頭葉のような時間のかかる合理的な機能を司る、
考える部位と違って、感情による判断ミスを起こす。
例えば
口の中にあるはずの唾が床に落ちれば、
本来非常に貴重なものであるにもかかわらず
汚物と判断して捨ててしまう。
あるいはまた
オリンピックのメダリストにもかかわらず、
銀メダリストになると不幸になるという
他との比較で自己蔑視してしまう原因も同様だ。
この直感主体の扁桃体思考で行われているために、
判断ミスをして
不必要な心配事や悩み事を抱えてしまう。
感情がそういう思考に仕向けてしまうのであって、
特徴的・象徴的な例を挙げれば、
「みんなで渡れば怖くない」
英国ヘンリー王子の「スペア」等々
日常生活のほとんどがこうした扁桃体思考なので、
一人でいる時間が少ないと
スロー(前頭前野)思考の機会も少なくなって、
扁桃体思考であふれてしまう。

ダニエル・カーネマンという
ノーベル賞心理学者が云う、
「心配が現実化するわずかな可能性」を、
心は無意識に探し続け、私たちはそれをまるで
「確実に起こること」であるかのように受け止めてしまう。
心配ごとに取りつかれ不安にさいなまれている最中は、
それがとてもリアルに感じられる。
「取り越し苦労」で、人生を浪費してしまい、
「いまを楽しみながら生きること」ができなくなる。
「私たちが日々心を悩ます心配事や悩みの多くは、
かなり的外れで、ほとんど現実化しない」

人間の観念や正義では
何かにこだわった状態であって、
暴走状態になる危険な状態だ。
何かにこだわってしまう状態とは
扁桃体思考のことでもある。
同じく何かに悩むことでも扁桃体が関与していて、
後戻り困難な一極集中化へと進む端緒となる。
いずれにせよ扁桃体だけで長期に考えないことだ。
インプットされた情報には
感情の判断ミスかもしれない不安の原因を知り、
あるいは心の底を打ち明ける能力だ。すなわち
ミスでなければその感情を適時・適所にて
吐き出すことで、なんとか感情をコントロールできる。
ただし吐き出すときには
汚物をまき散らさないようなマナーが必要だ。<参考>
いずれにせよ
常に理性(前頭葉思考)と感情(扁桃体思考)との
バランスが必要である。





参考:大愚 元勝 福厳寺住職。
「心の炎症」を整える
感情と理性との戦い
我慢するのではなく
心の汚物(エネルギー)を吐き出す処の
オブツダン「御仏壇」。
何時間でも、何回でも聞いてもらえる場所だ。
感情はやり過ごす。
そして理性は決して失わないことだ。
コメント

何が本当なのか

2024年02月05日 | 記事のコメント
何が正しいのか
ではなく、
何が本当なのか
に注目すべきである。

「戦争反対」は正しい
従い非武装化による戦争回避だ
しかし実際には
ウクライナは武装していなかったために
ロシアに侵攻された
すなわち
「武装強化することで戦争が回避される」
が本当のことだった。


「平等」は正しい
しかし実際には
車の運転には
十分な視力を持った人のみが運転できるように
視力検査が行われる。その結果
不合格者は差別され排除される。
すなわち
「安全のために平等は制限され差別する」
が本当のことだ。


「多様性社会・多文化共生」は正しい
しかし
単一民族である日本に対しては
多様な文化・文明が存在することが善と信じ、
日本という固有の文明が
グローバル全体主義に飲み込まれることを
阻止したいと一部において考えられている。
すなわち
「日本独自の文化のために多様化は制限される」
が本当のことだ。


「車の排ガス規制」は正しい
従いEUにおいて車のEV化が進められた。
しかし実際には
発電所において
発電時にCO2が排出されているし、
なおかつ
バッテリーの製造時にも、あるいは
廃棄時にもCO2がより多く排出されている。
さらには
EV車の充電時間が長い、
充電設備のインフラ投資、
あるいはコスト問題
エネルギーのロシア依存や
中国のEV車進出の問題、
なおかつ
ドイツ、英国の車産業での雇用不安により、
「EV車はガソリン車より多くCO2が排出されている」
が本当のことだったことが
明確化してきた。


君主は善良で慈悲深い人間である
従い
「このことを称賛すべきだ」
は正しい。
しかし
イタリアの哲学者マキャベリは
現実を見れば
そうした君主は必ず没落するとして、
「愛される君主より
恐れられる君主のほうが安全だ」
が本当のことだと主張した。


「物事をプラスで受け止める、
過去にこだわらず今を楽しむ、
許すことを学ぶ、こうした習慣が
幸せにつながる」は正しい。
しかし
ノーベル賞心理学者である
ダニエル・カーネマン

幸せかどうかは、
正しいか正しくないかよりも、
何が多くの習慣となっているかよりも、
「何が記憶に残っているかによって決められる。
記憶に残らない経験は
どうでもいいものとなる。」が本当だ。
何故山に登るのか?
つらい苦しい(経験の)登山であっても
最後に目的地にたどり着いた記憶により
すべてが幸福に包まれる。


「心身が健全であることが幸せである」は
正しい。しかし
ノーベル賞心理学者である
ダニエル・カーネマン
幸せかどうかは、
経験よりも記憶のほうが優先される。
従い
どれだけ長い間幸せだったかよりも
どれだけ満足だったかが優先される。
すなわち
「オハイオに住むより
カルフォルニアに住んでいるほうが
幸せだと感じる。
つまり、
健康やマネー、学歴の経験(総量依存)よりも、
「日常生活にて満足できている(無苦痛依存)と
感じられるほうが幸せだ」が本当である。
したがい
政治政策は
苦痛を減らすことを目標とすべきで、
幸せは
自分の好きなことをする時間を増やせばよい。


「心がきれいな人に出会えれば幸せである」
は正しい。
しかし
親鸞聖人は
全ての人に「清浄の心無し」といい、
「心の中を他人には見せられない」
が本当だ。
かつ、心と言動とは異なるものだ。
すなわち
「真実の心無し」も本当だという。
このような人間の姿は
昔から変わらないし、変わりようもない。
にもかかわらず
仏から賜った「真実の心」の本質により
仏の真実信心にあるがままに接することで
(悲痛な声に耳を傾け寄り添っていただき、
苦痛が減らされたことにより)
心が汚いままでも救済され、
本当の幸せになった事に感謝する。
これが浄土真宗親鸞の教えとなった。



「雇用多様化政策」は正しいことだ
しかし
能力主義は人種差別だとしてアメリカにおいては
能力ではなく肌の色で雇用を決めて
かえって「人種間の溝を深め、黒人暴動が激化した」
が本当のことだった。

アメリカにおけるCRT
 (Critical Race Theory 批判的人種理論)
「マイノリティーを優遇すべきだ」は正しいことだ
白人であるだけで特権を得てきたのだから
マイノリティーを優遇して贖罪すべきだ
しかし
BLACK LIVES MATTER により
実際にはマイノリティーを優遇した結果
「米国社会が分断された」
が本当のことだった。


参考
近年の警官による殺人のうち、
黒人が犠牲となった比率は白人の約2∙5倍。
また、黒人が逮捕され収監される比率は白人の5~6倍で、
これは黒人男性の3人に1人、
トランスジェンダーの黒人女性の2人に1人が
一生に一度は刑務所を経験し、
黒人女性の2人に1人が伴侶を収監された経験を持つ計算である。

コロナ禍の人種格差も明らかになった。
米国疾病予防管理センター(CDC)の2020年8月の統計によると、
黒人の陽性者率は白人の2∙6倍、入院率は4∙7倍、死亡率は2∙1倍。
社会のインフラを支える仕事に従事する人や、
人口過密な貧困地域に住むことを余儀なくされている人が多く、
医療保険未加入率が高いことも格差の一因だった。


大国のGDP





中国の状況 (2024年1月)
「コロナ禍でも経済活動は適切であった」
しかし
何が本当なのか?
コメント

空想上の現実からの離脱について

2023年09月15日 | 記事のコメント
200万年前から1万年前まで、
多数の人種族が進化の枝分かれとして発生した。
言語及び火や道具を使う能力はほぼ同等であった。
特にネアンテルタール人は
知能や筋力が発達していて、
サピエンス人より狩りが上手であった。
しかし、群れは100~150人以上になると
分裂自壊してしまうのだったが、
7~3万年前にホモ・サピエンスだけが、
脳神経細胞における突然変異によって、
認知革命(コミュニケーション能力)を獲得した。
その結果、義理・人情のように
眼に見えない観念・概念を
赤の他人達が互いに了解し信じることで、
分裂することなく
大集団として活性化することができた。
いわば権威主義的集団組織能力により、
ホモ・サピエンスは他の全ての人類種族を
駆逐してしまった。




うわさ話や虚構を信じる能力は
大集団を作る事ができる一方、
陰謀論に惑わされるということでもある。
例えば守護神としての権威が
「この戦いによって死んだとしても、
地上よりもっと素晴らしい場所に
生まれ変わることができるぞ!」と言えば
それを信じて死ぬまで闘うことができる。
ネアンテルタール人はこのような
守護神やあの世を信じる能力がなかったので
戦いには敗れてしまった。
要は種族の誇り、絆、
家族のために命を落とす様な事ができなかった。



従い、ホモ・サピエンス人は
権威主義的な集団であれば、
(自由も制限されるものの)
迷いや苦悩からも解放される。
要は誰もがその秩序の存在を信じることで、
集団の組織的安全も強化される。
一方で認知革命は眼に見えない想像アイデアで
新たな技術の思考錯誤も可能になった。
それは一人の天才に依存するのではなく、
複数の想像の重ね合わせ(試行錯誤)によって
「こうすればいいのでは?」といった
新たなものが次々と現れてくるからだ。
即ち試行錯誤を繰り返すことにより、
新たな道具を実現してきたことによる。
改良やアイデアといった自分以外に対する
(天才一人による思考より)
興味からくる多様性である。
多様性により技術革新が生まれ、
進化が促せるからだ。



虚構と呼ばれる想像上の現実によって、
想像上のアイデアによる思考錯誤と
新たな改良・技術のみならず、
眼に見えない概念や観念についての
コミュニケーションも可能となった。



虚構からの離脱
(想像上の秩序における試行錯誤)

眼に見えない概念や観念についても、
石器改良のように
コミュニケーション能力によって
対立の双方を保持したままで、
時と場合によっては眼で見た現実とも
比べてみることも可能になった。
変化の中での継続には多様性が必要である。
多数の観念、あるいは多数の価値観との
思考錯誤によって折り合うこともできる。

権威主義組織や信仰だけでなく
道徳のように
こうした方が良いのでは?と
選択する自由を残すことだ。
要は
お互いが認め合い尊重する方の能力だ。





そもそもユバル・ハラル著
「サピエンス全史」によれば、
宗教、国家、紙幣などは
想像上の秩序と呼ばれ、
その虚構によって
赤の他人が協調して行動できる様になった。

共通の了解として、
例えば同じ神を信じているならば
互いに信頼関係が生まれる。 ただ
弱い立場の人間は権威主義に熱狂してしまう。
本当は人間に生きる目的はなくても、
苦からの解放のために
あえて想像上の目的を創り出す。
しかし苦の量は減ることはなかった、
というのが歴史の現実である。

本来人生とは迷いと選択の連続であって、
「迷い続ける自己」の姿が本当の姿だ。
選択の自由を維持する民主主義は
選択のシステムであって陰謀論にも対抗できる。
さらには、
虚構と呼ばれる大多数での共有了解一辺倒では、
地動説のような大いなる誤解やら、
恐竜が絶滅した様に、人間が決められない
偶然による変化に対して脆弱である。そもそも
生物では突然変異という変化は常に行われている。
こうした外部環境の変化に対応するためにも、
安定を維持するための試行錯誤のような
「動的平衡状態」が必要である。


天才物理学者のアインシュタインは
「スピノザの神なら信じる」と答えたそうである。
スピノザは人格神を否定しており、
人の善悪を判定し、悪を罰するような人格神、
神の意志での信仰とは分別すべきだという。
虚構と呼ばれる想像上の現実の世界においても、
万物に魂が宿る観念や、
自然の驚異に触れたときに
畏敬の念を抱くことは許容されるものの、
区別するとは人格神に対し否定もしくは
選択の余地を残すという事であって、
権威や信仰ではなく道徳領域とすることだ。





仏教における魂の存在
古来の神道においては、
神は自然のあらゆるものに宿る
という観念を受け継ぐ。
その大いなる力により我らをお守りいただき、
願いを叶えていただく。
同様にして
仏教においては、死ねば肉体は滅するが、
霊魂は残り阿頼耶識として宿る。
お盆の迎え火や送り火などは
こうした霊の存在に依るものである。
そうした観念により我が国でも
親子や地域での
コミュニケーションがはかれている。
問題は霊の存在を縁起の観念として
「業の世界」にまで拡張させ、輪廻の思想と
因果の法則によって、
この世の善と悪を分別するという点である。

そもそも仏教の本質は輪廻、
因果応報からの解脱でもある。
執着しない、こだわらない、ありのままで分別しない、
のように。
業(カルマ)の観念から離れることが
仏教の本質であることに留意すべきである。
業の世界には
いつまでも深くこだわらないことが必要だ。
神仏にすがり、おびえて過ごすだけでなく、
個人によって選択できることが望ましい。
インドでは牛を崇拝し、タイではナマズを放流して
幸運を呼び込むのだそうである。
アニミズム信仰のように、
業の世界においても信仰の領域に於いては
一方向に偏向しがちとなる。
たとえ解脱が困難であったとしても
状況によって選択できるよう、
道徳のレベルにしておくことだ。



親鸞の歎異抄によれば
「因果応報によって不幸に苦しんでいる人を
救済するのが弥陀の本願である」とある。
(第十三条)
いわば他力救済であって、
自力解脱ではない救済法である。
また、石器改良のような試行錯誤のように
こうした方がいいのではといった、
どちらを選択すべきかのような道徳でもない。

全ての結果には必ず「因」と「縁」がある。
同時に
「因」とは自分の意志による自由からなされている。
業は果報を生じる因となる。
善も悪も「業縁」によるものだが、
その縁により不幸にして苦しんでいる人を救う。
善人が幸せに、悪人が苦難に見舞われるだけであれば
皆善行の実践を選ぶだけだ。
しかし、現実には逆の場面に多々遭遇する。
仏教では偶然による運命観を否定する。

悪をしないのは私が立派なのではなくて、
そうした「業縁」に会わないためだ。
もし「業縁」に会ってしまえば、
どんな恐ろしいこともしでかすであろう。
これは、いかなる因果関係にも依らず無関係に、
差別することなく平等に救われるという
断言の信仰である。
その弥陀の本願と出会うことで救済される。






コメント

本地垂迹(ほんじすいじゃく)と空観方程式の関係

2023年08月22日 | 記事のコメント
「空観方程式」でのやり方は、
例えば電子スピンの回転方向において、
右回転と左回転とを
一つのものにするのではなく、
重ね合せ、スーパーポジション
融合、一体化、無分別化のように
混ざった状態のままでの考えだ。
あたかも二つの対立集団が
空っぽの(眼には見えない観念の)
神輿を担ぐような状態だ。
弁証法のように
対立状態にある人間の観念を、
対立状態のない一つの形にしてしまう
ことではない。
一つの形は
選択できない状態にすることであって、
柔軟性に欠ける。
逆に混合状態のままで進められれば、
状況によって柔軟に姿勢を変えられる。


電子スピンにおいても、状況によって
スピン回転方向を変えて対処している。
これにより磁性の特性が変化することで
メモリなどに利用されてきた。


私たちは宇宙の大原則である
「エントロピー増大則」に支配されている以上、
築き上げたものは崩れ、
秩序あるものは無秩序化する。
生物は堅牢になることを諦め、
自分で自分の細胞を壊すことを選んだ。

「動的平衡」の視点から「不安定な社会」を見る
  生物学者 福岡伸一教授

不安定な状況を創り出すことで、
あらゆる変化に対応できる高次元の
「安定」を実現する。





空観方程式のやり方も、片方を排除するこのない
混在・融合の考え方の応用だ。

  

   
 
       


ここでは、この考えをもとに
我が国古来からの神道と、
6世紀に渡来してきた仏教との
対立状態について
どのようにして融合したかについて
考察してみる。

古来日本人は、
山や海、森や木、岩などの自然物に
多くの神々が宿ると信じ、
アニミズム(自然・精霊信仰)や
先祖の霊魂を大切にし、
平安を祈ってきた。
しかも神道と仏教は
信仰対象も異なる存在だが、
両者「多神教である」点が共通だ。

そして神仏習合の観念は
「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」
の思想で成り立つ。
本地垂迹とは、
仏が人間に恵みを与え、救うために
仮の姿である神として現れる
という考え方だ。
神あるいは仏のどちらかを選ぶのではない。
同時に進める方法だ。



神か仏か、
どちらが正しいのかではなく、
ただ一つの答えを見つけるのではなく、
いくつもの答えを考える。
一方が変えられない状態であっても、
「因」と「縁」の相互で可能性を探る。
要は一つのことにこだわらないことだ。
動的平衡状態のように対立二項を
バランスさせ調和させる神輿のように。また、
色即是空・空即是色のように
やり直ししながら進む状態だ。
それにより、
あらゆる変化に対応可能な
高次元の「安定」を実現する。




さて、歴史上(日本書紀)においては
崇仏の蘇我氏と排仏(神道)の物部氏
との対立記述となっているが、
神仏習合の観念であれば、対立して
一方を排除する必要はないように思えるのだが・・・。


ところで物部氏に勝利し、
仏教を広めたとされる聖徳太子の名称が
最近の教科書から姿を消したそうであるが、
そもそも聖徳太子の名称は俗名であって、
厩戸皇子と日本書紀には記されているそうだ。
もし厩戸(うまやど)の前で生まれたとなれば、
クリスチャンではなかったかとの説もある。
しかも
物部氏と戦ったのは聖徳太子のほかには
蘇我馬子である。
これにも「我よみがえる」との名前であり、
新約聖書のストーリーと重なる。
しかも
「馬子」も馬小屋を連想させるには十分だ。

もし、キリスト教と神道(物部氏)との対立
であったのであれば、
一神教と多神教の対立であって、これこそ
十分に考えられる状況だ。
その後の歴史(壬申の乱)においては、
蘇我馬子の孫にあたる
蘇我入鹿が聖徳太子一族と、山背大兄皇子とを
皆殺しにしたことになっている。即ち馬と鹿によって
日本史が大きく変化したことになる。
それにより、以後
仏教と神道が融合して、神仏習合の観念が
高次の安定を得て1000年間、
明治の廃仏毀釈まで継続した。

ちなみに廃仏毀釈や尊王攘夷の思想は、
選択肢が無く、融通性の無い思想により、
熱狂はするものの不安定となって、
いばらの道を進むこととなった。


尚、余談であるが
聖徳太子には「未来記」「未前記」なる
予言書があると聞く。
それによれば
「都(平安京)ができてから1000年後に
黒龍が来るため都は東に移される」とある。
これは黒船ペリーのことで明治維新を迎え、
東京遷都となり、予言が的中している。さらに
「それから200年が過ぎたころクハンダが
来るために東の都は分裂する」とあって、
これは
近代日本史40年周期説に合わせてみても
この予言が良く合いそうだ。下図
40年周期説では分裂後に衰退がはじまる。








付録:仏教における魂の存在
古来の神道においては、
神は自然のあらゆるものに宿る
という観念を受け継ぐ。
その大いなる力により我らを
お守りいただき、願いを叶えて
いただく。
同様にして仏教においては、
死ねば肉体は滅するが、霊魂は残り
阿頼耶識として宿る。
お盆の迎え火や送り火などは
こうした霊の存在に依るものである。
問題は霊の存在する世界を
「業の世界」といって、
この世の善と悪を決めるというのである。
健康状態や人間関係に不具合があったり、
原因不明の不具合など「業の世界」の
なせることにしてしまうのである。
このような状況は明らかにやり過ぎだ。
面倒とは思わずに、病院に行くなりして
原因と対峙してほしいものだ。

ブラックスワンが存在しないことを
証明できないと同様、
霊魂が存在しないことも証明できない。
そのことを利用して、
霊を清めるなどと言って商売する者も
現れているから要注意だ。





そもそも仏教の本質は
霊魂、輪廻からの解脱でもある。
魂の観念から離れることが仏教の
本質であることに留意すべきである。
業の世界にいつまでも深くこだわらない
ことが必要だ。
インドでは牛を崇拝し、タイでは
ナマズを放流して幸運を呼び込む
のだそうである。アニミズム信仰
のように、業の世界においても
信仰の領域においては
一方向に偏向しがちとなる。
たとえ解脱が困難であったとしても
状況によって選択できるよう、
道徳のレベルにしておくことだ。






コメント

輪廻転生とカルマが決める善と悪

2023年06月07日 | 記事のコメント
輪廻転生は
生まれ変わりの観念であって、
初期宗教における観念に近い。
輪廻転生とは、人が何度も生死を繰り返し、
新しい生命に生まれ変わること。
特に動物に生まれ変わる様な思想は
アニミズムといわれる。アニミズムは
古代宗教に分類されている。
人や動物などに霊魂が宿るとする信仰だ。

輪廻転生とは、
何度も生まれ変わることである。
人生は一度きりではない。
以前にも別の姿で生きていて、
これからも
別の姿に生まれ変わり生きてゆく。

現在の行いは過去の「むくい」に影響される
といった観念である。死ねば肉体は滅するが
精神は存在し続ける。即ちこの前世から現世、
来世へと流れて行く業(カルマ)が存在している。
阿頼耶識と呼ばれる世界であって、縁が来たときに、
因と縁が和合して、
因果応報によって目に見える運命となって現われる。
現在の出来事は過去の結果であり、
現在の行為は将来の原因になる。そして
業にも必ず原因があると説かれ、
善い業(善行)には良い結果が、
悪い業(悪行)には悪い結果が訪れるとされる。


さて、
西洋哲学の代表の一つに「止揚」がある。
二項対立から一つ上の状態にある
新たな観念を作り出す。弁証論
「白い猫も黒い猫もネズミを捕る猫がいい猫だ」
白か黒かの対立を超えた上の状態で政策を進めた
中国鄧小平の改革開放政策での言葉だ。



輪廻転生の思想においても
善い行いと悪い行いは、
一つ上の状態である「業」という
過去の行いに依存して決められる。
輪廻転生の思想に業(カルマ)という状態を
結びつけた(生み出した)点が止揚の思想と
同一である。この点では
輪廻転生といわれる東洋的な思想は、
分別という観念によっては、
西洋の思想である止揚思想に近いものとなる。

そもそも輪廻転生には
善と悪、過去と未来などの「分別」の観念が強い。
肉体と精神、支配するかされるかといった西洋哲学の
思想であって、東洋の思想とは一線を画すものだ。
ところが仏教は「空」に代表されている通り、
「無分別」の宗教ともいわれる。そして、
輪廻転生から離れることを「解脱」という。
迷いという原因をなくすこと(無分別)にある。
即ち
輪廻を乗り越え克服することが悟りであるという。





ところで
善い行いと悪い行いは誰が決めているのだろうか?

問題は善い行いと悪い行いの分別にある。
勝ちと負け、生と死、成功と失敗、多い少ない等、
善悪の基準としてこのような「分別」は、
多数の人間が良い行いとして共有していれば
良い行いなのであろうか。さらには
恐竜の時代のように
強いものが正しく善である。果たしてそうか。

いくら宗教観念が多数に支持されていても
肝心の善悪の基準があいまいなままでは
輪廻転生のように運用に支障をきたすだけだ。
あまりにも分別にこだわるから、
有名な文化人でさえも「死んで生まれかわる」
と言って死を選択してしまう。
こうして何が善で何が悪なのかが不明確なまま
死を選択しているところが問題である。


また動的平衡の観点からすれば、
分別にのみこだわることは、
継続性とは逆の観念であって
苦悩の端緒でもある。

業の観念やら
生と死の観念からいえば、
過去や死の方にのみこだわった
マイナス思考であり、
「死んで生まれ変わる」のように
分別にこだわった
解決策しか生まれてこない。

さらに乗り越えるという観念は
直進的進化であって、
進化論においては誤った考え方の立場である。








多数の観念と折り合う姿が真実である。
人間の観念は自然選択と同様に、
良い悪いではなく、感情や経験などの
外部環境によって生き残りやすかったどうかで決まる。
人間の観念に対応する外部環境は無限に存在するから、
その結果、無限に枝分かれさせる要素が生まれている。

そうであれば善と悪は「業」が決めることでもない。
さらに人間の多数の共有観念などではなく
外的環境(状況)が生命の適用性を決める。
従い、無限にある人間の観念は善も悪も業も、
すべてが進化的な対等の関係にある。



恐竜時代でも、
その中で細々と生き延びていた哺乳類が
環境変化によって繁栄したように、
変化の中での継続には多様性が必要である。
自己の観念は自己のためだけにあって、
何かにこだわったり、
他に押し付けたりしないことだ。
多数の観念、あるいは多数の価値観と
枝分かれのシステムによって折り合う。

人間が善悪を決め、
直進的に優劣を定めようとするから
苦悩し、対立し後悔する。
人間は人間の観念を
対等な枝分かれの状態であるとの認識であれば、
多数の枝分かれの中から、自分に合ったものを
選べばよいだけだ。
それには二項対立の概念が役に立つ。
二項対立によって、
一つのものにこだわることが無くなり、
「できる時に行い
できない時には行わない」といった
多様性の観念を編み出してくれる。

重ね合わせの概念
双方の絡み合いの概念でもある。
止揚とは異なる状況であって、
他を否定したり排除することでもなく、
双方が対等であり優劣の区別がない。
二項対立による重ね合わせによれば、
神輿のように双方が対等のままで、
(空の状態のままで)進んで行ける。
縦糸と横糸によって現れる真実の姿である。
これが唯一の真理だ!と一方に固執
するならば、真理には到達しない。






分別による序列化(止揚思想)


重ね合わせの状態
二項対立(分別)にある場合でも
序列化しない




注)良いか悪いか(役に立つか役に立たぬか)
  人間の観念の価値は
  外部環境(状況)によって選択される



タイのプーケットでは現在もなお
邪悪を払うため、幸運を呼び込むために
ウナギを放流する習慣があるという。
さらに僧侶の托鉢に喜捨を毎日行う姿も
TVにて紹介された。



脳科学者の茂木健一郎氏が
国際政治学者といった観念に対して、
「きちんと根拠を示すべき」などの声が
相次いでいる事態に対して、
無意味なことだと発言している。

ここでも、
人間の観念に普遍的には意味がないという事例の一つだ。
もともと
無意味な観念に根拠などは存在しないのである。
そもそも「国際政治学者」の観念も
多くの人間に有益だとは限らない。
ただ単に
一個人が自分にとって価値があると思って
使っているだけなのである。

個人個人が自分にとって価値があると思われる
無限にある観念の中から採用しているだけなのだから、
他人がその根拠を示せと主張するのはおかしい。
タイのプーケットにおいて、
「ウナギを放流する人に向かって根拠を示せ」
とはだれも言わないだろう。


忠義も信用も
役に立つ観念なのかは
人間が決めるのではなく、
その時の環境によって左右される事例。

コメント

生まれ変わってやり直すという観念だけでは

2023年05月25日 | 記事のコメント
自己の持つ観念が一つしかない場合には
(ある一つの観念にのみこだわってしまうと)
選択肢が限られてしまう。
もしも
自分の立場と多数の立場との違いにより
環境の変化に対応できなくなれば、
多数の人が抱く虚構の観念に押しつぶされる。

一つの観念に対応・対立する観念を知っていれば、
即ち二項対立から生まれる観念の存在を知っていれば
選択肢が格段に広がるものだ。これは
「進化における無限の枝分かれ」が環境の変化に
対応できるようになっているシステムと同様の
システムだ。

例えば、
「輪廻転生」という多数の人が持つ観念のみで、
それと対立する観念を持ち合わせていなければ、
環境の変化に対応できなくなった時に
選択肢が乏しいものだから、
「生まれ変わってやり直そう」という解決策しか
生まれてこない。
輪廻転生に対抗する観念として例えば
ニーチェの「永劫回帰」を知っていれば、
対立二項との重ね合わせの原理から、
多くの選択肢が生まれて存在してくるものだから、
硬直した観念に
押しつぶされることが無くなる。
人間の持つ観念は無価値であるという観念に
価値を見出すことができれば、(無義の義)
無価値の中から、
自分のみに通用する価値を見出して
それを肯定して生きることができる。

生と死の二項対立においても、
死の方にのみこだわってしまえば、
どうせ死ぬのに何故生きる?という結論しか
生まれてこない状態となる。
どうせ、なる様にしかならないのだから
何もしない、という観念ではなく、
進化の枝分かれのシステムと同様に
人間の観念にも
多くの枝分かれがあってよいはずだ。
その中の選択肢から、即ち
その場その場における環境から、
その場限りで選べばよいだけだ。
なる様にしかならくても、
その場でなることを肯定してやり抜く
生き方だ。



そもそも個人の肯定する観念は
年齢を重ねると変化するものだが、
大勢が肯定する共有観念の方は変化しない。

役に立つ人間が正しいという観念の例でも、
当然のように
役に立たなくなる時が訪れて来るものだ。
要は、その時にどうするかだ。
永劫回帰のように
最初から無価値な観念だと判ったうえで
自分がその場限りで
肯定して来た観念であれば、
多数の虚構観念に押しつぶされることは
なくなると思うのだが。









死んで生まれ変わるという観念の事例
    







あとがき 1

輪廻転生に対抗する観念として、
永劫回帰以外の「枝分かれ」事例としては
「業のはなびら」という物語の例もある。
「二十六夜」という童話に
現実とファンタジーとの二項対立から
何とか業というものと折り合おうとした
結果のストーリーとして、宮沢賢治が
主張したものだ。



あとがき 2

脳科学者の茂木健一郎氏が
国際政治学者といった観念に対して、
「きちんと根拠を示すべき」などの声が
相次いでいる事態に対して、
無意味なことだと発言している。

ここでも、
人間の観念に意味がないという事例の一つだ。
そもそも
「国際政治学者」自体に対する観念は無意味であり、
もともと
無意味な観念に根拠などは存在しないのである。

古墳から出土する鏡や刀剣によって想像される、
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念と似たようなものだ。


繰り返されることで無意味になる。
クローン家畜の場合は儲かるかもしれないが
観念としては(インド人が牛を崇拝するように)
進化の立場から見れば無意味である。
現に多くの虚構といわれる観念は現在に至るまで、
なお繰り返されている。
「国際政治学者」の観念も
使えば儲かるかもしれないが、新たに生まれた
ものでもなく、繰り返されていて無意味である。




コメント

二項対立の実態

2023年01月31日 | 記事のコメント
「JPCZ」
Japan sea Polar air mass Convergence Zone
日本海寒帯気団収束帯


二つのものが収束することで
新たな状態が出現することを示す。
日本海側の平野部にも大雪が
出現する現象だ。
毎年この大雪によって大渋滞が
発生している。

それぞれの対立した二項が
一つに収斂して、
新たな状態が出現する。
科学にも重ね合わせの状態
SuperPositionとして
新たな状態が出現する現象がある。



光があれば影(闇)もある
正義があれば悪もある
神があれば悪魔もある
天使がいれば魔女もいる
という人間の分別。


世の中の理解できないことや
納得できないことに接することから、
そこを乗り越えるためには、
おとぎ話などの物語が必要であった。

将来の不安を解消し安定するために、
対立する二項が一体化して出現する
神話が必要であった。

例えば日本の古墳から出土する鏡は
邪悪なものを退けるための祭祀として
出現したものであるとされている。
出土した鏡や剣には「邪悪なものを
寄せつけない力がある」との
ストーリーによって埋葬されたとされる。

そもそもホモサピエンスにとって、
死体をごみのようには扱えないから
何らかの儀式が必要となったのと同じである。
要は
人間の進化によって獲得した分別によって
生じた苦悩や悲しみに対し、
そこを乗り越えるための必要なものであって、
いわば想像上の秩序である。

特に、生と死の二項対立は人間にとって
避けることのできない状態だ。
「JPCZ」と同様のように、
生と死の二項対立が一体化することにより、
普遍的で尚且つ体系的に理論化され、
新たに生まれた物語が宗教であると
言える。




光があれば影(闇)ができる。
正義があれば悪ができる。
夢と現実とが一体となることで
物語ができる。
やがて
闇や悪による苦悩から解放されるために
宗教や権威主義思想が生まれる。

夢(理想)と現実という二項対立(色)。
現実だけでは解決できない、納得できない、
そこから
夢(想像上)という理想の物語とが
一体となること(空というエネルギー)で
将来への安定が生まれ(新たな色が)
獲得される。



しかし
思想上の概念のみにこだわっては、
思想と豊かさとが一体となることで現れる
新たなエネルギーに乏しく、
現実社会での自由(多様性)が制限される。
要は人間の分別である二項対立においては
片方だけにこだわらないことだ。
片方のみにこだわれば
新たな状態は出現してこない。
いつまでたっても
解決することができないので
苦難の道を歩み破綻する。

例えば闇のみにこだわってしまうと、
どうせ死ぬのに人間はなぜ生きるのか?
から抜け出せなくなり
物語が生まれずに苦難の道が続いてしまう。
一旦リセット(空観)して
苦悩との折り合いも必要なのである。

要は分別と共存することでも不安から
解放される。
その場その場で自分のできることを
行う。
出来る時に行い、出来ない時には
行わない。
あるがままでもいいし、
あるがままでなくてもいい、
親鸞のいう「無義の義」である。
また西行も言う、
「身を捨ることこそが己を救う道でしょう」
一旦、全部捨てたことだと思えば、
かえって元気が出るものだ。





[参考]
奈良富雄丸山古墳:
(コラム産経ニュース)2023/1/30
盾の防御性と鏡の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念が生まれた。
大阪大学の福永伸哉 教授



コメント

covid-19 超過死亡数の経過

2022年12月22日 | 記事のコメント
我が国における超過死亡者数の推移




我が国での超過死亡者数(累計)の推移



日本では2020~2021年が少なかった分、
2022年には増加して、補償(Compensation)
されたようになってみえる。








参考:
米国での超過死亡者数


コメント

動的重ね合わせと般若心経

2022年04月02日 | 記事のコメント
重ね合わせにある1個の量子ビットの
右回転でもあり左回転でもある状態を
人間は観察することはできない。
唯一偶然によってのみ、
右回転か左回転かのいずれかが
観察される。
それによって高速の演算が可能となる。
量子を見るまでは右回転か左回転か存在しないが、
素粒子のような微視的世界では実証されているが、
人間スケールの巨視的世界ではこれまで未解決だ。


ところで天使と悪魔がいて
双方が逐次出現する場合を動的平衡という。
禍福はあざなえる縄のごとしである。
しかし悪いことは重なるものだと
言われることがあるように、
コインの様に表と裏が回転して
順次現れるとは限らない。
競技においても、一度ミスしてしまうと
ズルズル点差が開いて引き離される。
逆に
一旦勝つことでイケイケどんどんとなって
勝ち進む。
従い天使と悪魔は、コインの様に順次現象が
入れ替わる動的平衡とは異なり、重ね合わせが
実在のようだ。しかし
人間は重ね合わせの一体となった状態を
観察できないから、
たまたま天使か悪魔かを観察できたとしても、
それは偶然の結果である。
しかもそれは人間の意識上のものだ。

重ね合わせの状態にある天使と悪魔のイメージ図


さて、「電子は波でもあり粒子でもある」
その重ね合わせされた状態は観察できないが、
”粒子”である電子を一個ずつ
二重スリットに向けて打ち込むと、
多数の蓄積が進むにつれて
スリットを通過した位置のスクリーンには
電子の重ね合わせ状態によって生まれた
波の”干渉縞”が現れ、観察が可能である。




重ね合わせは自体は眼に見えないものだが、
例えば疎水性と親水性が
重ね合わせの状態にあるとすれば、
そのことで、
自発的に細胞膜が合成されている。
その状態のイメージを下図に示す。




親水性と疎水性の重ね合わせの状況は
観察できないが、現れた物質の細胞膜は
眼で見ることは可能である。
親水性と疎水性の重ね合わせの上図は
想像図であるが、
問題は自発的にしかも動的に細胞が合成されて
現れる状況だ。

同様に時間と空間の重ね合わせの状態は
見ることができないが、それによって生まれた
人生や運命も重ね合わせの結果なのであろうか。
もしそうであれば、
動的重ね合わせで作られ決められた運命に
逆らってみても思い通りにはならないわけだ。

ただ、よく乗り越えるべき人生とか、
定められた運命とかいわれるところを見ると、
あらかじめ時間と空間の重ね合わせによって
自発的に且つ動的に作られているように思える。
あらかじめ作られた人生が目の前に現れるので
ラッキーか、アンラッキーなものか、そしてそ
れを乗り越えようとすることは可能だが、
逆らったり無かったことにすることはできない。

であれば、
何のために生まれてきたのかって?
生きる理由は時間と空間の
動的重ね合わせの原理に聞いてくれ!
動的重ね合わせで現れた運命から聞いてくれ!
ということになる。


「人間が人生の意味は何かと問う前に、
人生のほうが人間に対し問いを発してきている。
だから人間は、本当は、
生きる意味を問い求める必要などないのである。
人間は、
人生から問われている存在である。
人間は、
生きる意味を求めて問いを発するのではなく、
人生からの問いに答えなくてはならない。
その運命を受け入れる事だ。」
ヴィクトール・E・フランクル

自分が死んでも自分は困らない。
生きる理由は自分にないから。
子供のように
海とか山とかのつながりから
自分は生きている。
養老孟司



誕生直後の宇宙における
空間のみの膨張をインフレーションという。
インフレーションが終わると、
宇宙の温度が上昇し、ビッグバンが起こる。
そして、素粒子、光、熱が生まれた。

そもそも初めから現在まで
すべてが自発的(自律的)であり動的である。
そして現在でも宇宙の加速膨張が続く。
その原因は、ダークエネルギーとダークマターだ。
人間が観察できないのは、それぞれが重ね合わせの
状態だからなのかもしれない。

アインシュタインの方程式に依れば、
時空のゆがみと時空の変化が物質の分布、
即ちエネルギーに相当するという。
このダークエネルギーが見えないのは
時空のゆがみと時空の変化が重ね合わせの状態
になっているのかもしれない。
しかし、ダークエネルギーから合成によって
人間が観察できるものも絶え間なく自律的に
出現される。
近年、ダークエネルギーからの合成によって
(二つのブラックホールの合体時に)
重力波として観測されている。

宇宙の中の圧倒的な割合で存在する
ダークエネルギーとダークマターは、
ビッグバン直後では素粒子の合成が主だったが、
今では巨視的なものも自律的に合成し続けている。
それらのそれぞれの合成の結果で
人間たちの運命(人生)が創られる。



また、いささかこじつけ的であるが、
具体的には
時間と空間の重ね合わせによって生まれた
闇と明るさについても同様だ。
自律的に生まれる事象なので、
そこにどうしても出会ってしまうモノだ。

西洋では数多くの争いの中から生まれ、
そしてよく言われる。
闇はあらゆる所から、
そしてあらゆる方向から迫ってくる。
しかし明るさも必ず生まれているので、
少しでもその明るさによって対抗すべきであると。


目の前に現れた人生や運命が
ラッキーかアンラッキーなのかは
眼で見ることで自分の意識によって変化する。
せいぜい天使が見えてくるように
意識を誘導することは可能だ。

天使か悪魔かわからなければ人間は
「気分よく過ごすと、天使のように意識され」
逆に
「心配、不安、恐れ」そういう感情を持つと、
悪魔がやってくる意識が働く。
要は
天使だろうが悪魔だろうが
両方合わせたモノが実在の全体だ。

人間は重ね合わせの中でしか生きられないので
重ね合わせの状態を外から観察できない。
唯一神だけがこの重ね合わせの状態を外から
見ることができるのかもしれない。





波動方程式の解やオイラーの公式にも
重ね合わせの状態が数式上に見られる。
  





ところで
般若心経にある「空」も
量子ビットで言う重ね合わせに近い。
いわば
電子が波でもあり、粒子でもある状態と同じだ。
それはダークエネルギーと同様に
人間は見ることのできない世界である。
人間はそこから自発的に現れる時空、
即ち関係性の縁起やら関係者を初めて
目の前にする。
それが「色」というもので表現される。

眼に見える「色」には古来より、
意識により状態が変化する善悪二元と、
変化しない陽陰二元が知られている。
変えられないものを変えようとしない事だ。
また、
仏教では二元の境界について、無分別や
一体化などと、これもよく知られていて、
ここから「空」の概念が導入されてくる。


ここでは、その時間と空間とがふたたび
重ね合わせとなった状態になれば元の
「空」である。



「空」は量子ビットと同様に
空間のゆがみと時間の変化の
重ね合わせであれば、
人間にとって
観察することができない状態であるが、
現実には存在しているものであって、
したがい「無」とは異なる概念だ。


加えて、
「色即是空」と「空即是色」もちょうど
量子ビットの右回転と左回転に対応している
重ね合わせの状態だ。
「色即是空」これが真理だ!
とこれだけに固執するならば、
真理には到達しない。量子ビットと同様に
重ね合わせの状態であって、
「色即是空」であるとともに
「空即是色」であり多様的だ。

同じく妄想をさらに拡大させれば、
ダークエネルギーとダークマターに
対応しているとも考えられる。
「色即是空」と「空即是色」のそれぞれの
重ね合わせの状態は
やはり見ることができないので
想像するしかない。
それによって例えば群れが自発的に作られる。
その重ね合わせから作られた群れが実態として
初めて観察される。
群れの動的な多様性は人間の意識として
創りだされた結果である。



ダークエネルギーとダークマターの
重ね合わせで、宇宙に満ち溢れている
有機物の群れが自発的に現れ、その中から
遺伝子の4つの塩基も創られる。

こうした重ね合わせは誰も見たことはないので
否定する証拠はなく、無敵である。



時間と空間(関係性)の重ね合わせと同様に
概念の重ね合わせも創造される。
「諸行無常」と「諸法無我」も重ね合わせ
であれば目で見ることはできないが、
「涅槃寂静」が自発的(自律的)かつ動的に
に創り出される。
それは社会の多様性に対処できる。
そこが動的重ね合せの原理である。

例えば「諸行無常」が青で、「諸法無我」が赤である。
「涅槃寂静」が純粋実空間に対応する。
「諸行無常」と「諸法無我」の事象の上に
成り立つ概念であって、動的なものであり且つ
涅槃と寂静が時間と空間の複素空間のように
やはり重ね合わせとなっているように見える。
悟りと安らかの状態として表現されてはいるが、
重ね合わせの状態であれば観察はできない。
しかし
それによって自発的に合成されたものは
柔軟性や多様性などの自己肯定の姿となって
目に見えてくるものだ。





参考:
弁証法で知られる止揚論については、
対立したり矛盾したりする概念によって創られる。
双方を合わせ、どちらも切り捨てることなく
より高次の次元での概念を導くものであるが、
動的なものではなく静的である。





唯識論
「客観と主観との両者を含めたあらゆる存在はすべて、
ただ表されたもの、知られたものに過ぎない」
という意味。
唯識説は、あらゆる存在は認識された姿として
立ち現れているだけであって、
認識された姿の背後に実体的に何かが存在すると
予想しない。
人間の目には見えない重ね合わせから立ち現れてくる
現象と同様だ。



エントロピーの法則に逆らう生命現象も動的である。
合成と分解とが常に逐次繰り返されている。
分解を少しだけ先回りすることで
持続的な秩序として生命が生まれる。
福岡伸一博士が提唱した「動的平衡状態」と呼ばれていて
大変有名である。





ダマスカス鋼
ダマスカス鋼はその強靱さ、錆びにくさ、
表面に浮かぶ優美な波紋から神秘性をもち、
その製法はいまだ謎に包まれている。
溶解させた鋳鉄を
坩堝の中でゆっくり凝固する際に、
内部結晶作用により融点の違う鋼が
別々に結晶化したことにより模様が
発生した鍛鉄をいう。
この溶解させた鋳鉄の状態が量子ビットの
重ね合わせの状態に近いものだ。
見ることができないから想像するしかないので
神秘性のイメージとなる。
自律的に結晶化して現れたものが観察される。

ところで現代のダマスカス模様は
異種金属を多層に重ね合わせることで、
この模様を形作っている。従い
量子ビットの重ね合わせとは異なるものだ。
この多層に重ね合わせ、素材を鍛えることは、
日本刀の技術で知られるように、
非常に優れた刀身を生み出す。
これは多層の素材を圧延し鍛える過程で、
現れる模様である。







空観方程式での問題の解決では
重ね合わせの状態にすることだ。
即ち、これらは量子ビットのように
両方の状態をいつも同時に持つことである。


あるときはあるように
ないときはないように。

できないときはできないように
できるときはできるように。

ありのままでもいいし
ありのままでなくてもいい。



「やればきっとできる」という自己効力感は
成長するにしたがい、さまざまなネガティブな
経験によって低下してしまいがちだ。それは
正しいか正しくないかだけの物事に固執してしまう。
再び高めるためには柔軟性を持つことだ。
「何があっても受け入れる」という柔軟な心。

何が起きるかわからない世界で生きるには、
重ね合わせの状態によって、多様性へ備え
「いいときも悪いときもありのままの自分を信じ、
自分は何を選んで、何を大切にしていくのか」の
目の前に現れてくる実態としての前向きな気持ち、
自己肯定を常に持ち続けることだ。









重ね合わせとは
コメント

象の鼻はどうして長いのか

2022年01月25日 | 記事のコメント
人類の至宝といわれる
オイラーの公式より

SINだけでもダメ、
COSだけでもダメ、
両方混ざった状態、あるいは
実と虚の二項、二元で形成される
複素空間が良い状態だ。

三角関数だけでもダメ、
指数関数だけでもダメ、
両方が交ざった状態で解決される。


三方よし
売り手よし、買い手よし、
売り手だけでもダメ、
買い手だけでもダメ、
両方の「よし」が混ざった状態で
「世間よし」が生まれている。

ビジョンだけでもダメ、
ハードワークだけでもダメ、
両方混ざった状態が良い状態だ。
それだけ大きな喜びが生まれる。

癒しだけでもダメ、
モットモットだけでもダメ。
どうなるかだけでもダメ、
どうするかだけでもダメ。
ミッション(役割)は何か?だけでもダメ、
パーパス(志)が何か?だけでもダメ。
両方混ざった状態で解決される。

  

なぜ生きるのか?どう生きるのか?だけでもダメ。
片方だけではいつまでたっても解決しない。
同様に、こうでなければならぬ!だけでは
ダメなのだ。
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態が良い状態だ。即ち
今のままありのままで生きる、と
やればできるの両方だ。

自分になぜ生きるのかと
自問することは、
キリンにどうして首が長いのか?
と聞いているようなものだ。

自分にどう生きるのかと
自問することは、
象にどうして鼻が長いのか?
と聞いているようなものだ。

答えは誰にもわからない。
そんなことはどうでもいい。
象はそのままで生きているだけだ。



自分の「存在意義」だって同じだ。
自分の生き方を自分で決められる、
決められることが正しいか正しくないかではなく、
あるいは
その生き方が正しいか正しくないかではなく、
自分で決められる姿が、キリンや象と同様に
人間の本当の姿だ。
様々な問題を抱えながら、
時々の最善なものを決めながら
キリンや象と同様に
そうした姿で生きている。


人間は、自己都合という追い求める心、
「心の振る舞い」について獲得したが、
その代償として
「悩める存在」となった。

こうしたところが首の長いキリンや、
鼻の長い象と同列なところだ。

光があれば影があるように、
人間は交ざりあった心の中から、自己都合などの
相互作用によって本当の姿(原因)を見ることだ。
そうした動物だから、どちらかだけに
こだわらないことだ。

個人の情熱を傾けられる何かといった、
「こだわり」と「他に思いを馳せる」との
両方の混合とによる一体化だ。

要は二分割思考だけで終始しないことだ。








    



このような
二項対立の混ざった状態の中から
本当の姿が見えてきて、
そこと折り合いをつけることで、
解決が生まれてくる。
例えば
存在意義だけでもダメ、
経済的自立だけでもダメ。
混ざった状態の中から解決が生まれてくる。

やればできるだけでもダメ、
ありのままがいいだけでもダメ、
双方が交ざった状態、
あるいは相互に繰り返す状態が
本当の姿であって、要はここでも
二分割思考だけで終始しないことだ。

できないときはできないように、
  できるときはできるように。

有るときは有るように、
  無いときは無いように。

目標があればあるなりに、
  ないときはないなりに。





西行は
「身を捨ててこそ 身をも助けめ」とうたった。
「身を捨てる覚悟」のようなものが有ればこそ、
むしろ不安から離別できて、
本質、真実が見えてきて、安心につながる。

悟りを捨ててこそ、悟ることができる。

私を忘れることこそが、本当の私になれる。

無義の義(親鸞)

要するに、相互作用に導かれ、
やればできるを捨ててこそ、
できるようになるということか。
それが複素空観での方程式の解答だ。
二分割思考の参考:



双方が交ざった状態がよい
ありのままを捨ててこそ、
ありのままにふるまえる。

あるがままは、我慢していた自分から解放される。
あるいは
出来ない時は、出来ない様に、との意味合いだ。
しかし、
ネルケ禅師も西行法師と同様に、
あるがままに、と思った瞬間、
あるがままではなくなるという。
さらには、
あるがままが強すぎると、
自己都合を振りまく事にも
つながると警告する。

やはり
こうでなければならぬ!
といった一本気、一途さ、純粋さには
自己都合というものが混在する。
怒り、喜び、嫌悪、驚き、期待、恐怖、悲しみ、
と自己都合とが相互作用することでの
「思いの枠」と「悩み」から見えてくる、
自己都合の無い本当の姿とは?

親鸞の「義無きを義とす」であって、
無い無い無いのまっさらな状態しか存在しない。
いうなれば
ありのままでもいいし、
ありのままでなくてもいい。
要は動的二元
Dynamical Dualityから生まれる多様性のように、
交ざった状態から生まれてくる、自己都合やこだわりの
無い無いの状態。
それらが折り合いを付けるという事で調和する。
歪みや変動の無い「真の実在」が見えてくる。






参考:
日本人に「宗教」は要らない
ネルケ無方 2014年2月
「楽しみを目的にしない」より

いつもハッピーでなければいけない
というのは幻想である。
それが現実であり、それに気づかないと
余計に不幸になってしまう。
「苦しいときもあり、幸せでないときもある」
(ハッピーになる事を捨ててこそ、
ハッピーになるということか)と思えたら、
人は意外と安定した人生が送れるものだ。
誰も苦しみの受け入れ方は教えてくれない。
幸せになれ、夢を追え、というが、
夢など見なくても、普通に現実を生きて
いくだけでいいではないか。











コメント

コントロールできない世界で生きている

2021年11月08日 | 記事のコメント
コントロールできない法則の中で、
生きづらさの無い生活を送るために
オイラーの公式が役に立つ。



正しいか正しくないかだけでは解決しない。

オイラーの公式は
二項対立の中でも
問題解決の方法を示す。



エントロピー法則の中で
代謝による生命活動の例



マンドラゴラの植物からは
二項対立が一体であることを
互いに認め合うことだ



人間のDNAも
ウイルスより獲得された姿として
形成されている。
人間もウイルスとの共生によって、
折り合いをつけることで
進化してきた証拠だ。

理念と現実の二項対立
コントロールできない世界の中では
それぞれ交互に繰り返されることで
秩序が維持されてゆく。
コメント

分配か成長か

2021年10月29日 | 記事のコメント
成長か分配かの問題を
「三方よしのトライアングル」に当てはめる。


三角形の頂点には
新たに生まれるものや見えてくるもの、さらには
二元対立による問題の解決法である。

例えば三方よしとオイラーの公式では
以下に示すようなトライアングルとなる。

トライアルの頂点には新たに『信用』として
『世間よし』が当てはめられる。


成長か分配かの問題では
どちらが先か、あるいはどちらを選ぶか
ではなく、
両方必要であるので、オイラーの公式のように
三角形の頂点は
「循環メカニズム」となる。

好循環なのか悪循環なのか
それを見極めることによって、
悪循環であれば、その原因を突き止めて
改良するメカニズムが必要だ。

そのメカニズムを作る作業が
政治である。



わが国の現状としては、
財務省事務次官の選挙前投稿記事の
内容に対して多くの賛否両論が有って、
且つ、事務次官の異常なパーホーマンス
を見せられれば、どう見ても正常な
状態ではない。結果として
循環メカニズムがうまく働いていない
のではないかと思わざるを得ない。
コメント

コロナワクチン予約システムの不備報道

2021年05月21日 | 記事のコメント
「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」 小林秀雄 のことば

花が美しい(観念)のではなく、美しい花がある(本質)のである。
本質が先にあって、その後に観念が従う。

即ち
正しいか正しくないか(観念)ではなく、何が真実か(本質)である。

例えば
正しいか正しくないかの「理念」で生きるときは、
正しいと思い込んでいるが故に、自我の都合や情念によって、
正しいと思った立場を変更できなくなってしまう。
正しいことであるから
突き詰めれば突き詰めるほど破綻に向かって進むのであって、
幕末の尊王攘夷などが象徴的である。

正しいか正しくないか(観念)だけでは持続性はなく、
物事は何が真実か(本質)が先にあり、その結果何が現実なのか
と共に一体でなければならぬ。



満州事変しかり、真珠湾攻撃しかり

このたびの朝日、毎日新聞のコロナワクチン予約システム不備報道も
同様である。
即ち予約システムに不備があることは正しいのだけれども、
現実は「ワクチン接種をいち早く実施する」というのが本質であり、それが
現実なのであって、予約システムが正しいか正しくないかだけの
一面だけを取り上げてそれを報道してしまった。
自分は正しい事をしているのだ!正義を貫くのだ!という思い込みがそうさせる。
自我の都合だけで観るから本質を見失う。こだわりやしがらみがそうさせる。
物事は自と他との一体、本質と現実の二元性の基で評価すべきなのである。




空観方程式では
「色即是空」のみならず、「空即是色」と一体で物事を観る。
あるいは
物事は「諸行無常」のみならず、「諸法無我」と一体である。










コメント