明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

広島の無差別殺人に思うこと

2018-01-15 21:30:00 | 今日の話題
広島の無差別殺人事件、結局死ぬ勇気が無い者の死刑願望らしい。警察に死刑にして欲しいと言う犯罪者は、殆どが「凶悪な犯行=死刑」という頭しか無い。本人は死にたくないので「無理やり殺される=死刑」という理屈でしか解決法が頭に浮かんでこないのだ。世の中にはもっと危ない行動が山ほどあるのに「それが余りにも直接的に死を連想させるので」、怖くて実行できないというのが本音だろう。ネットでは「ヤクザの事務所で無差別殺人しろ」という、考えただけでもゾッとする報復が待っているようなアイディアを提案する書き込みも多くあった。だけどヤクザだからと言って、無差別に殺しちゃ駄目でしょう。それに相手がヤクザじゃ「殺人が失敗」して、タダの傷害になる可能性も大アリだから、あとあと相当面倒なことになる。そんな面倒ごとに巻き込まれること自体が「この手の意志薄弱犯罪者」には耐えられないのである。それで無抵抗の一般人をターゲットにするのが一番楽という結論になる。本心は死にたくないのである。でも死ななければ「もっと悲惨な状況=苦しんで生きる」ことを選択しなければならない。だから本人は痛くも痒くもないが捕まって死刑になるという「無差別殺人」を選ぶのである、というのが私の読みだ。

このニュースを読んでちょっと思ったのは、「正しい裁判で死刑になる」ということが本人の望んでいることなんじゃないのか、ということであった。暴力や戦闘で殺されるのは「なんとなく気が進まない」が、本人の犯したことは死刑に値すると正式な裁判で判決されるということは「法に則った自分への評価」が殺人犯だと言うことであるから、言わば「自分が殺人者として共同体から正式に認知された人である」と自覚することが出来る。そういう人格になって初めて、本人は「生きていてはいけない人」なんだと周囲も自分も認めることが出来るのである。くどいようだが無差別殺人を犯す人間は「精神異常者」である。普通の人が考えるような思考回路を持っては居ない。だから「自分一人で死ねばいいのに」と、まっとうな理屈を言っても始まらない。犯人は自分を社会にいてはいけない存在だとうすうす感じている。だが自分を「社会から消す方法」が見つからないのだ。頭が悪いというばそれまでだが、悲しいかな正常な理屈が欠けているのだからしょうがない。一種の病人または欠陥品である。本人が望んだわけではなく、何の因果か知らないが「こうなってしまった」のだ。被害者が殺されて当たり前の人間だったら「彼は社会から抹殺されるべき人間では」無くなる。それじゃ困るのだ。

そう言えば、同じように「試しに級友を殺害てみた女子大生」の事件を思い出した。精神障害は明らかである。だから判決は「死刑になるべき」であるが、この場合「懲罰的な意味合いは無い」のでむしろ「駆除」といったほうが良いかもしれない。余りにも非人間的とお叱りを受けそうだが、存在自体がもう非人間的なのではなかろうか。我々通常の人間の感覚からすれば「理解できない生き物」に見える。言葉は通じるのだが「意味する所が、遥か宇宙の外の闇」なのである。「駆除」と言ったって、本人はその意味を「ああ私は死刑になるんだな」という程度の理解で受け止めるだろう(あくまで私の推測だが)。だから精神疾患のある人間を死刑にするのがどうしても嫌だとおもうのなら、「正気にもどるまで精神病院」にいれておき、正気に戻ったら「死刑」にすれば良い。無実なのは「精神病だから」で、正気に戻ったら「自分の犯した罪の大きさに驚いて」自殺するのが普通であると言える。たとえ自殺しないまでも、死刑執行には反対しないであろう、なにより「正気」なのだから。だがこの方法はより精神的に辛いものがある。

現在の刑法では「精神病で善悪の区別がつかなかった」という理由で「無罪=責任能力なし」を主張できる。では責任能力とはなんだろうか?自分の犯したことの善悪を正しく判断し、罪の対価としての罰をきちんと受け入れることだとすると、これは「ごく当たり前の能力」である。世の中の犯罪者を含めて、大抵の人は「こういう責任能力」を持っている。持っていないのは一部の「精神障害者」である。では一部の精神障害者を社会の一員として受け入れるのか?そこが問題である。私はここで精神障害者と言う言葉を「人格欠落者」という意味で使っている。人格欠落者のように「殺人を、何らかの理論で正当化する」思考を見破るのには、普段の観察が重要ではないだろうか。そういう「向こう三軒両隣的な危機管理体制」が機能しなければ、このような危ない人間はとても見破ることは出来ない。それでも事件は起きてしまうだろう。起きてから対処するしか民主主義の社会では方法がないのだ(北朝鮮なら危ないやつも危なくないやつも一緒くたに隔離してしまうから事件は起きない)。せめて刃物や銃器を持ち歩かないよう、皆で監視し合うしか方法はない。事件の被害者にはお気の毒としか言いようがない。ただ私の意見では、捕まえた犯人は「正気を取り戻す前に駆除する」のが、刑を執行する側の気持ち的にも楽だろうと思うだけである。そうすれば判決を出す側も、良心が痛まなくて済む。

「罪を憎んで人を憎まず」。どうにも避け得なかった痛ましい事故、私は被害者と犯人の「双方」に対して、そう思うのである。

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