明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

華族の肖像

2018-01-16 22:30:00 | 今日の話題
昨日の「にっぽん!歴史鑑定『華族の令嬢 栄光と没落』がなかなか面白かったので、感想を一つ。

明治維新から始まった西洋化の波に乗って、大名・公家は華族という「身分制社会のトップ」へと変身する、ということは学校で習って漠然と知ってはいた。しかし色々とエピソードを見せられていくと、大戦後の外圧による急激な変化が華族という身分制度を崩壊させていったことがよく分かる。一つには、このような大改革(それの良し悪しは別として)は、日本では常に「外国からの圧力」として働くということだ。そして二つ目にはそのような大改革に対して「潔く従っている」ことである。外国であれば内戦が起きるところだが、日本人はどういうわけだか「運命を受け入れる方向」に働くようだ。ここらあたりに日本躍進の秘密があるように思うが、ひとまずエピソードを追ってみよう。

1 吉井徳子
あの歌人の吉井勇が華族だったとは知らなかった。華族というのは庶民から見ればもともとは大名・公家という「雲の上の存在」であり、それが維新が起きてから一般の目にも触れるようになって話題に登るようになって来たらしい。そんな中で有名な「ダンスホール事件」が起こる。その渦中の人物(ダンス教室フロリダのダンス教師)の証言でマスコミから吊るし上げられたのが吉井徳子つまり吉井の妻である。彼女は昭和天皇の「また従姉妹」というエリート中のエリートだったのだから全国的な話題をさらったのも無理はない。彼女がいろいろとスキャンダルで世間を賑わせたことはさておいて、吉井勇が歌をつくるために花柳界に足繁く通って家庭を顧みなかったという事実に私はがっかりしたのである。吉井勇は別に好きな作家でも何でもないが、私の中では日本詩人の一人という認識だったので「なんだよ」と思ってしまったのだ。芸術家は「作品の質」で評価されるべきで、私生活は無関係というのが私の持論だが、やっぱり目の前に俗っぽい姿を見せられると嫌なものである。あのモーツァルトも「品性が下劣だ」と批評家からは散々だが、作品からは全くそのような気配は感じられないのだからいいじゃないか、と思っていたが果たして・・・。これは「芸術作品に人格を求めるフランス革命以来の悪しき伝統」ということにしておこう。芸術家の実生活など、出来れば知らないほうがいいのだ。本題に戻れば、吉井徳子が警察の取り調べを受けたことは新聞に大きく取り上げられた。人々の華族に対するイメージは「たおやかな深窓の令嬢」というものだったから、取調べに対する徳子の堂々とした受け答えや「あぐら」をかいていたことなどが報道されると、「開き直った図太い悪女」と相当厳しく叩かれたらしい。その後離婚した徳子は銀座のデパートの「職業婦人」として働きながら、立派に子供を育てた。華族から職業婦人になった感想はと聞かれて彼女は、「早いうちから色々と世間の荒波に揉まれたから、私は平気よ」と答えたという。徳子は力強く生きて、波乱万丈の74年の生涯を閉じた。

2 立花文子
旧筑後柳川藩主の孫の立花鑑徳伯爵と、徳川達孝伯爵の娘の艶子の間に生まれたのが立花文子である。まさに柳川の「お姫様」であった。住んでいたのは7000坪の豪邸。結婚後は夫の転勤であちこち赴任して回ったが、幸せに暮らしていた。それが戦後の農地改革と重い財産税と相続税に殆ど財産を取られて、残ったのが牧場と農園と柳川の「御花」と呼ばれた屋敷だけだったという(まあそれでも相当な財産だけど)。どうやって生活するかと苦慮している時に「御花を料亭にしたら」と人に勧められ、慣れないながらも料亭業を始めたのがキッカケだそうだ。夫が謡をやり、文子が踊りを踊ることもあったらしい。当時を知る使用人は「あのお姫様が・・・」と、涙ながらに語っていたそうである。時代に翻弄された文子の人生だが彼女はいつも明るく振る舞って、「なんとかなるわよ」というのが口癖であったそうだ。運命を呪うでもなく粛々と受け入れて精一杯の努力を惜しまない彼女の生き方は、性格もあるだろうが「武家の娘として生まれたこと」によるのが大きいと思う。武士というのは死ぬことを約束された言わば「他人のための人生」を全うするように教育された特殊な人々である。その生き方が娘である文子にも受け継がれているのであろう、文子は100歳まで生きたそうである。

3 徳川幹子
徳川慶喜の孫で鳥取藩池田侯爵の家に生まれた幹子(もとこ)は、子供の頃から厳格に躾けられていたそうだ。家に居た40人余りの使用人は子供の世話をすることは禁じられ、冬の寒いときでも座布団もなく暖房もなかったそうである。ところが一橋徳川家の徳川宗敬伯爵に嫁いだ幹子は一転して「良家の奥方」という何不自由のない生活をするようになり、安定した人生を送るかと思われた。ところが、大正時代に起きた世界的大不況によって華族の生活も徐々に変化し、第2次世界大戦が終わって華族制度が廃止され、GHQの農地改革と財産税がモロに華族に打撃を与える事になる。第一次世界大戦後のドイツに留学していた夫婦は現地で体験した敗戦国の悲惨さを見て、「日本がもし負けるようなことになったら、将来は生産者になろう」と決心したという。お金や肩書に守られるより自らが生産する人になる、というのが当時の風潮でもあったのだ。それで幹子は華族が廃止されたのを機会に茨城に移り、野良に出て農業を始めたのだ。さまざまな苦労があっても、何とか頑張って生きていくことで幹子は「ある種の自由と満足と仲間」を得た、と自叙伝のなかで語っている。その人生はとても平坦なものと言えるようなものではなかったが、あっさりと「夢のような第二の人生でした」と書いている。彼女は「茨城県開拓者同盟婦人部」を作り、全国を回り指導して93歳の長寿を全うしたという。徳川の孫娘という地位から一転して荒れ地を開墾する農民になった彼女のジェットコースター人生を思う時、そんな中で自分を見失わなかった心の強さには感動すら覚えるのである。彼女の強さの中には、「何か潔い清々しいもの」を感じるのは私一人ではないであろう。

私が番組を見終わって思ったことは、人間には外見や職業では測れない「何か精神的な違い」があるのだ、ということである。そういう人達は実際の自分の境遇を運命として甘んじて受け入れ、けして愚痴や弱音を吐いたりしない。何か世の中の出来事は自分の人格に何の影響も与えるものではないと確信しているかの如くである。天性の貴族とはこのような人のことを言うのだろう。18世紀のフランス革命で刑場に引かれていった貴族は、囃し立てる民衆に向かって「そんなに言うならギロチンでもなんでもやって死んでやるわよ」と言い放ち平然と死刑になった、という剛毅な話を思い出した。人生はこの世で自分に与えられた試練の場である。その役割には色んな違いがあるが、その立場立場で自分を見失わずに精一杯に生きることが与えられた使命だ、と思っているようにも私には見えた。ある意味では毅然とした態度であるが、彼女たちには「持って生まれた権利」という概念が一切ない。私は華族の娘だから許されるという甘えが、微塵も感じられないのである。それはあたかも「鷲と鶏とが違う」ように、「そもそもの生き方が違う」という感覚なのかもしれない。どちらが偉いというのではない、属する社会が異なっているのだ。庶民と貴族の違いというのは「身にまとった服のように、外見を誤魔化す名誉や財産」で区別するのではなく、環境や制度に左右されることのない「生まれの違い、つまりスタートの違いそのもの」で区別されるべきものなのである。

実際は彼等は「没落した」といっても「普通の庶民の生活になる」だけであるが、精神的には「どん底」を味わった苦難の人生である。貴族と庶民との間にそれほどの違いがあったのか?という問は別として、日本の歴史における身分制度の一つの残光として、彼女達の話が語り継がれるのにも意味がある、と思う次第である。

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