明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の好きな心に染みる歌(2)従二位藤原家隆

2023-08-01 22:10:00 | 芸術・読書・外国語
第二位、 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは 御祓ぞ夏の しるしなりける

この名歌は、定家と並び称される御子左家の重鎮、家隆の作である。家隆は定家や良経(従一位摂政太政大臣、後京極殿、九条兼実の嫡男)等と同時代人。新古今の清風を代表する歌人の一人であり、壱岐に流された後鳥羽院とはその後も交流を保ち、1237年に没するまで旺盛な創作力を維持したという歌道の大家だ。御子左家というのは、藤原道長の子「長家」が、醍醐天皇の皇子兼明親王の邸だった御子左第を譲り受けたのに始まるという。宮廷の歌人の流れは俊成の後に定家が出て、歌道に新風を巻き起こすあたりから、対抗する六条家の衰退は明らかとなり、定家の子の為家が活躍しだした13世紀初め頃には、既に「御子左家」が歌壇を独占していた。百人一首には選者定家の後、後鳥羽院・順徳院の前の98番に入っている重鎮である。

Wiki によれば、家隆が72歳の時、九条道家の娘が後堀河天皇の中宮に上がる際、その屏風歌を頼まれて詠んだものだそうだ。家隆は、その場で詠んだのではなくて、以前に現地で着想していたものをずっとメモなどにしながら温めていたところに、折よく屏風歌の依頼があったので使った、と私は思っている。家隆は生涯6万首とも言われる多作で知られた歌人だから、常時10や20は「和歌の種」を持っていたはずである。多分、私が思うには、この歌の最初に出来た「核」は、下の句の「御禊ぞ夏のしるしなりける」ではないかと想像する。或いは「なりけり」と言い切った形かもしれない。勿論、想を得て一気呵成に詠み上げたということも無いではないが、つまり、ポール・マッカトニーが夢の中でイエスタディを聞き、目が覚めた時に忘れないよう「急いで楽譜に書き留めた」というエピソードと同じである。

どちらの可能性もあっていいとは思うが、順当に考えれば、「下の句」は実際に体験した感興をそのまま詠んだもののように見える。「ならの小川」も実体験の一部で記憶にはあった筈だ。そしてしばらくは「上の句」をあれこれ合わせてみては、何となく「ボツ」にしていて何年か経っていた、と思われる。それが何かの拍子で「風そよぐ」という言葉がひらめいて、一気に完成したというのが私の想像する「作歌の経緯」である。「禊ぞ夏のしるし」という下の句にはちょっと「盛夏」の感じがあり、上の句次第では夏の生命力を歌うものに仕上がっても不思議ではない。そこへ「風そよぐ」と出だしを持ってくることで、俄然「目には見えないが秋の気配」を僅かに感じているような雰囲気が伝わってくるのである。

風渡ると言えば広大な風景がイメージされ、風騒ぐと言えば心理的な不安を暗示する。風吹いてと言えば突然の出来事に身構えるだろうし、風巻いてとか風過ぎてとか風止めてとか風起きてとか、状況によっては幾らでも表現を替えるなかでの「風そよぐ」である。何か「事象」が起こるキッカケとして使われる「風」であるが、ここで作者が選んだ「そよぐ」という言葉こそ、この名歌を決定づける「一幅の絵画」を胸中に表現したキーワードに思われるのだ。いかにも涼しげで頬を撫でる爽やかな風、または「木々の葉がさやかに揺れる」か揺れないかぐらいの微風を感じて、心の内の平静で柔和な、それでいてどこか新しい何かを待つ気持ちの「ふとした気付き」を表わしているのが、この「風そよぐ」である。家隆は間違いなく何かの気配を覚って、「ああ、もう〇〇だなぁ」と思っている。それが何かは、次の句に示されるのだ。

私は学生時代に百人一首を知って以来、この「ならの小川」は奈良県の「奈良」だとばかり思い込んでいた。この頃の私は、和歌の言葉の意味など深く考えずに、語呂とか声調とか風景など単純で表面的なものを好き嫌いの基準とし、正月のカルタで覚えた程度の知識を頼りとする、言わば「歌の道の駆け出し」の頃である。その後、万葉集や古今集なども読むようになり、少しは幅も広がったと思ってはいるが、「読解力・鑑賞力」の点では余り進歩してないようだ。それで、この歌も作者が奈良に遊んだ時に詠んだ作だろう、ぐらいに思っていた。実際、奈良の川は飛鳥川にしろ大和川にしろ、どちらかと言えば小さい川が多くて、京都の鴨川とか桂川といった大河ではなく、この歌のイメージにはピッタリだった、というのもある。大体が「禊ぞ」というのも古代の風習だろう位に思っていたのだから、これで「心に染みる歌」なんぞと偉そうに語るとは「片腹痛いド素人」なんである。・・・まあ、昔はそうだったという話。

さて、下鴨神社の御祓の神事を祝う華やかな祭りを楽しんでいる下々の人々や、居ならぶ高位の貴顕女房達が、厳かななかにも賑やかな雰囲気を醸し出している場面である。夏の終りを盛大に飾る「優美な宮廷行事」に自身も参加し、女性たちの着飾った美しい衣装に気分も晴れやかに高揚した家隆の目に、一瞬微かではあるが梢の葉が揺れて、祭りの群衆のざわめきの中、ふと秋の気配を感じて「季節の移り変わり」の予感がしたのではないだろうか。もう秋がそこまで来ているのかな、と訝っているのだ。だが、「風そよぐ〜夕暮れは」とまず言って、下の句の「禊ぞ〜なりける」と説明し、むしろ上の句があることで下の句の「夏」が強調されているのが気にかかる。

暦はまだ6月、旧暦といってもまだ秋には日があり、京都の夏は今も昔も暑くて過ごしにくいので有名だ。御手洗池から湧き出た水が流れて「ならの小川」になり、それから瀬見の小川と名前を変える。下鴨神社の摂社「井上社」では、夏の暑い真っ盛りに「御手洗祭り=足つけ祭り」というのを行っていて、観光客に人気だそうだ。平安時代には御神水をいただくと延命長寿のご利益があると言われ、貴族たちも罪や穢を祓っていた、というのが「この歌の存在で分かる」そうである。となると、どうやら家隆が詠んだ時は「夏越の祭り」のこととも思えるが、どうも判然としない。六月祓え(みなづきの祓え)とか矢取り神事とか呼び方も色々あって、今は7月土用の御手洗祭(足つけ神事)と立秋前夜の夏越神事(矢取りの神事)と、有名なものは2つあるそうだ。もし歌に詠んだのが立秋前夜の祭りでは、家隆ならずとも秋が迫っているのは明らかなので、ここは御手洗祭の方ではないかと思ったりもするがどうだろう。

そこでちょっと、ネットで「風そよぐ」と検索して、歌の解釈を調べてみると、やはり筆頭に家隆の歌が出てくるから有名なのだ。しかし、どうもこの「風そよぐ」という言葉には、伝統的に「納涼」の意味合いが強く、上の句の末句の「夕暮れ」と相まって、暑い夏の夕暮れの一瞬の「涼しさ、気持ちの良い納涼」が感じられる、というのが通説だ。とするとこの歌の歌意は、「暑い日の夕暮れ時に風がそよいで涼しくて気持ちがいいが、まさしく、ここ下鴨神社で祓えが盛大に行われていて、夏が今真っ盛りであることよ」ということになる。夕暮れ時の納涼の祭りを心から楽しみながら、立秋前夜という、もうすぐそこに秋が迫っていることを分かっていて、それでもなお「暦の上ではまだ夏なんだ」と宣言し、夏の名残を心ゆくまで味わおうとする「老人らしからぬ、溌剌たる気持ち」を歌っている、そういう歌になるのだ。

これじゃ今迄、夏の終りの夕暮れ時、己の人生の終末期を重ねた一幅の風景に、ふと迫りくる秋を感じながら、一種の諦念と心の平安を歌った「我が人生悔い無し」の名歌だ、と思っていたのが「台無し」じゃないか!(OH、NO!)

そうなんである。この歌は、夏の納涼と祭りの喧騒とを「自分の人生と、行事に盛り上がる人々と」に置き換えて、自身の属する王朝の「勢い盛んな姿」を実感し、その限りない満足感を表した寿歌なのだ。そう読み取ってこそ、「〜しるしなりける」という充足感が理解できる。

結局、私の読解力はこの歌を、最初「夏の最中なのに、秋の気配を感じてしまった」作者の軽い驚きと受け取っていたのだが、今回いろいろ調べていく内に、そうではなくて夏を謳歌する歌であり、もっと言うならば「生命の華やぎを賛美する」歌と思うようになった。で、歌意の受け取り方が変わってしまったことで、この歌の評価はどうなったかと言うと、今までは家隆という人を「繊細幽玄な感覚」の歌人と思っていたのだが、むしろ「平安京盛時の美しさ」を見事に描き出す叙事詩人のように感じられてきたのだ。そういえばこの歌は、九条道家の娘が中宮にあがる時に持っていく屏風絵の為に作った歌だった。そんな、この上なく目出度い花嫁道具の屏風に「秋風に愁いを感じる歌」なぞ「書くわけがない」ではないか。こんな解釈力では、「なんとも浅はか」としか言いようがない(うーむ、返す言葉が見つからない)。

私はまだまだ勉強が足りないようである。それにしても家隆の歌の評価は私的には更にグンッとあがって、例えばモーツァルトの41番交響曲「ジュピター」のような、メロディーといい和声や組み立てといい、華麗にして壮大な「一大絵巻物のような雄渾な味わい」が出てきた。これで堂々「心に染み入る歌、第二位」は確定である。

もし家隆に、この歌を詠んだ情景を尋ねたとすれば、「真夏の澄んだ青空」と答えるだろう、そう私は確信する。そこには秋の冷えた零落の気配は「微塵も」感じるられないのだ。


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