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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(20)河村日下の「邪馬台国論争は終わった」を読む(その1)邪馬台国、再び降臨!

2020-12-09 16:46:19 | 歴史・旅行

松戸は柏よりも人口の多い市である。だが西口の歩道に降りて川を渡り、真っ直ぐ歩いて行くとすぐに閑散とした町並みに変わり、あたりに民家が雑然と並ぶごく普通の田舎町に迷い込んだ。松戸って大したことないなぁ、とブラブラ歩いていたら図書館に着いてしまった。6分ぐらいである。近いのは便利でいいのだが、恐ろしく狭くて小さい図書館だ。これで本館というのだから、他の松戸図書館の分館は「推して知るべし」である。まあ、柏も大したことないのはお互い様だが、それにしても狭い。以前、北千住の図書館に行ったが、松戸と比べると大きなビル一棟まるごと図書館で、理由もなしに民度の高さを感じてしまった。これは予算を掛けて作れば出来てしまうので、民度とは関係ないのだが・・・。

実はブログを書くにあたって白村江を調べる必要があり、友人のSN氏お勧めの荒山徹「白村江」を借りようと思って図書館を探したら、松戸に在庫があるというので行くことにした。ところが以前調べた「河村日下」も置いてあると言うので迷ったが、今回は河村日下の方を借りることにした。今回選んだ本は「邪馬台国論争は終わった」という、実に挑戦的な題名である。早速中身を検証してみたが、これがとんでもなく鋭い説を展開しているのだ。まずは前置きなど省いて、一気に問題の箇所へ切り込んでみよう。

但しちょっとその前に、私の記紀に対する考えとして、基本的に記紀は「記事の殆どを改変している」と思っていることを申し上げておきたい。それは歴史の大原則、いつ・どこで・誰が・何を・何故・どうした、という5W1Hの中で、「一つの側面」だけは本当のことを伝えているが、その他の部分、特に「いつ・どこで・誰が」などを、他のことと辻褄を合わせて「都合の良いように書き換えている」ということだ。これは私が記紀に関する本を読み始めてから、どんどんと強くなって来た記紀の評価・判断である。それを念頭に置いて読み進めてもらいたい。

1、邪馬台国はどこにあったのか

a. 末廬国
魏志倭人伝の末廬国は、松浦でなく唐津である。河村日下の考えは真っ当だと、私も前からそう思っていた。末盧国という名前から現在の市町村名を探れば「松浦市」が浮かぶのは当然である。だが唐津には「松浦川」という川が流れていて、対馬・壱岐との方角や当時の人口分布などを考慮に入れれば、「唐津」に上陸したと考えるのが妥当ではないだろうか。もし松浦方面からやって来るのであれば、何も松浦で上陸しなくても湾奥に進み、それから「伊万里」で上陸するのが普通である。だが伊万里では、東南500里の伊都国は、ずっと西の方の陸奥湾の海中になってしまう。ここは「末盧国=唐津」で決まりだろう。

b. 伊都国
だが魏使一行は何故、直接博多に上陸しなかったのか。港というのは地形の関係で、昔から良い場所というのは変わらないと思う。唐津も良港だが博多はもっと良い港だし、何より今に至るまで北九州の表玄関の地位を守り続けている。魏使一行にとっては、対馬・壱岐と来て、志賀島を目指す「通常航路」である筈だ。一方、唐津も近くて安全な港ではあろうが、魏志倭人伝の末盧国は「草木繁茂して前人を見ず」といった状態で、人口も少ない寒村である。邪馬台国が7万戸、奴国が2万戸、投馬国が5万戸、というのが人口の多い国 BEST3だが、この数字自体は当時でも特別大きいとして、少なくとも韓国航路の主要な港ならば、もう少し開けていてもいいはずである。壱岐から北九州に上陸する航路は、今でも博多か唐津の2箇所だ。唐津と博多の間には「天山ー背振山ー高祖山」という、恐ろしく険阻な難所がある。当然博多方面に邪馬台国があれば、誰でも「博多」に上陸するだろう。私は魏使が博多に上陸せず唐津に上陸した理由は只一つ、「唐津の方が、目的地に行く近道だったから」としか考えられない、と思っていた。これは私が、古代史の歴史記述の信用性を図る上で欠かせない「常識」というフィルターである。奴国は邪馬台国より西にあり、投馬国はずっと南にある。伊都国が末盧国=唐津から東南500里にあるとすれば、その場所は多久・小城かまたは佐賀が想定されてもおかしくはない。伊都国が邪馬台国連合の中でも重要な地位を占めていることを考えれば、今でもこの地方の中心である「佐賀」が、候補地としてはピッタリだ。伊都国を糸島地方に比定する説が「さも確定しているかのように」流布しているが、「世々王有り」と称されている点を見ると、大国ではなくとも「伝統的に尊敬されている立派な国」のイメージがある。つまり糸島地方などという辺鄙な一地方の小国ではなく、佐賀のような「中枢を占める重要な国」だろうと考えるのだ。これも私の常識である。だから「伊都国=佐賀」だ、と以前から私は考えていた。ただ佐賀からすぐ東にある「吉野ヶ里遺跡」が卑弥呼の宮跡かといえば、実は疑問は残っているが、今はまだそこまでは踏み込まないこととしよう。だが河村日下は従来通りの地名比定に従って、伊都國を糸島と考えて論を展開しているのだ!。ここは彼の説明を読み進めてみよう。

c. 狗奴国の存在
それに反して河村日下の考えは、「当時の政治状況」を考慮に入れた推論である。それは、邪馬台国が朝鮮半島の戦乱勃発にも関わらず、魏に貢献した理由でもある。当時倭国は大いに乱れて「相攻伐すること7、80年」という状態だった。これを内戦ではなく、長年の宿敵である狗奴国から激しく攻められていた、と見たのである。狗奴国は名前の音韻から「熊本地方の球磨あたり」を本拠とする対抗勢力だろう、ぐらいにしか考えていなかった私にすれば、天動説が地動説に根底から打ち破られたくらいの大ショックである。確かに狗奴国はさらりと魏志倭人伝に登場するが、そのまま歴史の闇に消えてしまっていた。しかし狗奴国は邪馬台国と敵対するライバルである。倭国は「旧100余国有り」だったのに、紀元270年頃には「今使役通ずるところ30国許り」に減ってしまったのは、統合集約されて30国になったのではなく、ライバルの狗奴国が台頭して「倭国が2つに分裂した」ためだという。その辺の事情を伝えているのが、記紀神話の「天照とスサノオ」の伝承だ。つまり元々倭国はもともと全体を支配していたが、スサノオが出雲王国を打立てて離反・逆襲し、倭国は高天原(壱岐だと想定、もしかすると韓国南端から対馬を含めた海洋国家か)に追いやられてしまった。そこからニニギが葦原中つ国を奪回し、太宰府を中心とする30国が邪馬台国連合を結成、狗奴国を中心とする70国と対抗して争っているのが当時の状況だ、と河村日下は考えた。狗奴国は邪馬台国と争うほどの有力国である。というかむしろ狗奴国のほうが主役なのだ。現在世に知られている弥生文明の拠点は、「筑紫と出雲」の2大王国である(勿論、大和なんかは何処にも出てこない)。出雲は遺跡の面からも、韓国との地理的な面からも、筑紫王国と強力なライバル関係にあったのは間違いがない。今まで狗奴国がどこにあったか誰もハッキリと分からないでいるのは、名前で比定地を類推しているからである。当時の実態に即して考えれば、筑紫が邪馬台国で「出雲が狗奴国」であることは、火を見るより明らかではないか(とまでは河村日下は言ってないが)。古代史の深い闇に閉ざされていた日本全体の視界が、出雲を狗奴国と考えれば途端にクリアに見えてくる。要するに魏志倭人伝の頃、博多湾岸は狗奴国に占領されていて、魏使一行は「唐津に上陸」せざるを得なかった、というのが魏志倭人伝の顛末のようだ。ここで一つ問題があるのだが、魏志倭人伝では狗奴国は「奴国の南にある」と書いてあった。出雲が狗奴国ではそもそも邪馬台国から見て「北」になってしまうではないか。河村日下は2回出てくる奴国のうち後から出てくる方の奴国を「島根県の隠岐の島」とし、邪馬台国が「北九州ー隠岐の島ー敦賀」の日本海ルートを構築して、狗奴国と対立していたと推測する。なお、魏志倭人伝に「その他の旁国21国は遠絶にして」と書かれている同盟国は、九州から北方に点在して北陸から関東に展開する諸国であろう。その北から東に伸びる同盟国ラインから「南に位置するのが」狗奴国と言うわけだ。狗奴国は、実は邪馬台国から「北にあった」ことになる!。だが、この説には私はちょっと懐疑的だ。確かに河村日下の論では「北にある島から見れば、狗奴国は南にある」と言えるのかもしれないが、魏志倭人伝を書いた陳寿の態度から言えば、一言親切に「狗奴国は奴国の南だが、勘案するに、邪馬台国から見て東北になる」位のことは書いてもいいのに、と思ってしまう。まあ陳寿にしてみれば、親魏倭王に敵対する狗奴国の事などは、取るに足らない小国だから詳しく説明する必要は無い、という立場だとも言える。

d. 邪馬台国
だがそれにしても伊都国を糸島地方に比定する論者の説明では、上陸してから500里も海岸沿いを陸行するのはどうにも理解できない。伊都国へ行くのに東南陸行と言っていながら、実は「東南方向に行ってから」北東にまがって、結局は博多湾岸に到着、というのでは大いに疑問である。高祖山連峰を迂回して行ったとするのだろうが、それ程困難なら最初から博多湾岸の何処かに上陸するのが筋だ。まあ、それでも色々な理由から、太宰府を邪馬台国とするのはある意味「納得」はする。魏志倭人伝には「女王国の東、又海を渡る千余里」とあるのだ!。邪馬台国は東側を海に接しているのである。これは、邪馬台国の場所を探すのに大変重要な情報だ。太宰府から東に行き、海を渡ると山口県になる。そこからは島根へと続く、広大な土地が広がっているのだ。ここが河村日下の言うところの「狗奴国」の領域である。後漢書ではもっとハッキリと「邪馬台国の東、海を渡り狗奴国に至る」と書いてあるのは、陳寿の書いた魏志倭人伝を「同じ中国人の范曄」が素直に読めば、そのように読めたという事だろう。結局は狗奴国は出雲王国で、葦原中津国は伯耆・因幡の一帯というのが結論のようだ。古代史の主役は記紀説話の示す通りの邪馬台国ではなく、実は狗奴国の方だったのだということが見えてくる。今まで私は、狗奴国は邪馬台国よりずっと「南」にある、とばかり思い込んでいたのだが、これも歴史の思い込みの一つだったわけだ。後漢書は、倭奴国は「倭国の極南界」とも書いているが、九州の南半分は倭種ではない「異人種」だったということになる。いよいよ3世紀の日本の勢力図を、大幅に書き換えなくてはならない時が来たかもしれない。

e. ついでに忍熊王と籠坂王
河村日下は邪馬台国は熊襲だったのではないか、と又しても大問題提起する。そして仲哀天皇は狗奴国の王だったと見たのだ!。これも歴史のコペルニクス的転回である。3世紀の列島を、邪馬台国と狗奴国の闘争の舞台とするには、仲哀天皇は狗奴国側でなければならないという理論である。確かに当時の日本は、記紀の主役である国と熊襲が戦っていた。この記紀の主役を邪馬台国から狗奴国に変えれば、当然「邪馬台国は熊襲」になる。だけど本当なのかなぁ・・・。とにかく彼の説を読み進めよう。仲哀天皇は敦賀・紀伊と巡行したあと、急遽山口県の穴門に入る。そして穴門から香椎宮へ進出、九州筑紫と戦闘中に不慮の死を遂げた。この仲哀天皇のそれまでの不可解な敦賀・紀伊行幸は実は、自分の領地の島根県神門郡にいて戦闘準備に大わらわだったと言うのだ。記紀では神功皇后と品陀和気命(応神)の話は、新羅との外交交渉の様子を書いているようだが、これは忍熊王と籠坂王を品陀和気命(応神)と敵対させるために作った嘘くさい。戦闘中の仲哀天皇の死後、あくまで敵対する籠坂王と忍熊王を追撃する武内宿禰軍は、とうとう忍熊王を琵琶湖周辺の瀬田に追い詰めて自殺に追い込んだ、と記紀に書いてある。これも嘘くさい。ところがこの話、史実は武内宿禰の追撃経路を「出雲地方の西から東」へと変更することで急にリアルになってくる。河村日下は、宇治川は島根県出雲を流れる日野川であり、また兎我野は豊浦宮の豊=兎であって、これも島根にある地名だ。そして、河内の恵我の永江という場所は、現出雲市の法勝寺川と考証している。このあたりは、河村日下の綿密な考証力を試される所だろう。さらには神功皇后は天のウズメだと書いている(こうなって来ると何でもありだ)。まあ本人もこの辺りの考証は相当気合を入れて展開している。結局、狗奴国の王である仲哀天皇の死後、皇子の忍熊王達は「熊襲=邪馬台国」と戦っていたと言うことになる。その場所が「豊浦」である。仲哀天皇が熊襲との戦闘で死亡したという記紀の記述も、河村日下によれば「邪馬台国との主導権争い」の戦闘と見ることで、実にリアルに思えてくるではないか。記紀は無理やり話を大和に持ってこようとしているが、「倭国の出雲討滅談」と解釈すると非常にスッキリする。戦闘地域は「宇治ではなく出雲」なのだ。古代の地名を名前の音韻から無理やり現代の地名に比定するのは余り意味がないと思うが、出雲には他にも幾つか「符合する地名」が残っていると言うから、興味のある人は河村日下の本を読んでみて欲しい。まあ、「狗奴国の問題」はもう少し検討の余地はあるが、「素晴らしいアイディア」であることは間違いがない。少なくとも天照とスサノオの説話は「何かしらの事実・伝承を描いている」と思えた。勿論、兄弟喧嘩などでなく、部族間の闘争の歴史である。

f. ここまでの結論
とにかく邪馬台国は、北九州の「ちょっと内陸に入った所」と考えて良さそうである。それが河村日下によれば、「太宰府」と言うことだ。後漢光武帝から金印を授与された委奴国は、多分博多湾岸の王国であろう。その委奴国が後代になって「伊都国」として魏志倭人伝に登場する。しかし既に王権は邪馬台国に移っていた・・・。邪馬台国は、自国名を「大倭国」と称していたようである。その中心が大宰府だと確定された。とりあえず、ここまでで邪馬台国論争は収束したかのように見えるが、果たして河村日下の推論に間違いはないのだろうか。推論はいよいよ佳境に突入する!

と言うわけで、その検証は当ブログの第二部をお待ち下さい(続く)。


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