世の中の色々な意見を聞いてみると、大まかには a. 国家公務員である学術会議のメンバーなんだから、選ぶ選ばないは任命者の裁量に任せるべきだ、という意見と、b. 学問的に優れた人が学術会議のメンバーとして相応しいのだから、その人選は専門家の学術会議に任せるべきだ、という意見の2つに集約されると言える。
「辛坊治郎のそこまで言うか」のラジオを聞いていたら、日本学術会議のメンバーになるというのが、その上の学士院だかなんだかの登竜門的な役割を持っていて、白い巨塔みたいな閉鎖社会になっているという。最終的には国の税金から一千万位貰っている人もいるというのに、学術会議の人選は不透明だからこの際「根本的にメスを入れた方が良い」という感じで、賛成していたように思った。確かに国家公務員なのだから首相が選んで何が悪い、というのも一理ある。
ところが「森本毅郎のスタンバイ」は今度は批判的で、学術会議の役割は学問の権威を集め、政治家の分からない専門的立場からの意見を具申することにあるのだから、そもそも首相だからといって「この人嫌いだ」という理由で任命しないのはどうかと思う、ってな感じだった。それもそうである。
そこで「荻上チキの SESSION」を聞いてみたら、この話の問題点がよーく分かったのである。それは国会閉会中審査で「共産党」が質問し、それに政府側が答えた形で明らかになった。それによると政府の考えは、昭和38年の国会答弁の中で「学術会議の推薦者を、首相は形式的に全員任命する」ということである。これは法律解釈を巡って1年近く話し合いをした上での結論として、政府自民党が最終的に答えた「解釈」であり、正式な運用の仕方・法解釈なのだという。
つまり学術会議がブラックボックス化しているから改革が必要だというなら、そのための「法改正」を新たに議論をするのが当然なのだ。それを、法律を作る時に運用・解釈を国民に説明しておきながら、実際には政府の恣意的な運用・解釈で通してしまったら「法律の信用性はゼロ」になってしまい、「法治国家ではなくなって」しまう、という意見である。これは尤もな話だ。現行法が現実の問題を解決できないのなら、新しく法律を作らねばならない。そのための場が「国会だ」と言う話は、全くもって正しいといえる。
菅首相は自民党内部の選挙で選ばれたに首相に過ぎないから、まだ「国民全体の支持」を得たわけではない。どうも菅首相というのは独断専行で、他人の意見を全く聞かない性格の持ち主のようだ。首相という役職は強大な権力を持っているが、しかしそのために国民に対して「忠実に法を運用する人」であることが要求されるのだ。その最低条件が「全然分かってない」ようでは、首相たる資格は無い。
もしかして・・・、と思ってネットで調べたら、案の定「O型」だった。やっぱりね、そんな気がしたのよ。
気配り目配りの安倍前首相と違って、人を敵と味方のどちらかに色分けし、一度敵と見なせば「問答無用に切って捨てる」タイプと見た。こういう人は、戦争には向いているように見えるかも知れないが、結局は本人の能力以上の「色んな有用な意見」を聞かずに突っ走ってしまうので、早晩ボロがでて「自滅する」だろうと私は見ている。国民が望んでいることをやっているうちはまだいいが、望まないことを「勝手にやり始める」と恐ろしい独裁者になってしまう、と言うのは歴史が教えてくれる事実である(そのいい例がヒットラーである。勿論、例として、だが)。
まあ、決断力が有るのは結構だが、いよいよもって「任命しなかった理由を説明しなければならなくなった」と、自民党内部すら見ているようだ。困った。理由を言っても言わなくても、国民の批判は避けられない。袋小路である。何も学術会議みたいな「どうでもいい」ことで窮地に追い込まれる必要は「全くない」のにねぇ。
はてさて菅首相の爆発的人気が落ちるのは、意外と早いんじゃないかと私は見ているが、どうだろう?。これを切り抜けるのは、並大抵ではないと思うが・・・。
ーーーーーー私の打開案ーーーーーーー
先ず「任命しなかった理由」を平易な言葉で説明する。「総合的俯瞰的な云々」などと言う「意味の分からん空虚な言葉」を使うから疑われるのである。例えば「政府のやることに反対する人だから」でもいい。このタイミングで、自分が法律に則らずに任命しなかったのは間違いだったと「素直に謝って」、取りあえずは残りの6人を追加任命すれば良い。勿論、こんな理由では大炎上・大紛糾する。そかしそれは織り込み済みだ。そして「やろうとしていることは正しいが、手続きを踏んでいない点が間違っていた」という風に世論を導いていく。当然、学問の自由を守れとか言っている人たちも、学術会議の人選の不透明さや学者間での私物化など、本来の役割にそぐわない点を指摘されてトーンダウンせざるを得なくなる。つまり「改革派」の首相と、「既得権益擁護派」の野党という構図である。郵政民営化と一緒だ。この方法で小泉純一郎元首相が歴史的大勝利を収めたのはご存知の通りである。国民は田中角栄のような、ズバズバ本音を言う政治家を好む。菅政権は携帯料金の値下げとか、ハンコをやめるとか、国民の好きそうな政策をバンバンやってせっかく受けが良いのだから、「法を守って、岩盤突破」というのが理想なのだ。それが安心・信頼につながる。だからここは、正直に「ごめんなさい」を言って、国民にお詫びをするのが適切だろう。しかし、本音は「国民のために」旧弊を打破したいのですぅ、と思いを吐露する。そうすれば、「そんなことなら」どんどんやってくれ、と国民は納得しちゃうのである(ちょっと芝居がかっているが)。
この辺りの「人心の機微」が分からないところに、菅首相の「硬骨漢たる弱み」が出ちゃったかな、なんせ空手部だそうだから。何れにしろ周囲のアドバイザリー・スタッフに「人材がいない」のが命取りである。こういう性格は年取ったら尚更治らないから、やっぱり「首相の器じゃなかった」のかも。もしかしたら「実務官僚」なんかの方が向いてたりして・・・。
「辛坊治郎のそこまで言うか」のラジオを聞いていたら、日本学術会議のメンバーになるというのが、その上の学士院だかなんだかの登竜門的な役割を持っていて、白い巨塔みたいな閉鎖社会になっているという。最終的には国の税金から一千万位貰っている人もいるというのに、学術会議の人選は不透明だからこの際「根本的にメスを入れた方が良い」という感じで、賛成していたように思った。確かに国家公務員なのだから首相が選んで何が悪い、というのも一理ある。
ところが「森本毅郎のスタンバイ」は今度は批判的で、学術会議の役割は学問の権威を集め、政治家の分からない専門的立場からの意見を具申することにあるのだから、そもそも首相だからといって「この人嫌いだ」という理由で任命しないのはどうかと思う、ってな感じだった。それもそうである。
そこで「荻上チキの SESSION」を聞いてみたら、この話の問題点がよーく分かったのである。それは国会閉会中審査で「共産党」が質問し、それに政府側が答えた形で明らかになった。それによると政府の考えは、昭和38年の国会答弁の中で「学術会議の推薦者を、首相は形式的に全員任命する」ということである。これは法律解釈を巡って1年近く話し合いをした上での結論として、政府自民党が最終的に答えた「解釈」であり、正式な運用の仕方・法解釈なのだという。
つまり学術会議がブラックボックス化しているから改革が必要だというなら、そのための「法改正」を新たに議論をするのが当然なのだ。それを、法律を作る時に運用・解釈を国民に説明しておきながら、実際には政府の恣意的な運用・解釈で通してしまったら「法律の信用性はゼロ」になってしまい、「法治国家ではなくなって」しまう、という意見である。これは尤もな話だ。現行法が現実の問題を解決できないのなら、新しく法律を作らねばならない。そのための場が「国会だ」と言う話は、全くもって正しいといえる。
菅首相は自民党内部の選挙で選ばれたに首相に過ぎないから、まだ「国民全体の支持」を得たわけではない。どうも菅首相というのは独断専行で、他人の意見を全く聞かない性格の持ち主のようだ。首相という役職は強大な権力を持っているが、しかしそのために国民に対して「忠実に法を運用する人」であることが要求されるのだ。その最低条件が「全然分かってない」ようでは、首相たる資格は無い。
もしかして・・・、と思ってネットで調べたら、案の定「O型」だった。やっぱりね、そんな気がしたのよ。
気配り目配りの安倍前首相と違って、人を敵と味方のどちらかに色分けし、一度敵と見なせば「問答無用に切って捨てる」タイプと見た。こういう人は、戦争には向いているように見えるかも知れないが、結局は本人の能力以上の「色んな有用な意見」を聞かずに突っ走ってしまうので、早晩ボロがでて「自滅する」だろうと私は見ている。国民が望んでいることをやっているうちはまだいいが、望まないことを「勝手にやり始める」と恐ろしい独裁者になってしまう、と言うのは歴史が教えてくれる事実である(そのいい例がヒットラーである。勿論、例として、だが)。
まあ、決断力が有るのは結構だが、いよいよもって「任命しなかった理由を説明しなければならなくなった」と、自民党内部すら見ているようだ。困った。理由を言っても言わなくても、国民の批判は避けられない。袋小路である。何も学術会議みたいな「どうでもいい」ことで窮地に追い込まれる必要は「全くない」のにねぇ。
はてさて菅首相の爆発的人気が落ちるのは、意外と早いんじゃないかと私は見ているが、どうだろう?。これを切り抜けるのは、並大抵ではないと思うが・・・。
ーーーーーー私の打開案ーーーーーーー
先ず「任命しなかった理由」を平易な言葉で説明する。「総合的俯瞰的な云々」などと言う「意味の分からん空虚な言葉」を使うから疑われるのである。例えば「政府のやることに反対する人だから」でもいい。このタイミングで、自分が法律に則らずに任命しなかったのは間違いだったと「素直に謝って」、取りあえずは残りの6人を追加任命すれば良い。勿論、こんな理由では大炎上・大紛糾する。そかしそれは織り込み済みだ。そして「やろうとしていることは正しいが、手続きを踏んでいない点が間違っていた」という風に世論を導いていく。当然、学問の自由を守れとか言っている人たちも、学術会議の人選の不透明さや学者間での私物化など、本来の役割にそぐわない点を指摘されてトーンダウンせざるを得なくなる。つまり「改革派」の首相と、「既得権益擁護派」の野党という構図である。郵政民営化と一緒だ。この方法で小泉純一郎元首相が歴史的大勝利を収めたのはご存知の通りである。国民は田中角栄のような、ズバズバ本音を言う政治家を好む。菅政権は携帯料金の値下げとか、ハンコをやめるとか、国民の好きそうな政策をバンバンやってせっかく受けが良いのだから、「法を守って、岩盤突破」というのが理想なのだ。それが安心・信頼につながる。だからここは、正直に「ごめんなさい」を言って、国民にお詫びをするのが適切だろう。しかし、本音は「国民のために」旧弊を打破したいのですぅ、と思いを吐露する。そうすれば、「そんなことなら」どんどんやってくれ、と国民は納得しちゃうのである(ちょっと芝居がかっているが)。
この辺りの「人心の機微」が分からないところに、菅首相の「硬骨漢たる弱み」が出ちゃったかな、なんせ空手部だそうだから。何れにしろ周囲のアドバイザリー・スタッフに「人材がいない」のが命取りである。こういう性格は年取ったら尚更治らないから、やっぱり「首相の器じゃなかった」のかも。もしかしたら「実務官僚」なんかの方が向いてたりして・・・。
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