明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

戦争とは何か

2015-08-16 11:16:16 | 今日の話題
戦争とは国または民族・勢力間の覇権の奪い合いである。殺し合いをする場合もあれば株やネットのソフトな戦いもある。何れにしても平たく言って強奪である。相手の資産をその正当な対価を払わずにして奪う。対価のつけられないものもあるが、そもそも対価を払う気がない。そこに相手に恐怖や憎しみの気持ちを引き起こす原因がある。そこが覇権の正体である。だから攻められる側からすれば正義の戦争もあれば、攻める側の単純な拡大・膨張を狙った掠奪の戦争もある。太平洋戦争は攻められる側のアメリカが最後は正義の戦いに勝利した、そう学校で教わった気がする。悪いのは陸軍だと。歴史はわからないことが多いが、本当はどうだったか。陸軍にも言い分はあるだろう、それが公平というものである。

しかし、戦争に負けて今年で70年、戦争当事者のほとんどが死んでしまった今、どちらであったかを問いかけても無意味ではある、日本は負けたのである。勿論、歴史の一問題としての問いかけは有意義でもあるし、個人的にも興味がある。だが日本人のほとんどが当初、真珠湾の勝利に歓喜したのもまた事実であるのだ。もう二度と悲惨な戦争はしたくないと言っている人も、最初は日本の勝利を信じて大喜びに沸いていた。勝っている間は戦争に賛成で、負けそうになってから陸軍の暴走が戦争の原因だと犠牲者の悔しさを声高くさけぶ。日本人もまた物事の本質をごまかして他人のせいにする民族の一つである。

硫黄島の戦い・沖縄の戦いいずれの戦いにおいても、悲惨さを拡大したのは日本人自身のメンタリティではなかったか。日本人にとって、玉砕という言葉は美学なのである。一億玉砕を叫んだのは、軍部の指導層だけではない。戦争をあれほどまで徹底抗戦に向かわせたのは、他ならず日本の一般大衆である。そのことを現代の日本人はすっかり忘れている。美しい日本、愛する家族、それを守るために勝ち目のない戦いであっても、掛け替えのない命を捨てる覚悟は出来ている、それが真の大和魂である、と。しかし本当にそうなのか。もうそろそろ、義に生きて美しく死ぬという江戸末期の武士道から、根本的に脱却すべき時が来てるのじゃないのだろうか。

日本人の行動規範は戦前から変わっていない。未だに、個人的なことより公のことを優先する、だから日本人は戦争前とひとつも変わっていないと言われるのだ。中国・韓国の戦勝国にそう指摘されると、ムッとするであろう。日本はアメリカに負けたけど、中国・韓国に負けたんじゃない、と腹をたてる。しかしどこに負けたかが大事だろうか。勝ったとか負けたとか言っている場合ではない。戦争を引き起こした日本人のメンタリティは、綿々と続いているのである。このままでは戦争はなくならない。本当に戦争を止めたいなら、日本人であることを捨てる覚悟が必要なのである。戦前の日本に決別し新しい日本を作っていかなければ、本当の未来はやって来ない。過去の戦争にこだわっていては、いつまでたっても戦争をやめられないのである。中国・韓国の若者と日本の若者双方が、国を超え同じ立場に立って、戦争の馬鹿馬鹿しさを非難する、それしか解決の方法はない、とおもうのである。

日本では、仕事のためには親の死に目に会えないことをも良しとする、それを悲しみをこらえて責任を全うしたと捉える風潮がある。アメリカでは、全米オープンの最終ホールで優勝するという時でも、奥さんの出産のためにはゲームを捨てて病院に飛んでいく、という話である。どちらがどうということではない。ただ、公演のために葬式を欠席する役者魂が、特攻隊になって敵艦に飛び込んでいく軍神となって人々の心を打つのである。どちらも日本人のメンタリティのなせる技である。テレビに出てくるコメンテーターの意見を聞きながら、ああ日本人だなぁって思うことが、最近やたらと多い。それがわかるのも悲しいかな、僕も日本人のひとりである。

さて本題に入ろう。戦後70年、首相の談話が取りざたされているが、日本はこれからどうすればいいのだろうか、そのことを考えてみたい。

1. 戦後に生まれた人には、戦争の責任は一切ない。そして戦争を起こした人を非難する権利を100%保持する。「あのとき君が生きていればそんな事は出来なかった、いないから言えるのだ」これは言い訳である。自分がたまたま生まれた時代にそうだったとしてそれで罪が許されるわけではないし、自分にできないからといって罪を糾弾してはいけないという訳でもない。人はそれぞれに役割がある。

2. 少なくとも終戦時に選挙権がなかった人は、民主主義の原理に従い、戦争賠償金の支払い義務はない。これを中国・韓国も了承する。出来ないとはっきり法律で決められている事で、人は罪に問われる事はない。これは罪刑法定主義というのだそうだ。

3. 日本国民としては敗戦時に一度滅びたのであり、戦後新しい国家としてスタートした。国際世論から見れば同一国家だが意識としては別の国である。これを世界も認めることにする。国もひとつの人格であるから、憲法に則って別の道を歩むとしていることを信じるしかない。憲法はどういう国かという宣言である。だから戦勝国も敗戦国も、憲法の前では平等である。

4. 靖国は家族の弔う場所とし、国のいかなる機関も無関係とする。戦争で国のために命を落とした兵士は、大日本帝国のために死んだのであるから、今の閣僚・公務員が参拝することを禁止し、今の日本とは別の国であることを明確にする。参拝するのであれば、公務員を辞めてからとする。これは至極当然なことである。別の国に忠誠を誓った人を、今の日本の閣僚が弔ういわれはない。日本という民族と大日本帝国という国家を混同するところに日本人の未熟さがある。

5. 中国・韓国との賠償問題、戦後処理問題、すべて太平洋戦争当時の問題は大日本帝国・戦争当事者への請求とし、彼らが生きている限りで終わりとする。勿論、そろそろ終わりになる。

6. 戦争当事者でないものに責任を問う発言・行動は、日本であれ中国・韓国であれ禁止する。たとえ発言者が戦争当事者であっても一方が戦後の生まれであれば、国籍を問わず処罰する。免責となるのは戦後生まれの人と戦時中に国に反対して反戦・投獄された人が戦争当事者を非難するときだけである。ただし、事実に限る。

いろいろ書いたが、戦争を完全に終わらせるにはこれしかない、という気がしている。責任とか賠償とかお詫びとか、何れにしても日本が当事者として動く以上、感情的な面の真の解決は難しい。ただ、この案を実行不可能にしている本当の原因は、日本人自身にある。中国・韓国が許さないのではなく、日本人がいつまでもあの戦争を懐かしみ、志半ばで力尽きて死んでいった英霊に対し感謝と慰撫を惜しまない、それが原因だ。そういう意味で、日本人自身が終わらせないのである。今色々と安保法制論議が喧しいが、多分、今度は絶対敗けないと思っているのだろう。前回だって負けてない。アメリカが今度は日本側についているんだから、負けるはずがない、ふざけやがって。・・・戦争は忘れた頃に繰り返す。

PS この8月に入って多くのイベントが行われたが、あれすべて、戦争体験話を無理やり思い出させるものばかりである。一度全部やめて、テレビも新聞も一切戦争に触れないようにするのはどうだろう。戦争のことを話したら逮捕するとかして、無理やりスルーするのだ。そうすればその時初めて、戦争は過去のものとなり、中国・韓国の若者達とオープンに、平和について会話することが出来るような気がする。太平洋戦争は、知らない人たちが勝手にやった戦争で、あんなバカなことはやっちゃいけないよね、って。・・・ならないか

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