明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

久しぶりにクラシックを聴いてみた(後編)コパチンスカヤ、五嶋みどり

2020-04-16 21:03:55 | 芸術・読書・外国語
1、パトリツィア・コパチンスカヤのチャイコフスキー
彼女は1977年モルドバ生まれ、43才の奥様ヴァイオリニストだそうな。只今私の中では「絶賛売出し中」の、気鋭のソリストである。私は勝手に「天性の元気っ子」と名付けて、大のお気に入りの一人に加えているが、ヴァイオリンの腕前は勿論、その入魂のステージパフォーマンスはもう「圧倒的」とさえ言えるのだ。これは勝手な推測だが、将来はダヴィッド・オイストラフのような「押しも押されぬ大スター」となって、カーネギーホールやオペラ座やちょっと格下だがサントリーホールとかオペラシティとかの大観衆を唸らせる「名演奏」を聞かせてくれそうな気がする(ちょっとオーバーかな?)。演奏もさることながら、人柄が実に魅惑的なのだ。それほど、観るものを元気させる「類まれな天与の才能」を持っている、と私は見た。

以前にテレビでマルタ・アルゲリッチが、チャイコフスキーの「両手重和音連打の下降パッセージ」を果敢に弾き切ったド迫力に「圧倒された時」以来の、まるで鬼神が乗り移ったかの如き気迫籠もったチャイコフスキーには、もうひたすら「拍手!拍手!」しかない興奮の坩堝であった。最終楽章のフィナーレで演奏される重音の連続など、オーケストラを置き去りにして彼女がどんなに走ろうと全く気にならない「圧巻の迫力」である。この怒涛のチャイコを聞いた時、実は告白するが「8畳一間でイヤホンを掛け」たまま、ラストの爆音が鳴り響く中「久しぶりに泣いた」のだ(勿論、椅子からすっくと立ち上がって、スタンディング・オベーションをしたのは当然である!)。彼女のような人気者こそ、「絶対ライブで観たい」ナンバーワンのヴァイオリニストと言えるだろう。

後から冷静になって振り返れば「確かに、楽曲の深みある感動」には達してはいないかも知れない。だがそんなことを忘れさせて「お釣り」が来る程の興奮を味あわせてくれる、クラシック界切っての「観客を巻き込むパフォーマー」なのだ。これほど見ていて楽しい演奏は、ピアノでは出会えないであろう。パガニーニがヨーロッパ中のご婦人方を「熱狂の渦の中に放り込んだ」というのも、何となく分かる気がする。ピアニストは、どこまで行っても冷静なのだ。バイオリンこそ、大観衆の演奏会に相応しい。

ちなみに彼女は1834年製のプレッセンダを使用しているらしい。この余り馴染みのないプレッセンダという楽器、実はストラディバリやグァルネリの「次世代の作家」で、その音は明るくて線が太く、ビオラのような艶のある音色だと言われていて、彼女の演奏スタイルにピッタリの名器だそうだ。彼女がヴァイオリンを弾き始めるやいなや、もう会場を巻き込んだ観客の集中力が MAX に跳ね上がる。そして最後の音符を弾き終わった時の万雷の拍手と、全ての聴衆を熱い「感動のぬくもり」で包み込む彼女の笑顔が心を解き放つのである。そして鳴り止まぬ拍手の真っ只中で私はこう呟いた。

「こんな素敵な夜って、あるだろうか?・・・」。

2、五嶋みどりのブラームス
ご存知日本の元祖天才少女、6歳で公衆の前でパガニーニのカプリースを弾き、10歳でアメリカ・ジュリアード音楽院の入学審査で「バッハのシャコンヌ」を弾いて審査員を驚かした。デビューは11歳でズービン・メータと協演して新聞にも載り、一躍時の人となって話題にもなったのは有名な話。14歳の時、当時彼女は4分の3という子供用のサイズのヴァイオリンを使っていたが、レナード・バーンスタインと共演した際にE線が切れてしまい、コンサートマスターの大きいヴァイオリンを借りて「瞬時に左手の指の間隔を4分の3から4分の4に切り替え」て演奏したという(更にコンサートマスターのバイオリンも切れて、次のバイオリンを借りてやっと弾き終わったというエピソードが残っている)。これには満員の聴衆も感嘆の声を上げ、さしものバーンスタインも膝をついて「かしずき」その技巧に敬服したという。これはアメリカの小学校の教科書にも「タングルウッドの奇跡」として載っているらしい(教科書に載るなんて、すごいよねぇ)。

とにかく、想像を絶した天才ぶりに世界が驚いたのである。ちなみに、使用楽器は最初ストラディバリウスの「ジュピター」を使っていて、2001年からグァルネリの「エクス・フーベルマン」を使用中とのことである。今回の映像はズービン・メータ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団で2013年の録画だから、グァルネリということになる。グァルネリがストラデバリと比べて「どう音が違うか」は良くわからないが、伸びやかで音量があり低音は良く響き、高音の繊細な表情とホールの隅々まで届く美しい輝きは、五嶋みどりの演奏で更に一層「煌めきを増して」いるように聞こえた。グァルネリもストラデと負けず劣らずの「高貴の血筋」を引いた名器である。

さて肝心のブラームスだが、チャイコフスキーやベートーベンなどと比べると作品の出来は「全然上」で、私にとっては唯一無二の曲である(勿論、ヴァイオリン限定であるが)。ブラームスは最初から最後まで「感情の動きを完璧に表現」していて、キャッチーなメロディをつなぎ合わせただけの見せる協奏曲とは一線を画している。チャイコフスキーがブラームスを評して「メロディがない」と言っていたらしいが、「それこそがブラームスの凄さ」なのである。協奏曲には歌は必要ない。映画音楽のように筋書きを追っている観客の感情を、「揺り動かすようなドラマチックな音」が要求されるのだ。ただブラームスの場合は「舞台音楽のような陳腐な効果音」ではなく、精神の高みを目指して高揚していく「理念」の結晶である。そこが一般の曲と、違っている所なのだ。

第1楽章は言うなれば、まさに美しいカデンツァで完結した「哲学」である。そして第2楽章は、逡巡し沈静し、悔悟と許しの「悲しい調べ」を奏でる。ここまでの五嶋みどりの幽魂で、鬼気迫る渾身の、ヴァイオリンと一体となった演奏が「ブラームスの理念を最大限に演出」して、余すところがないのは確かである。会場内は水を打ったような静寂で、オーケストラのメンバーも疾走する五嶋みどりに「一歩たりとも遅れまい」と必死でついていく様子が見える。ここまで完璧な曲が、最後の第三楽章で「やや祝祭的な理念が弱まった」のは残念至極である(これはブラームスがどうこう、というよりロマン派音楽の宿命だろう)。ブラームスはピアノ協奏曲でもそうだが、最終楽章がどうしても尻すぼみに聞こえる。ここは例えばベートーベンの第九のように、時代の求める「爆発的な解放」を奏でるのではなく、破滅的な世界の中でもがき苦しむ「次世代への問題提起」で終わったほうがいいんじゃないか、と私は思う(ちょっとブラームス愛が強すぎるかな)。

そんな事を考えていたら、画面はフィナーレを演奏する五嶋みどりの姿をアップで映していた。彼女は、演奏は世界最高峰のヴァイオリニストの一人である。しかし「見てくれ」は人々を有頂天にさせるようなステージ映えする看板役者とは程遠い。コパチンスカヤが盛大にフラッシュを浴びてニッコリ微笑むオスカー女優だとすれば、五嶋みどりは夜中に書斎に籠もってヘッドフォンで聞きながら「何かを問い続ける孤独な哲学者」という雰囲気が漂う。この人間の「素の部分」は、一人のバイオリニストに音楽以外の全てを求めても無理であろう。何れにしても、私は五嶋みどりの大ファンで有り続けるのは、間違いない。何より、彼女の演奏した「エルガーの愛の挨拶」が、まだ耳に残っているのである。

ただ甘く優しさに満ちたポピュラーな曲としてではなく、もう一段高みに登った「あの愛に満ちた至高の調べ」が・・・。

・・・以上、如何でしたでしょうか?。今後は色々と幅を広げて第二弾・第三弾と書いていく予定ですのでご期待下さい。なお、今後は「クラシックの夕べ」とシリーズ名を改めて再出発することにします。どうぞ、ご贔屓に。

○おまけ
超久しぶりにスヴャトスラフ・リヒテルのラフマニノフ2番ハ短調を聴いた。私が聞きたかったのはバッハの平均律だったが、スマホの操作を間違えて再生してしまったのである。すぐ気がついたが、ままよと気を取り直してしばらく聴いていたところ、改めて彼の音楽力の凄さに圧倒され、とうとう最後まで聴いてしまったのだ。ただただ彼の「優しさ」が愛おしい、そんな感情が湧いてきたのである。リヒテルは、並み居るピアニストを圧倒し凌駕する超絶テクニックの持ち主だが、そんなことは全く感じさせない位に「音の包容力」が際立っている。どんなに速いパッセージでも音がなめらかで音の粒立ちがくっきりしていて、「音の大きさやアタックや音色」を完璧なまでにコントロールした打鍵技術が、彼の「純粋さ」を支えているのではないだろうか。まあラフマニノフは余り好みじゃないからそれ程聴いている訳ではないが、この協奏曲を「心の歌」として演奏出来るピアニストは数少ないに違いない。その数少ない一人であるスヴャトスラフ・リヒテルは、正に「ミューズと面と向かって対話出来る」選ばれた存在のピアニストなのである(見てくれは度外視して、の話)。彼のバッハについては、また改めて書くとしよう。

○おまけ2
チョン・キョンファとサー・ゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団で、メンデルスゾーンを観た。79年10月、シカゴ・オーケストラ・ホールでのライブ映像である。冒頭、スカイブルーのドレスで現れたキョンファは流石に聞かせどころを心得ていて、ショルティの切れ味鋭い指揮と共々見事に会場を盛り上げて、満員の聴衆を魅了した。私はメンデルスゾーンが、ヴァイオリン協奏曲の中で「ナンバーワン」だと思っている。ベートーベン・チャイコフスキーと並んで3大協奏曲とか言うらしいが、私に言わせてもらえれば、1番メンデルスゾーン、2番ブラームス、3番ブルッフ、がズバ抜けていて、その他は「だいぶ落ちる」と言うのが正しい。パガニーニはソリストの技量を披露する目的で演奏されるレベルだし、シベリウスに至っては「どうでもいいゴミ」レベルだ(この時点で、一部のクラシックファンからは大ブーイングを食らうのは覚悟の上である)。

以前、人からチケットを貰って芸大でシベリウスを聴いた時に、第1楽章の途中で会場を出たことがあった。会場のスタッフが「あれ?、どうしたんだろう?」って、キョトンとした怪訝な顔で私を見ていた。私はシベリウスは、一生聴かなくて良いと心に念じたのを覚えている。バイオリン曲は数そのものが少ない上に、質の良いものは「尚更、少ない」という良い見本だ。だからバイオリンの奏でる「魂の乗り移ったメロディ」に酔いしれる時、ピアノという楽器の無力を感じてしまうのは無理もないことかも知れない。ピアノは叩いた後、ただ減衰するのみで「ピアニストにはどうすることも出来ない」のである。ロマンティックな美の極みに描き出された、夢幻の理想郷を追い求めて流離う魂の嘆きを聴くのであれば、ショパンではなくてメンデルスゾーンかシューマン、と言うのが私の今の考えである。。

それはともあれ、キョンファの伸びやかな美音を味わいながら「息を止めて頂上へと登り詰めていく感覚」は、人間の動物としての原始的感情そのものであろう。やっぱりメンデルスゾーンには、「ロマン派最高傑作」の称号を独り占めするだけの「メロディの甘美な陶酔」がある。チョン・キョンファは全然好きなバイオリニストではないし、顔が韓国人のなかでも「異様に大きい」のがテレビ向きじゃないようだ(特に下からのアップ映像はキツイ)。まあ、目をつぶって音楽だけに集中するなら、一流のソリストというだけあって、しっかりメンデルスゾーンの美しさは堪能できた。私は一応、番組を録音して「保存フォルダ」に入れておいた。

私は、願わくは、ギドン・クレーメルかダヴィッド・オイストラフあたりの名演奏で聴いてみたい。世に有名なバイオリニストでは、古くはアルテュール・グリュミオー、ナタン・ミルシテイン、ヘンリク・シェリング、ジノ・フランチェスカッティなどが挙げられているが(メニューインやハイフェッツは嫌い)、私はオイストラフとクレーメルの二人に加えて、「イタリアの至宝、サルバトーレ・アッカルド」を世界三大お気に入りバイオリニストの一人に加えておきたい。彼は「パガニーニの超絶技巧練習曲集や24のカプリース」などで知られる超テクニシャンだが、実は「無類の美音」でも名声が知れ渡ったバイオリニストである。私はバッハの無伴奏集とモーツァルトのソナタ集をスマホに入れているが、一番気に入っているのはブルッフの協奏曲集だ。確か、彼のメンデルスゾーンも出ていたように記憶しているが、惜しいことに録音していない(残念!)。いつかアッカルドの「例えようもない美音」で、メンデルスゾーンの「あの切迫した、胸の張り裂けるような第2楽章主題」を聴いてみたい、と言うのが私の思いである。今度 Amazon で検索してみよう、っと思って早速やって見たが、検索しても2、3枚しか出てこなくて、メンデルスゾーンはヒットしなかった。超がっかり・・・。

やっぱ気に入った音源は、欲しい時に必ず買っておくべきだよね、ホント!

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