明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史を散策する (1) 乙巳の変

2016-02-27 20:00:00 | 歴史・旅行
乙巳の変とは645年に中大兄王子が中臣鎌足らと図って蘇我入鹿を殺害した事件である。学校では「大化の改新」と習ったが今は乙巳年におきたのでそう呼んでいるそうだ。それに続いたとされる改新の詔がどうやら史実にそぐわないらしい。と言うのも、日本書記の記述に混乱があるという。上梓されたのが720年頃だが、その前に古事記が撰進されている。なぜ短期間に二つもの歴史書を作ったのか、これが第一の疑問である。いかんせん原本が残ってないので何とも言えないが、この二つの歴史書の成立年についても異説があり、古事記の方が後から出来たとする説もある。そうであれば、書記の記述が間違いでありそれを正す為に古事記を書いたとも考えられる。そもそも壬申の乱に勝利した天武天皇が史実をはっきりさせる為に始めた事業だと言うのだが、これが怪しい理屈である。

歴史というのは意外と単純なものである。殆どの場合は、最もストレートな利害関係が原因で起きる。この乙巳の変の場合、その後の政治の動きを見れば事件の主役は中大兄皇子ではなく軽皇子=孝徳天皇であることがわかる。田村皇子と争った山背大兄皇子が族滅し、皇極天皇の下で専横を極めた蘇我蝦夷・蘇我入鹿を首尾よく倒した結果、皇極天皇の弟が政権を譲り受けて孝徳天皇となった。政権中枢は阿倍倉梯麻呂と倉山田石川麻呂と中臣鎌足である。それまでの流れは、舒明天皇には古人大兄皇子という皇位継承資格のある長男がいて、蘇我蝦夷は山背大兄皇子と蘇我摩理勢を討って流れを確実なものにしたと思ったが、逆クーデターにあって横取りされた、というところである。「韓人が殺しつ」と言ったとされる古人大兄皇子の意味不明の言葉だが、皇極天皇の前夫が高向王ということで、孝徳天皇の属する集団が韓国系の派閥であったことを思わせる。もちろん蘇我氏も渡来人系であるが、より古くから日本に根付いていて、当時は韓人と言えば新しく来た連中つまり「今来」を意味したのではないだろうか。あるいは中大兄皇子が宝皇女の連れ子で、中大兄皇子のことを「韓人」と言ったのかもしれない。

いづれにしても、この時代は日本人も渡来人もごっちゃになっていて、元々渡来人は陸続として大陸からやってきたのであり、九州太宰府を首都とする倭国から派生した神武天皇が吉備国の支援を得て東征した時、戦った長髄彦一派を旧日本人とすれば、それ以降は全部新渡来人と思って大まかには間違いはない。神武天皇が大和に根付き勢力を広げ何代か続いたあと、第10代崇神天皇の時に一気に支配範囲が大きくなった。その後に何度も渡来人はやって来るのだが、継体天皇の時にまた大きく変化して勢力図が書き換わり、蘇我氏が台頭する頃に新しくやってきた人々を古事記や日本書記では渡来人と呼んでいる、と考えられる。蘇我蝦夷は古人大兄皇子が飛鳥寺で剃髪仏道に入るのを直接自分の眼で見て担ぐ御輿を失い、万事休すと観念して自害して果てたのだろう、孝徳政権の誕生である。

中大兄皇子は舒明天皇・皇極天皇の一家にあって、政権奪取を目論む孝徳天皇寄りの実行役として危ない仕事を積極的に引き受ける存在だったのではないだろうか。政権が難波長柄豊碕宮に移ったのちの中大兄皇子の行動は有馬皇子にしても蘇我倉山田石川麻呂にしても、誹謗・讒言を受ける役柄を演じるだけである。政治改革はほとんど孝徳天皇が行った。大海人皇子は古事記にも日本書紀にも全くと言って良いほど出てこない。年は書記に従えば15~6歳にはなっている筈、政治の舞台に出ても何の不思議もない。変だ。乙巳の変という大クーデターの起きたあとは変革の嵐であろうから、主役でない大海人皇子の扱いが少ないのはしょうがないとしても、編纂を命じたのが大海人皇子のちの天武天皇自身なのだ、早い段階で大活躍しても不思議ではない。しかし検閲したであろう持統天皇は、壬申の乱は詳細にわたって記述しているのにもかかわらず、乙巳の変については大海人皇子は影すら見えない。私は、大海人皇子は大皇弟と書かれている点に着目したい。何が大皇弟なのか。すぐに古田武彦教授の倭国九州説が頭に浮かぶ。倭国の皇帝の弟だから「大皇弟」なのではないだろうか。その後の中大兄皇子の称制の謎も、白村江の敗戦の混乱の中で唐の軍隊が乗り込んで来る、その危機を乗り越えなければ即位など何の意味もないしまた即位してる時間もなかったのだと考えれば納得がいく。

泉涌寺にある皇室歴代の天皇の名前に、天武天皇以下孝謙(称徳)天皇までの天武系皇統がスッポリ抜けているのは有名な話だ。大海人皇子は奈良の旧勢力である天智天皇に対し当時の倭国正統の皇子、血統から言って侮れない勢力だったと思われる。しかし天智天皇が倭国の勢力で、天武天皇が旧勢力の日本という逆の説明も成り立つ。わからない事だらけの乙巳の変、もう少し研究の余地がありそうだ。奈良の地方政権と九州の中央政権の闘争、それが壬申の乱である。旧唐書に日本国は倭国の別種とある。日本はもと小国、倭国の地を併せたりとも書かれている。倭国は昔の倭奴国とあるから九州である。「イド国」なんて地名は九州しかない。邪馬台国の地である。その倭国が、白村江で大敗戦した。そこから歴史の大転回が始まるのである。乙巳年は、古代史の謎の出発点である。

次回は蘇我蝦夷の自殺についての考察です。ご期待ください。

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