昔から、武士が死と向き合っている生き方を理解しようと苦労していた。それは余りにも生を無意味なもののようにして死を選ぶからだ。「人生50年、下天のうちにくらぶれば〜」というのは有名な信長の独舞であるが、信長に限らず、日本人は「家」の一つの構成要素であり、個人個人の存在は希薄であったと思う。あるいは人の命を安易に捨てることが出来る「モノ」と見、魂と区別して簡単に捨てることが出来たとも考えられる。身体は、日本人にとっては、それほど重要なものではなかったと言えるのじゃ無いか。オギャーと生まれた時から、家を発展させることが生きる目的だと教えられていた、そう解釈して間違いでは無い。
蝉は一生の殆どを地下で過ごし、繁殖のためだけに地上に出てきて1週間〜3週間で命を終える。つまり一生と呼べるのは地下にいる時で、地上にいるのは死ぬ時なのである。精一杯大声を出して鳴いている蝉は、成虫になるために脱皮を繰り返し、最後に命を賭けた受精と産卵をする。硬い殻も羽根も、子孫を残すための短い期間、身に守る防護服なのである。蝉の一生とは何なのだろうか。
現代の人間は、それに比べて「オリンピックで金メダルを取る」とか「東京都知事になって色々な人に命令したい」とかいうように、人生に自分なりの夢を求める。誰かに決められた人生の役割を卒なく無事に全うするより、思いっきり派手な、他人の真似できないすごい人生を生きてみたいと思う。子孫を残すなんてつまらない仕事は誰かしょうもない小さい人間に任せて、自分はやりたいように生きてやると若い時は思うものである。だが思い通りの人生を送れるのはほんの一握りの人間だけ。それに薄々気がつくのは、早ければ小学生、遅くとも20歳である。その時点でまだ自分の夢への実現に向けて順調に進んでいると思える人間は、人並みはずれた才能を天に与えられたラッキーな人間である。残りは人の記憶にも残らず、何も特別なことをこの世で成し遂げずに、惜しまれることなく死んで行く。それは極々普通の人の一生であり、いわば蝉のようでもある。
人間は、役割もなく意味もなく、ただ自然の摂理のままに生まれて死んで行く。そのように達観した時に初めて、昔の人の生き方を想像することが可能になる。一部、怨みを抱え未練を残して死にゆく者は、古来怨霊と呼んで恐れた。古くは早良皇太子・菅原道真から後鳥羽院・後醍醐天皇まで全て皆、政争に敗れ祟り神として祀られ、不本意な人生を送った高貴の人々である。普通の人間が不平不満を募らせて自分勝手に他人を害した場合、ただの犯罪人であり、それもまた自然の摂理にふくまれていた。
クリスティアーノ・ロナウドが一年で90億円稼ぐのも、生活保護で食費1日500円で暮らすのも、ガンに侵されてホスピスで死を待つのも、一様に自然の摂理のままに生きた結果である。そこには善悪の区別なく、ましてや「得られるはずの幸せ」といった人間が平等に受けることの出来るはずのものは「無い」。一生懸命に生きて、ただ結果を素直に受け入れるだけである。
年をとったからこのような考えに達したとも言えるし、病気をして障害が残ったからそう思うようになったとも言える。四肢が不自由な人もいれば、脳や神経を病んでいる人もいる。昔はそれを不完全で不幸な人、まともに見ることができない「人生を失った」人と思っていた。なるべく見ないようにし、出来れば忘れて、自分の世界から何処か遠いところに隠して触れないようにしていた。だが今は、徐々にではあるが、正面から受け止めることができるような気がする。
うちの近所のスーパーに行くと、ベンチに繋がれた、足の一本なくなっている犬を見かける。その犬は、飼い主の作った特製補助具を後ろ足につけて、器用に歩いている。なんだかんだと言っても、なくなった足が戻ってくるわけでは無い。その犬がそう言ったかどうかは知らないが、寿命の尽きるまでの大切な命を、小さなリヤカーのような器具を付けて生きるしかないのである。それはその犬の生き方だ、後悔しても仕方ないし、後悔という言葉は犬は思いもしないであろう。ただ自然の摂理の決めたまま、一生を全うするだけである。
あり得たかもしれない過去を悔やんだり、得られるはずの未来を失ったかのごとく嘆いたりするのは、生き物の中で人間だけが陥る煩悩なのかも知れない。今を楽しみ、明日に向かって全力を尽くす。そして結果を、ただ淡々と受け入れる。「もしあの時ああしていれば」と思い、得られたはずの幸せを数え上げるのはもうやめて、今自分に出来ることをコツコツと、地道にひたすら頑張ること。他人と自分を比較して、秀でているとか劣っているとか悩むのではなく、違っている事実のみをあるがままに受け入れて努力すること。そうすれば運命は、分け隔て無く平等に幸せを与えてくれる。この世には、私の幸せがあって、あなたの幸せがある。幸せは、人の数だけ用意されているのである。
そのことに気づいたのは、つい最近だ。随分遅かったが、やっと到達した境地である。そして私にも、幸せになることが出来るってことに、もし神がこの世にいるのなら、感謝したい。私は障害が残っているが、自立できないほどではなかった。もっと重い病気や、治る見込みの無い疾患に苦しんでいる人もいる。だが彼等は一様に「悟りの境地に達して」、残りの人生を真摯に生きている。神は、人間に強さと安らぎとを与えたもうた。死は恐れるものでもなく、失うものでも無い。ただ、自然の摂理に従って終わるのみである。
そう考えた時、千利休の切腹が理解できるような気がする。その時が来た、利休はそう感じたのだと思う。諦念というのではなく、自分の死を見つめる静かで冷徹な精神がある、と思うのだ。
蝉は一生の殆どを地下で過ごし、繁殖のためだけに地上に出てきて1週間〜3週間で命を終える。つまり一生と呼べるのは地下にいる時で、地上にいるのは死ぬ時なのである。精一杯大声を出して鳴いている蝉は、成虫になるために脱皮を繰り返し、最後に命を賭けた受精と産卵をする。硬い殻も羽根も、子孫を残すための短い期間、身に守る防護服なのである。蝉の一生とは何なのだろうか。
現代の人間は、それに比べて「オリンピックで金メダルを取る」とか「東京都知事になって色々な人に命令したい」とかいうように、人生に自分なりの夢を求める。誰かに決められた人生の役割を卒なく無事に全うするより、思いっきり派手な、他人の真似できないすごい人生を生きてみたいと思う。子孫を残すなんてつまらない仕事は誰かしょうもない小さい人間に任せて、自分はやりたいように生きてやると若い時は思うものである。だが思い通りの人生を送れるのはほんの一握りの人間だけ。それに薄々気がつくのは、早ければ小学生、遅くとも20歳である。その時点でまだ自分の夢への実現に向けて順調に進んでいると思える人間は、人並みはずれた才能を天に与えられたラッキーな人間である。残りは人の記憶にも残らず、何も特別なことをこの世で成し遂げずに、惜しまれることなく死んで行く。それは極々普通の人の一生であり、いわば蝉のようでもある。
人間は、役割もなく意味もなく、ただ自然の摂理のままに生まれて死んで行く。そのように達観した時に初めて、昔の人の生き方を想像することが可能になる。一部、怨みを抱え未練を残して死にゆく者は、古来怨霊と呼んで恐れた。古くは早良皇太子・菅原道真から後鳥羽院・後醍醐天皇まで全て皆、政争に敗れ祟り神として祀られ、不本意な人生を送った高貴の人々である。普通の人間が不平不満を募らせて自分勝手に他人を害した場合、ただの犯罪人であり、それもまた自然の摂理にふくまれていた。
クリスティアーノ・ロナウドが一年で90億円稼ぐのも、生活保護で食費1日500円で暮らすのも、ガンに侵されてホスピスで死を待つのも、一様に自然の摂理のままに生きた結果である。そこには善悪の区別なく、ましてや「得られるはずの幸せ」といった人間が平等に受けることの出来るはずのものは「無い」。一生懸命に生きて、ただ結果を素直に受け入れるだけである。
年をとったからこのような考えに達したとも言えるし、病気をして障害が残ったからそう思うようになったとも言える。四肢が不自由な人もいれば、脳や神経を病んでいる人もいる。昔はそれを不完全で不幸な人、まともに見ることができない「人生を失った」人と思っていた。なるべく見ないようにし、出来れば忘れて、自分の世界から何処か遠いところに隠して触れないようにしていた。だが今は、徐々にではあるが、正面から受け止めることができるような気がする。
うちの近所のスーパーに行くと、ベンチに繋がれた、足の一本なくなっている犬を見かける。その犬は、飼い主の作った特製補助具を後ろ足につけて、器用に歩いている。なんだかんだと言っても、なくなった足が戻ってくるわけでは無い。その犬がそう言ったかどうかは知らないが、寿命の尽きるまでの大切な命を、小さなリヤカーのような器具を付けて生きるしかないのである。それはその犬の生き方だ、後悔しても仕方ないし、後悔という言葉は犬は思いもしないであろう。ただ自然の摂理の決めたまま、一生を全うするだけである。
あり得たかもしれない過去を悔やんだり、得られるはずの未来を失ったかのごとく嘆いたりするのは、生き物の中で人間だけが陥る煩悩なのかも知れない。今を楽しみ、明日に向かって全力を尽くす。そして結果を、ただ淡々と受け入れる。「もしあの時ああしていれば」と思い、得られたはずの幸せを数え上げるのはもうやめて、今自分に出来ることをコツコツと、地道にひたすら頑張ること。他人と自分を比較して、秀でているとか劣っているとか悩むのではなく、違っている事実のみをあるがままに受け入れて努力すること。そうすれば運命は、分け隔て無く平等に幸せを与えてくれる。この世には、私の幸せがあって、あなたの幸せがある。幸せは、人の数だけ用意されているのである。
そのことに気づいたのは、つい最近だ。随分遅かったが、やっと到達した境地である。そして私にも、幸せになることが出来るってことに、もし神がこの世にいるのなら、感謝したい。私は障害が残っているが、自立できないほどではなかった。もっと重い病気や、治る見込みの無い疾患に苦しんでいる人もいる。だが彼等は一様に「悟りの境地に達して」、残りの人生を真摯に生きている。神は、人間に強さと安らぎとを与えたもうた。死は恐れるものでもなく、失うものでも無い。ただ、自然の摂理に従って終わるのみである。
そう考えた時、千利休の切腹が理解できるような気がする。その時が来た、利休はそう感じたのだと思う。諦念というのではなく、自分の死を見つめる静かで冷徹な精神がある、と思うのだ。
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