明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(木)古代史刑事(デカ)柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(24)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その9)白村江・敗戦処理

2021-02-04 19:22:31 | 歴史・旅行

河村日下はちょっと過激すぎて、私はまだ十分に吸収していない。彼が言うには、例えば天智天皇は大和の人ではなく、伯耆・因幡の国の「別の時代」に活躍した人だという。ホントかなぁ・・・。

1、白村江と斉明天皇
斉明6年(660)12月、百済救済のため駿河国に船をつくらせた。同月伊勢の麻績で船の前後が入れ替わった。斉明7年1月6日難波を出港、8日に大田皇女が大伯皇女を生む。1月14日熟田津着。3月25日那大津到着、「長津」と改名した。・・・以上の話から、斉明天皇は戦闘指揮のために急いで九州に行った、とは思えない記述である。だいたい出港してすぐに大田皇女が出産しているが、どんな理由があったにせよ「臨月の皇女を戦闘指揮に赴く船に乗せて連れて行く」なんてことは絶対に有り得ない話だ。彼女を大和に残して何の問題も無いのに、である。それに那の津をいきなり「長津」と命名している。これでは那の津で通じていた連絡が「混乱する」だけであろう。神話時代の地名命名エピソードを彷彿とさせる話だが、そんな「のんびり」している場合ではないのである。一条氏はこれを「以後、長津と出てきたら全部ウソ」と読み解くキーワードだと言う。私はこれは、これ以降の話を「白村江と関連付ける」偽装工作と解釈した。書紀の得意のやり方と見た。

斉明7年4月に朝倉宮に入り、同年7月に崩御。これら一連の記述は何を意味するのだろうか。一条氏の答えは「飛鳥板蓋宮の斉明と呼ばれる天皇は、九州には来ていない」ということだ。おおっ、コペルニクス的転回がここでも起きている!。皆さんには唐突に思われるだろうが、さんざん河村日下を読んでいる私には、改まって特に驚くべき回答ではない(自慢!)。もう少し詳細を検証してみると、斉明7年5月9日、朝倉橘広庭宮に移動。同23日、耽羅が調を奉った。斉明7年7月、朝倉宮で崩御する。朝倉宮に4月に入り、7月に崩御する間に「5月にまた橘広庭宮に移った」のだろうか。それでは7月に「前の朝倉宮で崩御」したという記事が解せない。一条氏の解釈は、「朝倉橘広庭宮に移った天皇」は倭国のサチヤマ皇帝であり、「朝倉宮」で崩御した斉明天皇とは「別人」だと言う。つまり倭国の歴史から借用した「事実」の中に、架空の物語を紛れ込ませて「架空の話にリアリティを持たせる」騙しのテクニックである。

斉明崩御のあと中大兄皇子は喪をつとめ、磐瀬宮についた。磐瀬宮は現在の福岡市南区の高宮である。この時朝倉山の上に鬼が現れ、喪の儀式を覗いていたという。このエピソードについては書紀編纂者の間でも意見が割れて、ある者は疑問を呈している。2010年9月の共同通信の記事によれば、斉明陵は奈良県明日香村の牽牛子塚古墳とほぼ確定したという。だが、九州にも福岡県朝倉市山田の「恵蘇八幡宮」がある。一条氏によれば、これは倭国の「中皇命」だということだ。持統天皇の吉野行幸のモデルになった天皇である。なお、九州の朝倉市にある恵蘇八幡宮は、筑後川を見下ろす山間部の小高い丘にある。大和明日香の女性天皇を葬るにはいささか険峻な場所であると一条氏は書いている。そもそも九州に戦闘指揮の為に赴いた斉明が、何で突然朝倉などで崩御したのか。660年7月に中皇命が崩御したという「事実に合わせるために」、急遽斉明天皇が九州に行った(事にした)のである。九州倭国で660年に崩御した天皇がいた。その年代では、大和にいた天皇は斉明である。だから斉明は「九州に行って死ななければならなかった」のだ(何という「こじつけ」だろう!)。

これはつまり、660年に誰かが崩御したという事実は「どうしても隠すことは出来なかった」ことを表している。ということは、倭国が直面した「白村江前夜の慌ただしい政治状況」については、書紀編纂者の耳にも伝わっているのだ。しかし、その天皇が誰なのか「はっきり実名を書く」事は倭国の存在を明かしてしまう事になる。それで「斉明天皇」が崩御したことにして、一連の「辻褄合わせ」を行った、ということなのでである。そうでなければ、「百済救援軍を準備中に亡くなった天子がいた」という生々しい記憶は、書紀では描きようがなくなってしまうであろう。書紀が九州王朝の存在を「何としても歴史から抹殺しようとしている」ことは間違いない。

しかし、辻褄合わせをするには「動かせない支点がある筈」である。どこか倭国の側に明確な史実が合って、それに辻褄を合わせる形で大和政権側の史実を辻褄合わせしているに違いないのだ。つらつら考えるに、一番大きな支点は「天武天皇」である。とにかく、天武天皇と大友皇子が戦って、天武が勝利したというのが、まず、書紀の「起点」である筈だ。そこから大友皇子の「前の天皇が突然亡くなった」こと。その天皇は唐から敗戦国日本の後始末と臨時政府を任されたこと、などが人々の記憶にあったことであろう。天智天皇が敗戦処理チームの首班だったことは、ほぼ間違いないだろうと思っている。

2、白村江後の唐の東アジア戦略
白村江で唐に壊滅的大敗を喫した倭国の人々は、九州を捨てて退去して大和に逃げ出した、と一条氏は見ている。その例として、万葉集に残されている人麿の羇旅歌には、その時瀬戸内海を船で移動しながら読んだ歌が多く残されていると言う。私の好きな歌に「天離る 雛の長道ゆ 恋ひ来れば  明石の門より 大和島見ゆ」(255)というのがある。確かに素直に読めば「西から東を移動しながら」詠んだ歌のようだ。この歌の背景を想像すると、人麿が「天離る」と歌ったわけは九州が「天」であり、それからずっと離れた「田舎の」地が大和だと言うことだ。これは、明確に九州倭国を「日本の支配者」としていた証拠だと言える(大和中心主義者は良い加減に負けを認めよ!)。次の唐軍襲来に備えて九州の守りを固めると同時に、倭国の王族を大和に避難させたのじゃないだろうか。7世紀後半、当時の大和王族が代々宮を構えた飛鳥盆地の北側、大和三山に囲まれた現「藤原宮跡」近辺の地に「大量の住民流入の跡が見られる」と言う。この急激な人口増加は大和地方に要因があるとは考えにくく、白村江敗戦による「首都大移動」と考えるのが妥当だ、と結論する。一条氏の理論的説明は、明快で反論の余地はなさそうだ。

白村江の大勝利後、唐は百済に熊津都督府などを設置して管理するとともに、さらに念願の高句麗をも攻め、これを668年に滅ぼして安東都護府を置き統治することにした。朝鮮半島の属国化に成功したのである。新羅は表向き恭順を示しているので、残る「反唐勢力」は日本のみである。先の太平洋戦争時にも敗色濃厚だった日本軍部は、あくまで本土決戦を主張し、全軍一致団結して一億玉砕の滅びの美学に酔い痴れていた。1500年前、663年のこの時も、倭国の残党は最後の死力を振り絞って国家崩壊に突き進んでもおかしくない状況だったのだろう。例え白村江で負けたからと言って、倭国の首都が陥落したわけではない。更に言えば、唐が10万の大軍で九州に上陸し、倭国の領土を席巻したわけでも無いのである。いくら白村江で大敗し、サチヤマ皇帝が捕虜になって唐本国に連れ去られたとしても、徹頭徹尾「あくまで抗戦する」という選択肢は残っていた筈なのだ。それが日本人の変わらぬメンタリティである(残念だが)。しかし日本国の有力部族筆頭である大和国の首班・天智は、戦勝国の唐に対して「戦うより恭順」を選んだようだ。

もともと天智天皇は白村江の戦いには関わってはおらず、斉明天皇が九州朝倉宮で崩御というのも「書紀の剽窃」だったことが分かっている。だから唐にひたすら恭順の姿勢を示すというのは、ある意味当然でもあったと受け止めたい。もしくは、倭国は「半分、朝鮮半島に片足を置いている国家」だったのかも知れない。白村江で破れた時点で、倭国の戦闘能力は半減していた、ということも考えられる。または、唐のもともとの戦略が「日本占領」ではなく、あくまで「朝鮮半島の支配」を最終目標としていて、日本を叩いたのは単にそれを邪魔する「反唐勢力を削ぐ」だけだったとすれば、白村江で日本の主力を破ったことで一応の目的は挙げた、と見ていたのかも知れない。日本は昔から中国の王朝には朝貢を続けていて模範的な友好国であった。

3世紀頃、中国は三国志を統一した魏から晋を経て、北魏と南朝宋とに分裂した 。その中で南朝と足繁く通商していた倭の五王時代には、倭国は深々と朝鮮北部まで侵入し、高句麗好太王碑に記録が残るほどの活躍をしていたのである。5胡16国以後の混乱を収束させて中国統一を果たした隋に対し、倭国の天子は対等外交を展開するほどに「国家隆盛」を迎えていた。その隋から禅譲を受けた形で成立した唐にして見れば、多数の損害を押して日本制圧を目指すよりも、「従前の通り友好国」として恭順を示してくれれば、「無理に攻めることはしない」というのが本音だったのかも知れない。百済占領の後、高句麗を攻め滅ぼしてようやく宿願を達成した唐は、自国の安全を脅かす国々を取り敢えず平定して「戦時体制の収拾」に向かったと考えたい。日本に対しては少数の軍隊を差し向けて「今後の態度を問う」ことにしたみたいである。

この辺りの経緯を実は書紀は「何事も無かったか」のごとくあっさりと外交使節として淡々と記録している。白村江で大敗した日本が、その後に唐からやって来た先遣部隊に「普通に外交使節として相対する」ことなど、まず持って有り得ないではないか。ここは河村日下の言うように「一悶着あった」というのが正しいのではと私は思う。新羅の兵士などからは、大和に逃げ込んだ倭国の残党を殲滅すべしとの声も出ていたと言うが、「さもありなん」である。

結局、西暦666年に日本は唐の封禅に参加する。とうとう名実ともに唐の属国となったわけである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿