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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(16)面白エピソード集・・・その1

2020-06-22 17:05:00 | 歴史・旅行
1、甘樫丘と雷山
昔、奈良の明日香に遊んだときのこと、橿原神宮前で自転車を借り、駅前から颯爽と風を切って田舎道へと乗り出した。駅近くの本屋でMAPを買い(当時はスマホなどという便利なものは無かった)、駅前の中街道を直進・左折して、石川池の手前でまた右折、だらだら坂をヒーヒー言いながら登るという、私の飛鳥周遊の旅はハードな出だしから始まったのであった。季節は夏の真っ盛り、汗も滴り落ちて、「終いには自転車を押して登る」始末には笑しかなかった。体力は当時から老人並であった。欽明陵や天武持統陵を横目に見て、鬼の俎・鬼の雪隠とか亀石とかの「観光スポット」を無視して通り過ぎ、川原寺や伝飛鳥板蓋宮跡などを「軽く眺め」た後、まずはお目当ての「甘樫の丘」に登ることにした。

飛鳥は遺跡がそこら中にあるので、どこをどうまわっても何かしら歴史の記憶を呼び覚ましてくれる宝庫なのだが、特にこの甘樫丘は歴史の闇を隠していて、蘇我蝦夷・入鹿の宮殿があった場所とされている伝説の丘である。、近年、焼け跡が発掘されたのも記憶に新しく、私が飛鳥の中でも随一のお気に入りの場所でもある。麓で自転車を置き、徒歩で「えっちらおっちら」登ること10分で頂上の展望台に着くから、ちょっとした運動としても良さそうだ。ここから見渡せば北の方に天香久山、北東には三輪山から巻向山が見え、東に八釣といった古事記に出てくる地名が「目白押し」に並んでいる。遠くには中臣鎌足で知られる談山神社がうっすらと見えるし、南に目をやれば岡寺から石舞台古墳が目に入る。ここは蘇我氏のお膝元なのだ。西側の辺りは豊浦といって、蘇我氏ゆかりの向原寺もある。遠くに望めば二上山が青々と聳えて、かの大津皇子の悲劇がまざまざと思い出されて心が痛む。そんなこんなで遥か奈良の都を思いやれば、一陣の涼風に夏の暑さも忘れて、歴史の証人になった気分に浸れるというもの。やはり奈良は一度は住んでみたい「永遠の都」である。ちなみに京都は、歴史といっても応仁の乱以後のものしか残ってなくて、ほとんどが「江戸時代」のものばかりだから格が全然違う。ここんとこを勘違いしている人が「とっても多い」のでウンザリしちゃうんだけど・・・。

さて、しばらく頂上で休んだ後に下の「ボロい休憩所」で畑の真ん中の椅子に座って地図をパラパラめくっていたら、「そう言えば雷山はこの辺りだったよな」と思い立った。煙草をもう一本吸ってから(この時はまだ煙草を吸っていた、懐かしいよねぇ)、自転車に乗って藤原宮跡の方へ走り出したかと思うとすぐに、ちょっと道が三叉路になっている脇の「少しこんもりとした丘」が目に入った。「まさかこれじゃないだろうな?」と慌てて地図を見返すと紛れもない、そのチビた丘があの「大君は神にしませば〜」と歌われた「雷山」なのであった。「ありゃりゃりゃりゃ?」と慨嘆しきり、思わず自転車を停めて歴史の迷路に入り込んでしまった。そう言えば古田史学で書いてあったが、柿本人麿が歌った雷山は「ここではなくて」、九州博多地方の雷山(糸島市と博多市に跨る標高945mの山)だと言っていたのを思い出した。

田舎の平地の交差点脇にある土盛りみたいな小山を「雷山」と歌い上げる空想力は、如何に人麿が人間離れしているとはいえ、余りに奇天烈で、まともに受け取るほうがどうかしていると思わなかったんだろうか。これだから日本の歴史学会なんてものは馬鹿ばっかりで信用できないのだ、と吐き捨てた。がっくりと膝から崩れ落ちそうになったがまだ陽は高い。何も歴史学会と喧嘩をしに飛鳥くんだりまで来たわけじゃない、と気を取り直して、次の目的地の飛鳥寺に向かった。飛鳥寺の庭の一隅に、確か喫煙所があったような・・・。明日香は私にとって、心の故郷に変わりはないのである。

2、清水寺の舞台でやんやの喝采
若者のサッカー好きは今も昔も大差ないようだ。平安の昔、大納言藤原成通という粋人が、清水の舞台で「世にも噂になるほどの派手なパフォーマンスをして大喝采を浴びた」と記録に残っている。当時宮廷の貴顕から一般庶民に至るまで、人々に大変好まれた蹴鞠という遊びが大流行していた。中でも「想像を絶する名足の一人」として、貴族社会の頂点に君臨していたのがこの人「藤原成道」である。彼は蹴鞠一つで名を成した人で、蹴鞠の流派の始祖と謳われた伝説の人でもある。

その彼が正装して清水寺に参拝した折、余興で例の舞台の欄干にひらりと登ったかと見るや、何と鞠を「リフティングしながら、あの細い欄干を2周した」というのだから常人を超越した神のごとき達人と言えよう。多少は粉飾が入ってると思うので割引して考えないといけないが、それにしても「あの断崖絶壁にせり出した欄干の上でリフティング」なんて、ホント凄いことを思いついたもんです。今で言うたら、危険なパフォーマンスで人気を集めるユーチューバー的なイメージを考えれば、当たらずと言えども遠からず、というところでしょうか。平安貴族もやるねぇ。

蹴鞠は元々中国発祥の遊びで、水滸伝には蹴鞠の才能で出世した人の話が載っている位にポピュラーなものだったようである。日本でも奈良時代には既に入ってきていて、中臣鎌足が中大兄皇子と出会ったのも蹴鞠の沓を拾ったのがキッカケだとされている。枕草子にも「蹴鞠は上品ではないが面白い」と書かれている(と Wikipedia に書いてある)そうだし、貴族たちはこぞって熱中したらしい。後白河院に仕えた藤原頼輔も名足として評判が高く、彼の子孫が難波・飛鳥井両家となって大いに栄えたとあるから、その人気が知れよう。鎌倉・足利時代を通じて武士の間でも大流行したが、織田信長が「相撲好き」だったため、次第に衰えたと言われている。

それにしても蹴鞠などという遊びが大流行したというのは、人間「和歌や管弦」だけじゃ物足りなくなって、何か「身体を動かす遊び」が必要だったということだろう。「かけっこ」や「相撲」よりは、「蹴鞠」のほうが何となく「おしゃれ」で、華麗な技を見せつけるところが貴族たち、とりわけ女性に大受けだったと考えれば、大流行した原因も分かるような気がする。きっと蹴鞠の名人は「女に持てた」んだろうなぁ。昔の人ももしサッカーを知っていたら、京都には何個もサッカー場が出来ていたはずである。平安貴族が、ローマの剣闘士よろしく何万人もの大観衆を集めるサッカーを主催して悦にいっている風景を想像すると、藤原氏のドロドロの権力争いも、また違った戦いになったかも。

3、将軍は剣の達人
嘉吉の変で暗殺された足利6代将軍は「義教」と言って、公卿から庶民に至るまで「万人恐怖」と恐れられた異色の将軍である。嘉吉元年、赤松満祐の子・赤松教康に結城合戦の慰労という名目で邸に招待された義教は、宴席のさなか突如現れた赤松配下の者達によって惨殺された。この足利義教を、私は人物評伝だか何だかの記事を読み違えていて、襲ってくる赤松方の襲撃者を、刀を何本も畳に突き刺して取っ替え引っ替え、バッタバッタと切り倒して戦った「剣の達人」と思い込んでいた。この前ネットで調べ物をしていたら、偶然にも剣の名手は「足利義輝」だと分かってびっくり仰天したのである。

義教のハチャメチャな強権乱発・恐怖政治のイメージが強烈過ぎたので、やりたい放題の狂った将軍が尚且剣の達人なんて「最凶じゃん!」、と勝手に思い込んだのが間違えた原因である。まあ、剣の腕前はどうなのか分からないが、その性格は間違いなく「武烈天皇レベル」の制御不能の悪魔だと思うがどうだろう。詳しく調べていくと、応永15年(1408年)に得度して「義円」を名乗って、青蓮院門跡を経て応永26年(1419年)には第153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれるほど将来を嘱望される存在だった、とあるから元々性格がキツかった訳ではないみたいだ。三代将軍義満の子で順風満帆、最初は超優秀だったのに何で狂っちゃったのかな、という辺りは、中国の玄宗皇帝・日本で言えば徳川綱吉にも通じる「何か」があるのかも知れない。

彼の人生の歯車が狂ったのは、足利義持が死ぬ時に後継者を決めるのを拒否したことから始まった。歴史に言う、いわゆる「籤引き将軍」である。石清水八幡宮で4人の候補から籤が引かれ、義持の死後開封されて義円が選ばれた。義円は辞退したそうだが、周りがこぞって説得したので、しぶしぶ承諾したらしい。だが義円はまだ「法体」であり元服もしていなかったため、髪の毛が生えてくるまで将軍就任を待たされた。何から何まで「前代未聞」の将軍就任だったのは、その後の義教の運命を象徴しているようで興味深い。つまり義教は、将軍になりたくなかった、と言うことらしい。この経緯を知れば、少しは彼の暴虐を「差し引いて」受け止めてもいいかも。やりたくないのに無理くりやらせたから、キレて「無茶苦茶やってやる!」となった、とも言える。それにしても「やり過ぎ」なのは間違いないが。

義教の政治改革は管領や守護などに分散され形骸化した将軍の権力を取り戻して、義満時代のような将軍親政を行うことだったとされる。色々と新しい政治手法を取り入れるも多くの反対に会って上手く行かず、結局は幕府の有力武家たちの「立場を不安に陥れる」ことになり、ついには嘉吉の変に至って命を落としたのである。義教は苛烈な側面を有しており、中山定親の「薩戒記」によると、義教に処罰された人間は「公卿59名・神官3名・僧侶11名・女房7名」など、皇族関白も含まれており、この中には武家や商人・庶民は入っていないというから、全部で何人になるのか見当もつかない膨大な数と言えよう。正に万人恐怖の面目躍如なのだ。

個々の恐怖政治の事例は他に譲るとして、一方「義輝」の方はどうかと言うと、僅か11歳にして将軍宣下を受け、第13代足利将軍になったが有力武家乱立の様相が激化しており、戦国時代の足音が聞こえてくる不穏な時代であった。義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指したが、時代の流れを元に戻すことは出来なかったということになる。三好三人衆や松永久秀や毛利隆元、それに畠山高政や六角義賢など、戦国大名が続々と輩出していて、斎藤義龍や織田信長・長尾景虎といったお馴染みの面々も勢力を伸ばしており、群雄割拠が既に始まっている真っ只中に将軍を務めた義輝は、個人としては頑張ったとしても、結局は時代に飲み込まれる運命だったと言えよう。その点では、義教と相通じるものがあったかも知れない。

なお、彼の剣の腕前は、あの剣豪塚原卜伝から奥義「一之太刀」を伝授されたと言われるから相当なものである。永禄8年、松永久通と三好三人衆は1万の軍勢で二条御所を取り囲み、自ら薙刀を奮って応戦した義輝を多人数で地面に組み伏せ、寄ってたかって斬殺したと記録には書かれている。どうやら畳に刀を突き刺し云々は、織田信長の公式記録「信長公記」や「日本外史」などの記述によるものだが、どうやら多分に義輝を持ち上げた「迫真の描写」というのが通説のようだ。この義輝暗殺には多くの庶民が怒りを覚えたらしく、今で言えば「Black Lives Matter」とでもなるのであろうか、抗議のデモならぬ追善の六斎踊が行われ、会場の「上京の真如堂」には貴賎を問わず7、8万人の人が集まったというから盛大である。ここが義教とはエラく違うところだと思う。このように見ていくと日本史というのは、足利時代に限らないが、つくづく争乱の歴史だと痛感する。

日本人も争い好きな民族なんだねぇ。

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