明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(27)斎藤忠の「倭国滅びて日本建つ」を読む・・・その ⑦ 総括

2021-10-02 13:59:13 | 歴史・旅行

斎藤忠氏の著作を読んでいると普通は読み過ごしてしまうような、どうってことない資料が「実は隠された事実」を暗示していることに驚かされる。歴史の解明が、単に新たな遺跡の発掘など「今まで知られていなかった新事実の発見」によるものだけに限定されるのであれば、それほど私の興味を引くことはなかっただろう。今まで世間に知られていた資料に「新たな光を当て」、そこから全く異なった事実を引き出す事こそ、私の求めていた「謎解き」の醍醐味である。この本を読み終わった今、自分なりに区切りをつける意味で「倭国の終焉」を総括してみたい。

磐井の乱や日出ずる国の天子のことはひとまず置いといて、662年に倭国が唐・新羅連合軍と激突した「白村江の戦い」から歴史の大転回が始まった。倭国は敗北してサチヤマ天子は捕虜になり長安に連行される。敗北の知らせを聞いた本国は大混乱に陥り、戦闘に参加し多大な損害を受けた藩王国を束ねていた求心力は、一気に無くなったものと思われる。この時、中大兄皇子と大海人皇子は「大和にいた」のではないだろうか。なお、北九州に点在する水城や山城などの防御施設は、この時の唐の報復に対するものではなく、もっと昔の「出雲勢力と天孫族との戦い」の時に造られたものだとの説がある(どうやらこれは真実のようだ)。その後664年・665年とやって来た郭務悰等の使節は、最大藩王国の「大和国の中大兄皇子」と戦後交渉をしたと日本書紀にある。この時対応したのが「中臣鎌足」である。

中大兄皇子の大和国は、白村江海戦に参加していなかった。直前に崩御した斉明天皇の喪に服するため大和に帰っていたのだ。これを中大兄皇子の策略と見る説もある。中臣鎌足の入れ知恵で「倭国の朝鮮半島政策に距離を置く」ようにしたから、というのが理由だが、まさか裏で唐と繋がって倭国を騙していたとまでは思えないので、余り「気が進まなかった」のかな?、という程度に解釈しておこう。671年にも郭務悰等が47隻の大船団でやって来て、筑紫に2000人が駐留したようである。この時に「サチヤマ等の捕虜」も連れて来ていた。そしてその年の12月、天智天皇となっていた中大兄皇子が崩御した。ちなみに20年も後の692年に、この時郭務悰が天智天皇の為に造った阿弥陀像を上送せよ、という詔が出されている。これも怪しい話だと私は思うが、第一に未だに「天智天皇の墓」が判然としないのがおかしいではないか。勿論、墓がない以上は阿弥陀像を納める「菩提寺」も無いのは当然だが。

で、大友皇子が後を継いで程なく壬申の乱が勃発、大海人皇子が勝利して「天武朝」を開いた。斎藤忠氏の歴史解読により、天武天皇の出自がようやく明らかになって「目出たし目出たし」である。かいつまんで言うと、舒明天皇の妃の宝皇女=皇極天皇は、敏逹天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の王女である。母は吉備姫王で、蘇我氏ではない。はじめ用明天皇の孫・高向王と結婚して「漢皇子」を産んだ。この連子が「大海人皇子」だと言うのである。これで書紀の記述に反して大海人皇子の方が中大兄皇子より年上だとする「噂」も納得する。だが、書紀の言う大海人皇子は、実際は3男の「大海皇子」だと言う説もあるようだ。とにかく天武天皇は謎だらけである。そこで天皇家の家系図を見てみると、用明天皇の子供や孫の中に「高向王という名」は載っていないのだ。それもそのはずで、高向王はもう皇族では無くなっていて、別名を「高向玄理」と言い、のちに渡唐して客死したとネットには書いてある。なるほど、そうすると天武天皇が漢の高祖に自らを擬え、平民の身分から天下を取った故事に因んで「赤旗を使用した」のは十分説得力がある。

しかし大海人皇子は倭国の皇統につながる出自だから「太皇弟」と呼ばれていたのではなかったか。・・・どうやら大海人皇子と呼ばれている人物は二人いて、「ごっちゃ」になっている疑念が出てきた。天智天皇が娘を4人も嫁がせたのだから、間違いなく大海人皇子は「倭国の皇統につながる人物」で間違いない。その人物は最初、宗形徳善の娘・尼子姫との間に「高市皇子」を儲けている。この人物は「高向王と宝皇女の連れ子」なんかではない筈だ。この人物は倭国の血筋を有しており、皇位継承候補者ではないが「それなりに重要な人物」であると私は思う。そうでなければ天智天皇が4人も娘をやる筈がない。ここは旗の色が赤かろうが何だろうが、「娘を4人やった」と言うエピソードだけを事実として受け入れるのが、一番よさそうである。天武天皇の父親の名を書いてない日本書紀なのに、細かいエピソードの方はしっかり信用すると言うのは「本末転倒」と言わざるを得ないだろう。孝徳天皇に倭京への遷都を進言して聞き入れられず、百官を引き連れて太宰府に移ってしまった太子とは、中大兄皇子ではなく、斎藤忠氏の言うように「サチヤマ」だったというのが正解だと思う。倭国が太子主導の元に朝鮮半島にのめり込んで行った頃、何故かこの人物「太皇弟」は藩王国の大和に居た。その行動は全く書紀には登場しないが、もし宝皇女の皇子・漢皇子であったなら、もう少し書紀に名前が出てもおかしくない。やはり大海人皇子は「高向王と宝皇女の子」では無い、別の人物だと考えて良さそうである。大和国は推古天皇で断絶し、蘇我氏が政権を牛耳っていた。それを乙巳の変で舒明天皇の後継者を古人大兄皇子から奪ったのが孝徳天皇という話であれば、首謀者中大兄皇子というのが実は「倭国人の中大兄と呼ばれていた謎の人物」である可能性も出てきた。とにかく書紀は謎に満ちている。

まあ、細かい問題は未解決で残るが、大筋では倭国の白村江大敗によって「倭国一強」から藩王国「日本国」との並立に変わり、しばらくは天智天皇が大津京に都を構えるなどしてその勢力を維持したが、壬申の乱で天武天皇の勝利により天武天皇が「第二次倭国」を飛鳥浄御原に建国。その子の高市天皇が「藤原京」に新たに都を建設して、後に大化の改新と呼ばれる大改革を断行した。・・・ここ迄が「倭国の絶頂期」である。だが高市が96年に早々と死亡し、その後継者を決める会議の席上「葛野王」が他の候補者を制して文武を推薦したと懐風藻は書いている。その時、持統天皇は大層喜んだそうだ。書紀の言うように高市が太政大臣だったのなら、その後継者選びなどで持統がそんなに一喜一憂するのは妙ではないか。この辺に、一旦高市に奪われた皇位の座を、何とか自分の方に取り返そうとする持統の執念が感じられる。ようやく皇位を奪還した文武天皇だが、病弱で思うように政務が取れなかった為、代わりに持統天皇の妹である元明天皇がツナギになって、元正・聖武へと「大和勢力の血が入った皇統を守った」というのが流れである。この頃に徹底的に倭国の残党狩りが始まって、大和政権の磐石の体制がようやく固まって来た。

斎藤忠氏は701年に易姓革命が起きて、正式に「日本国」が出来上がったと見ている。だが桓武天皇が天智天皇を始祖と崇めて、日本で初めて封禅・郊祀を行ったとする事から想像すると、むしろ易姓革命は「天智ー桓武」の皇統が政権を取った時ではないのか?、とも考えられる。要するに倭国皇統は高市皇子で断絶し、大和豪族の蘇我系の娘が産んだ草壁・文武から「純粋大和人」の皇統が始まって、孝謙・称徳天皇でそれも断絶して、光仁天皇にお鉢が回って来たという事だろう。桓武天皇は高野新笠という「朝鮮系の帰化人」の血が混じっていると言われているから、今までの系統とは全くの別人である。これは昭和天皇も認めている「事実」だそうだ。

ひとまず斎藤忠氏の力作を読んだ感想としては
① 中大兄皇子は韓人である
② 孝徳天皇は倭国の大王
③ 太皇弟・太子などは倭国の人物
④ 斉明天皇は存在が怪しい
⑤ 白村江で倭国は求心力を失う
⑥ 中大兄皇子が天智天皇を名乗って大津に遷都
⑦ 壬申の乱で倭国側が政権を奪取する
⑧ 高市皇子の死で倭国完全消滅
⑨ 701年にようやく内外に日本国建国を宣言した
と、大体こういう事だろうと思う。

一つ一つ細かく見ていけば色々矛盾はあるが、それは日本書紀が色々な事績をごちゃ混ぜにして「場所も時間も」勝手に継ぎ接ぎして書いているからである。出鱈目の記録に真実を合わせる事は「所詮無理」なのだ。だが大筋の流れは大体わかって来ていると思う。倭国が日本代表の一強体制から没落して、尚且つ「1藩王国」として細々と続いていた事は、続日本紀などにちらほら見えていると言う。奈良から平安初期までの時代は、血生臭い「陰謀と策略」の連続する暗黒の世界が続く。多分、藤原氏の陰湿な裏工作が激しかったんだろうと思うが、私的には余り興味の無い時代でもある。むしろ私が最も力を入れる話題といえば、一つには「日本書紀の誤魔化したかった事実」の詳細な解明と、二つ目は「壬申の乱の舞台が何処か」を何とか明らかにする事だろう。壬申の乱・九州説は「相当に魅力ある」んだけどなぁ。

・・・次回は古田武彦大先生の「国産み神話」解明の方法論と題して、伊奘冉・伊奘諾の産んだ島々の謎に迫ります。乞うご期待!


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