邪馬台国論争に終止符を打つつもりで書いた前回の文章は、今一反応が薄かったようである。まぁ私のブログなどは読んでくれる人もさほどの数ではないのだから当然だが、それにしても少ない。それでも続編を約束した以上はと思い、再度関連本を読んで「草ボーボー」の説明を確認してみた。結果色々な事が確認出来たが、肝心の「草ボーボー」は見つからなかった。しかし邪馬台国の所在地に関しては少し分かったことがあるので、以下はその内容である。
1 韓国の西・南沿岸
帯方郡治から狗邪韓国に至る道程を従来は船でジグザグ行ったように思っているが、陸行していたとする説が古田教授から出されていた。韓国は東西を海に接しているが「南は倭と接している」のである。だから使節団は倭の領域には入らず韓国内を陸行したと考えられる(古田説)。韓国は当時「中国の支配下にあった」のだから、安全な自国領土を通って行くのが正解だろう。「水行10日陸行一月」という女王国への旅行日程を大まかに計算すると、陸行の大部分は「韓国を横断するのに費や」したと考えられる。これは新しい知見である。
2 女王国から東に行くと海に出る
「女王国の東、海を渡ること千余里。復た国あり、皆倭種。」という文章がある。決定的である。奈良県から東に行っても「海なんか全然無い」のだから、この一文だけでも邪馬台国が奈良県に無いことは「誰がなんと言っても決まり」である。こんな事が書いてあるのに、近畿大和説論者はどうやって奈良県だと言い張ることができるのだろうか?ほとんど阿呆である。
3 真珠
台与が魏の皇帝に真珠(白孔)を5000粒贈ったという記事がある。アコヤ貝は全国の貝塚のうち12ヶ所からしか発見されていない貴重な貝である。そのうち11ヶ所が九州である。これは黒潮と対馬海流とが流れる場所であるから、当然とも言える。当時アコヤ貝から取れる真珠は、世界にも珍しい日本の特産品であったと言う。魏の皇帝に贈る特産品が、何で「海の無い奈良県に5000粒もあったのか」、説明できないであろう。こういう疑問に真摯に答える姿勢こそが、歴史を考える上で必要なのではないだろうか。
これだけに限らず、すべての事象が「邪馬台国は九州にあった」ことを示している。魏志倭人伝の行路記事の些末な点を器用に解釈・読み替えして奈良に持って行こうとする近畿大和説論者の「意図」は、安倍政権の戦前回帰のようで、バカを通り越して恐ろしいくらいである。邪馬台国がどこにあったかという論争はこれにて一件落着、私の中では「九州でスッキリした」ということをご報告して終わりの言葉としたい。
1 韓国の西・南沿岸
帯方郡治から狗邪韓国に至る道程を従来は船でジグザグ行ったように思っているが、陸行していたとする説が古田教授から出されていた。韓国は東西を海に接しているが「南は倭と接している」のである。だから使節団は倭の領域には入らず韓国内を陸行したと考えられる(古田説)。韓国は当時「中国の支配下にあった」のだから、安全な自国領土を通って行くのが正解だろう。「水行10日陸行一月」という女王国への旅行日程を大まかに計算すると、陸行の大部分は「韓国を横断するのに費や」したと考えられる。これは新しい知見である。
2 女王国から東に行くと海に出る
「女王国の東、海を渡ること千余里。復た国あり、皆倭種。」という文章がある。決定的である。奈良県から東に行っても「海なんか全然無い」のだから、この一文だけでも邪馬台国が奈良県に無いことは「誰がなんと言っても決まり」である。こんな事が書いてあるのに、近畿大和説論者はどうやって奈良県だと言い張ることができるのだろうか?ほとんど阿呆である。
3 真珠
台与が魏の皇帝に真珠(白孔)を5000粒贈ったという記事がある。アコヤ貝は全国の貝塚のうち12ヶ所からしか発見されていない貴重な貝である。そのうち11ヶ所が九州である。これは黒潮と対馬海流とが流れる場所であるから、当然とも言える。当時アコヤ貝から取れる真珠は、世界にも珍しい日本の特産品であったと言う。魏の皇帝に贈る特産品が、何で「海の無い奈良県に5000粒もあったのか」、説明できないであろう。こういう疑問に真摯に答える姿勢こそが、歴史を考える上で必要なのではないだろうか。
これだけに限らず、すべての事象が「邪馬台国は九州にあった」ことを示している。魏志倭人伝の行路記事の些末な点を器用に解釈・読み替えして奈良に持って行こうとする近畿大和説論者の「意図」は、安倍政権の戦前回帰のようで、バカを通り越して恐ろしいくらいである。邪馬台国がどこにあったかという論争はこれにて一件落着、私の中では「九州でスッキリした」ということをご報告して終わりの言葉としたい。
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