以前は服装は「社会的階層」と不可分に結びついていた。例えばゴルフ場でドレスコードという「面倒な」制約があり、昔はジャケット着用だとか、襟のついていないシャツでプレーすることは許されない、という時代があった(今でも古い人達はそういう考えを持っているようである)。これは社会的に、あるいは職業的に貴賤を分別する風潮が厳然とあって、襟なしシャツを着るような「階層」の人は、入り口で入場を断られたのだ(今じゃ差別主義者と謗られる)。ゴルフは上流階級の社交場という認識が、広く社会通念として受け入れられていた時代である。そういう「マナーの強制」も今は緩やかになって、ゴルフウェアも自由化が進んだように見える。だが、その根底にある変化は、実は「他人を服装で判断しない」という考え方が広まったことによるのだと私は思っている。
勿論、ある種の特殊な服装をして、互いのグループ意識を再確認し合うというのは、何処の世界でもよくあることである。特に若い世代の自己顕示欲の強い人々は、社会的に目立つことで「自分が普通の人とは違う」ヒーローのような気分になり、そのような団体同士が更に「互いを差別化するため」に、一層独特のファッションを考え出すに至る、というのが「服装のアイデンティティ」ではないだろうか。昔、フランス革命当時に貴族が半ズボンを履いていたのに対抗し、自由革命の資本家側は「半ズボンなし」を旗印に戦った。いわゆる、サン・キュロットである(いかん!、また博学をひけらかしてしまった)。まあ現代ではそこまで明確な区別はないが、人間は個人のステイタスを、何か「誰にでも分かりやすい方法」で誇示したがる生物のようだ。
これは人間に限らず、生物全般に言えるのかも知れない。例えば鶏などは「トサカが大きい」と強い、という認識が互いにあるようだ。ある意味では、無用な争いを避けるための生物の知恵なのかも知れない。平安時代には、冠や着る服の色で「位階」を表していたというから、服装が「社会的階層や身分」を表していた時代は随分長かったのである。それがようやく無くなってきたのは、実は「平成の終わり頃」だろうか。私などは昭和真っ只中の時代に青春を過ごした団塊の世代だから、頭では分かっていても中々感覚が抜けきれていない。どうしてもふとした瞬間に「時代遅れのオジサン」が頭をもたげて出てきてしまうのは困ったものである(残念だが)。
本来、人は自分の服装について、色々な選択肢を持っている筈である。動きやすいデザインで楽な材質のものを好む人がいれば、カラーやイメージがその時の気分に合っていることを重視する人もいる。勿論その両方を兼ね備えたものという選択肢も、当然あるだろう。しかし、一時よく町中で見かけた「ダメージ・ファッション」などのような、裂けたジーンズなどを好んで履く人の気持ちには、いくぶん「服装に差別化を求める」考えが加わっているように思える。つまり、人間を服装でグループ化しようという「昔ながらの考え」が透けて見えるのだ。それは例えば、服装によって「アウト・ロー的な集団のメンバー」ということを誇示する、という考えである。またはそういう雰囲気が好きなだけという場合も、ある。本人が意識している意識していないに関わらず、膝のあたりが裂けたジーンズをわざわざ履くことには、服に「そのような要素を付け加える」以外の理由は考えられないからである。彼等はその裂けたジーンズを履くことによって、自分をある種の「グループの一員」に染めているのだ。まあこれも、一つの流行だとは言えるが。
私の服装の好みは、そういう「外見で個性を表す」という観点で言えば、自分では「世の中のルールに囚われない、自由気ままな生き方」を表現している、と自負している。端的には、礼儀作法にとらわれず、「堅苦しくない気軽な普段着」をモットーにしている。私はどんな場所に行こうと、「いつも同じ」格好で暮らしていきたいのだ。ところが社会と付き合っていく以上は、これはこれで難しい。問題は結婚式と葬式だが、これはいくら私でも「礼儀を守らないわけにはいかない」と思っている(出来れば普段着で行きたいのだが、きっと周りは理解してくれないだろう)。結婚や葬式は「普段とは違う意識でいる」ことを内外に示すことが集まりの主目的であるから、どうしても「堅苦しい服装」にならざるを得ないのだと納得している。言い訳ではないが、どちらも「相手のために服装を整える」会合だから、自分勝手は控えたほうがいいだろう。縄文時代の葬式でも、少しはキチンとした格好で臨んだのではないか、というのは私のあくまで想像だが。それ以外はたとえ皇居に呼ばれて天皇に会うとしても、「パーカー・Tシャツに迷彩柄パンツ」で行こうと思っている(まあ、そんなことは100年たっても無いとは思うが)。
服装は個人の趣味である。私は見た目に「きれい」な服が好きである。素材もしっかりしたもので、デザインもはっきりした柄がいい。色はどちらかと言うと、グレー系や茶色系やグリーン系の「くすんだ目立たない色」の服は嫌いなのだ。黒も勿論嫌いである。ジーンズは、ヨレヨレ感があって「汚く、だらしないイメージ」があるので、私は一本も持っていない。年取って綺麗にジーンズを履きこなしているオジサンには、とんと柏では見かけたことがないのだ(柏じゃねー、いないよねー)。ユニクロは安くて機能的に優れているので買いたいのだが、この安くて種類も豊富な国民服は、私の嫌いな色「ばかり」が大量に並んでいて、ちっとも個性的なものが無いのである。どうしてバリエーションがないのだろう。ジーンズを履かず、ユニクロも着ないとなれば、一体何を着ればいいと言うのか。
個性的であるということは、数が少ないということと同じ意味である。当然、薄利安値で大量販売をコンセプトにしているユニクロでは、誰もが着られる無難なものしか扱っていないに違いない。そりゃあそうだ。個性的なファッションを求めるなら、「渋谷や原宿のセレクトショップ」へ行くしかないのである。そこまで気合を入れて服装を整えるには、少し私は年を取り過ぎた。まあ不本意ながら、今まで柏や御徒町あたりの「ジャンク系」でお茶を濁していたが、最近はとうとう「個性を外見で表現する」のをやめることにした(おおっ!)。外見を取り繕うのは、見ず知らずの人にも「自分の個性をわかって欲しい」という社会性欲求の現れである。自分は、知らない人には全く気にも止められない「普通の人」で十分なのだ、と己に言い聞かせた。これはもしかしたら、社会生活を送っている大多数の人には、実は当たり前のことなのかも知れない。私が今まで余りにもフアッションに「個性を求めすぎていた」のかも知れないのだ。これはある意味、私には「衝撃的」なことである。実は私にも、「特別視されたいという願望」が濃厚に合ったのだ(ガビョーン!)。つまり、いっぱしの「目立ちたがり」だったのである(再びガビョーン!)。
そろそろ結論に入るとしよう。結局、どんな理由があろうとも服装の基準は、「目立ちたい」ということに尽きる!。今風に言えば、社会的な承認欲求である。ただそこで、どういう人達に承認してもらいたいか、で好みが分かれると思うのだ。それは、自分が求める理想の人々が「既に気軽に着こなしているであろう」ところの服である。
もし女性が今と違って外見にこだわらず、自分の「中身に自信を持って生きる」時代が来るとすれば、きっと女性のファッションも千差万別のバラバラの時代になるであろう。その時にはやっと人類も、「外見から解放され」て、個性と個性が直接的に向き合う、本当の意味での「自由社会」が到来するに違いない。そうなれば恋愛の方法も、今とは全然変わってくるだろうし、「外見に騙される」こともなくなるだろうからトラブルも減って、「もっと暮らしやすく」なるかも知れない・・・などと考えてみた。
と、色々想像を膨らましていたら、ふと自分自身の変化に気がついた。私が若い時は、今よりもっと服装に気を使っていたのである。勿論、社会的な制約は今より画一的で、選択肢はそれほど多くはなかったが、それでも色んな面で真剣に工夫を凝らして、外見を良くしようと努力していたのだ。だが70歳を超えた今、それが随分と落ち着いてきたのである。着るものも殆ど毎日変わらなくなっている。というよりも、周囲の反応を「それほど気にしなくなった」というのが正しいだろう。周りの人は私のことなど、全然「見ていない」と思うようになったのだ。70を超えてようやく私も、「普通の人になる準備」が出来てきた、と言えると思う(いやー、それにしても70超えて「自己チュー」がキツイねぇ!)。
昔、「オーディナリー・ピーブル」という映画があった。アメリカの何不自由無い弁護士の家庭が、長男の水死を契機に徐々に壊れていくさまと描いた社会派の映画である。1980年にロバート・レッドフォード監督で公開され、アカデミー4部門を受賞した名作である。
まあ、服装とは何の関係もないが、「普通の人で生きる」のはわりかし勇気がいることである。
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