明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

オリンピックと醜い争い

2016-10-19 14:00:08 | 今日の話題
オリンピックのボート会場の迷走、もう行くところまでいったバカさ加減に呆れ果てた。こんなに無理やり東京にしがみつく反対勢力なら、いっそオリンピックなんか白旗あげてやめちまえ!

宮城でボートレースをやりたいと小池知事が言った途端に、なんと東京会場側の見積もりが200億円も下がったという。開いた口が塞がらないとはこの事だ。昔から土木・建築業界は談合疑惑が多かったが、宮城案が浮上した途端に再見積もりで200億円も下げるなんて、誰が考えてもおかしいだろう。見積もりの詳細を公表すべきだし、もし最初の見積もりが間違っていたと言うなら、それを見抜けなかった都庁の職員は少なくとも懲戒免職ものである。なぜなら見積もりをチェック出来る能力があると思えばこそ担当者なのであり、それが出来ないなら専門家を雇っているはずだからである。もし出来ないことが分かっていて何も手を打たないでいるとしたら任命責任者が懲戒免職だし、IOCにも責任の一端はあるだろう。なにより予算内で収めるという歯止めを取り払えば、青天井に膨らむのは火を見るより明らかだ。そのために都があると言っても言い過ぎではない。

オリンピックの成功とは、第一に予算を守る事である。予算とは、各部門がギリギリの交渉をして最大限の妥協の上に成り立った「考える限りの最善策」の筈である。決して思いつきのいい加減なもではない。実行委員会が予算を守る、後は選手が最大限のパフォーマンスを出してメダルを争えばいい。建築物や開会式閉会式で感動を呼ぶ必要はさらさら無い。感動は選手の戦いの中にある、それがオリンピックなのである。国威発揚なんてチャンチャラ可笑しい時代錯誤で、貧乏後進国の考えそうな国民煽動術であり、これもお金の匂いがプンプンする。いい加減にスポーツとお金を切り離して考えるということが出来ないものだろうか、アマチュアリズムの殿堂というのがオリンピック精神なのに、である。

ボート会場を韓国でという話が突然飛び込んできた。言い出してるのはどこだか知らないが、茶番もここに極まったとしか言いようがない。なんの思惑がこのような無道を引き起こしているのか、張本人を芋づる式に一網打尽にして、市中引き回しの上獄門貼り付けと行きたいね、「〇〇の利益を代表し、国民を欺かんとした大悪人」とでも高札を立てて。

それはさて置き、東京でやりたいと涙ながらに訴えていた選手の映像はあまりに非論理的で、大学は埼玉じゃなく青山がいいと駄々をこねてる学生と変わらない。これが30近い大人の言うことかと情けなくなってきた。オリンピックという晴れ舞台以外に人生目標を見つけられないボート選手のために、500億円という血税が費やされることの重みが、この選手にはトンと分からなかったのだろう。たった1000万円が足りないばかりで命を失う悲しい患者が大勢いるというのに、多くもない予算から沢山の競技に振り分けなきゃならない中で、お金の使い道をどう考えているのだろうか。東京でなきゃ嫌だという選手の頭の中は、十分にスポーツの純粋性を汚すものが見え隠れする。

土台、ボートレースなんか大学時代に学問ばかりでは体の基礎を作る大事な時期を逃してしまうというか、有り余る生命力を学問だけでは吸収できないというか、もともと学問など好きではない良いとこの坊ちゃんたちが暇を持て遊んで競技に熱中したのか、いずれにしても本業があっての余暇の遊びであった筈である。基本は金持ちの遊びだ。それを思えば、国民の税金を使うなど考えず、金持ちの寄付でやればいい。200億円くらい200万人が一人1万円ずつ出せば達成するのだから、なにも都知事が口を出さずともボート協会で勝手にやれば良いのではないか。むしろそのほうがアスリートファーストとも言える。

外野は黙っていろ、である。それぐらいの気概がなくてはスポーツは出来ない。そうすれば、跡地利用の問題も解決する。自分たちのお金で作った会場ならば、その後も大事に使うであろう。国は土地代ぐらいは出してもいい。そもそもオリンピックの開催に合わせて競技を決めるのが間違っている。競技は気候風土や国民性に合わせて、自然発生的に生まれ広がっていくものである。国民の間に根付いていれば、自然と自分達のお金でやれる状況にもなってくる。なにも全種目を同一国でやらなくてもいいし、周り持ちでグルグル世界中をめぐる必要もない。サーフィンが日本でメジャーにならず、ハワイやアメリカ西海岸で人気があるのは、生活スタイルとビッグウェーブがサーフィンに適した土地柄だからである。だからサーフィンはカリフォルニアかノースショアでやれば、施設も環境もピッタリする。アスリートファーストとはそういうことである。だからワールドカップと違って、レギュレーションを各国に解放した設定にして行えばいい。経済効果なんてスポーツと関係ないことを持ち込むことが、そもそもの間違いなのだ。はやくその事に気が付いて、オリンピックとは何か、を考えてもいい時期が来たようだ。

話は少し逸れるがアマチュアリズムと言う事で考えれば、私はゴルフが大好きだが、なにもマキロイやジェイソンデイのようになりたいわけではない。プロは一番強い人を決める事を目標にして日々戦い努力している。だが、アマチュアの私は「私のスペックの中で」最大限にゴルフを楽しんでいる。私自身を変えてまで強くなろうとは思っていないのだ。もちろん努力はするが、あくまでテクニックの面の努力であり、肉体改造まではやろうとは思ってはいない。ここがアマチュアとプロの違いでは無いだろうか。マラソン選手は、トレーニング以外にも食事から睡眠から、生活の基本をマラソンの能力アップに費やしている。お金を得るための仕事はマラソンをするためにやっているのだから、もうプロである。お金を出す人が出てくれば、すぐにでも仕事はやめるであろう。

アマチュアとは、人生の基礎を競技以外の事に置いている人のことである。お金を稼いでいるかどうかではない。中学生でも将来をプロゴルファーになると決めて生活をそれに合わせていれば、れっきとしたプロである。ルネサンスの大画家達は皆、子供の頃から工房に入って腕を磨いた。その時点で、彼らはプロである。プロであるかどうかは、自分自身で決めるものではないだろうか。その人の考えは、私はプロである、またはプロになる、である。

プロとは、存在が無駄なくできている。プロのマラソン選手には、一般人のように食事や酒を楽しむ生活は許されないのである。それが「プロ=存在そのもの」というものである。蝉が短い一生を木の上で鳴いて終わるのを可哀想と思わないのと同じく、プロもまた一般人と違うプロ自身の目標があり、一般人と違う楽しみに生きている。その事が分かればオリンピックは、ワールドカップと違う道を選んでいた筈なのだが。

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