昨今目につく長鋒での作品ですが、書き手の気持ちをまとめると、概ね『面白い線が出る』と言う所に落ち着くと思います。
羊毛の長鋒はコントロールするのが難しく、完全に支配下に置くことはできません。
意図した線と違う線が出る所に、面白さを感じるのだと思います。
私も同様に思います。
昨年だったでしょうか、石飛博光先生の揮毫する所を拝見したことがあります。
数十人ほどに囲まれる中、先生は全紙に悠々と揮毫なさっていきました。
紙を変え、筆を変え、それぞれの説明を時にジョークも交えながら書き込んでいきます。
羊毛の長鋒で書き始められた時、ぼそっと一言
『最近は自分の言うこときかない筆で書くのが面白くなってきたんだよね』
先生の高い書技を知る者としては、心に残る一言でした。
それは昨今の長鋒使いの書家とは違う所にいらっしゃっての発言だったと思うのです。
つまり、人生とはこの長鋒筆のように、自分の思う通りにはならない事であるし、そこに意外な面白さもある。
その面白さに気づいたらそこに乗ってしまうのも、また面白いではないか。
と私は受け取ったのです。
一見同じように感思えるのですが、それは大きく違っています。
長鋒を使うことで面白い線が描ける事の歓びは、自己の中に向かっていきます。
『自分の中にこんな面白い線が書ける何かがあったんだ!』という歓びです。
石飛博光先生の『面白い』は、悟りの境地です。
それは歓びでなく、ある種の絶望でもなく、淡々と魚のいない池に針をつけずに糸を垂らしている心境なのではないでしょうか。
そうしたいからそうする。
そうしたい自分は自分の中にいないのかもしれない。
じゃどこにいるのか知りたいとは思わない。
ただ筆を持って書きたい自分が、自分の身体を使って書く事で淡々とした至福になっている。
先生のぼそっとおっしゃった一言がそのように感じられたのです。
書は人です。
人が出来ていないと、書は形だけになってしまいます。
書と人はセットで評価される物だと考えます。
そこには意味ある文字があるからです。
だからこそ書には画廊のようなシステムや市場が存在しないのでしょう。
ピカソの作品は評価されています。
でも人物としてのピカソはどうでしょうか?
その破天荒ぶりに閉口した人も多かったのではないでしょうか。
そしてそのような画家は沢山います。
つまり作品のみが評価対象であって、書き手はそれとは別に評価されるのです。
西洋的な考え方なのかもしれません。
書の場合、文字に意味がある限り、文章になれば、それは書き手の一部を具体的に表すことになります。
何を表現したいのか、何を伝えたいのかが鑑賞書にダイレクトに伝わります。
書はアート作品もありますが、書家は純粋なアーティストであってはならないのです。
アーティストなら『黒』と一文字油煙墨で書いて、日本人の鑑賞者に『黒』以外の何かを真っ先に伝えるように書いてほしいです。
鑑賞者が『黒』という記号やデザインを知っていた場合、鑑賞者の固定概念を覆すことは不可能です。
つまり漢字文化圏以外ではアートとして受け入れられるのです。
筋肉隆々のマッチョな男性が、二の腕に『台所』とタトゥーを入れていることを笑い物にするのはバラエティーならよいでしょう。
書に携わる者なら、何故彼が『台所』というデザインを選んだのか興味を持つべきです。
そこには『台所』=キッチンの意味を無視した、形やデザインとしての魅力があると思われるからです。
そこを笑うのは、旧態然とした書家でしょう。
もっとも、彼が意味を理解した上で彫り込んだ可能性もあります。
その場合は、さらに興味が湧いてきますけどね(笑)
『面白ければよい』と言う、小説やアートと同じ集合には書は属しませんが、集合の一部は被るはずです。
書家も被らないとダメなのです。
つまり書家は、漢字文化圏では人格者であり芸術家であり、それ以外ではアート作品の書き手として捉えられることになります。
海外では作品が一人歩きするので、書の市場やギャラリーができるとすればパリかニューヨークあたりでしょうね。
その場合、縦長の軸のスタイルは馴染めないでしょう。
やはり、洋式建築に合う作品でないと。
海外で評価の高い書の作品は、洋式の壁に合うような形をしているのです。
つまり、一文字の書や墨象にして、正方形や横長の作品が喜ばれるのです。
細かい作品も好まれません。
海外では広いですからね、家が(笑)
遠目に見て目を引き、近くによると別な迫力がらあり、意味を知るとより深みを感じる。
そして書き手の事が知りたくなる。
なんて流れができたら書く価値はありますよね(笑)
徒然なるままに書いてしまいました。
ご反論あろうかとは思いますが、まだまだ駆け出しの若輩者の戯言でございます。
ご容赦くださいませ。