和翠塾ブログ

目黒都立大にある書道教室「和翠塾」のブログです。

友達

2014-01-19 07:36:12 | 日記
その線引きって難しいですよね。

極端な事言えば一人もいないし、逆に百人越えるかもしれないし。

一人もいない方を『友』と呼称して、百人と考える方を『友達』と呼ぶと分かり易いかもしれません。

その場合、『友達』は知り合いとかなり被る事になるとは思います。

助け合うなら後近所さんでもクラスメイトでも、会社の仲間や上司部下でと道ゆく人でも手を差し伸べます。

でもこれって社会に生きるルールみたいなものですから、この行為を出来る関係を『友達』とは言わないですよね。
広い意味で『同胞』かな?

そんな色々な関係の中で生まれる『気が合う奴』が『友達』ですかね。

ならば、友達は忘れた人含めれば百人どころじゃないかも!

でも、忘れてる時点でもう『友達』じゃないですよね。
かつての『友達』は、知り合いに格下げになり、さらには忘れ去られてしまったら、、、、

それで良いと思いますけどね。


そんな気の合う『友達』の中から『友』が生まれるのだと思います。

でもね、『友』って苦楽を共にしたり、生死をかけた状況を同時に経験したりしないと生まれないかもしれませんよ。
いい悪いは別として、戦場での体験だったり、船で遭難して辿り着いた無人島での生活だったり、何百日も地下に閉じ込められていたり、、、

過酷な環境が、気が合うというより合わさざるを得ない状況を作り出し、一気に『友』になるケースは、有る意味不幸なつながりですが、『友達』ではなく『友』になるケースでしょう。
その状況から脱出したあとその関係が続くかどうかはわかりませんが。


場合によっては互いにその才能を認め合いながらライバル関係にあって、顔どころか声も聞いたことないのに、お互いのことが気になっている関係なのに、『友』と言えるかもしれません。

これは同じ組織や業界にいる場合に起きそうなケースでしょうか。

『お名前はかねがね』と言う感じではなく
『論文を拝読しお会いしたいと思っていました』
『私もです』
なーんて、ドラマのようなパターンです。

あまり、ないかな(笑)


とにかく『友』にはだめだしをしてもらいたいし、私も嫌われることを厭わずだめだしをする関係でありたいのです。
そして相手の窮地を惜しむ事なく救う気持ちを持ち続ける気概でしょうか。

つまり『友』は相手を肯定だけではなく否定もできる関係の事であり、それはある特定の人をさすわけではないのです。

それは不変ではなく、ましてその存在が普遍でもないのです。

『知り合い』だけでも『友達』だけでも、人生は幸せに暮らしていけるのです。
『友』はいなくたって幸せに人生送ることができるのです。



しかしここに、昔から幸せになるための諺があります。

『三日幸せになりたければ結婚しなさい』
『一週間幸せになりたければお酒を覚えなさい』
『そして一生幸せでいたければ釣りを覚えなさい』

これは釣りがどんなに楽しいものなのかを諭した話しではないと思います。

穏やかな天気の昼下がり、池のほとりで餌をつけない竿をかざしてぼんやりと釣りをしている。

ただぼんやりと。

春、桜の木の下で、花びらが少しだけ舞い落ちる中、静かに糸を垂らしていたいものです。

つまりそんな気持ちで日々を過ごす事こそ幸せなのだと。

そんな心境をわかってくれる人が、そばにいなくても、この世にいなくても、わかってくれた事に感謝し、その瞬間の記憶があるだけでも幸せになれるよ、と言う事だと思うのです。



今はっきりしたのは、私には三人の『友』がいるということです。

つまり、そんな少しぼんやりとした関係で居られる今も、多分幸せなのです。