気になる鍾漢良(ウォレス・チョン)とMasaの中華的毎天

大家好!中華圏で活躍する「鍾漢良」をメインに中華的毎天(中華な日常)を綴っています。

「インタビューを振り返る」(その3)〜台湾の記憶と大陸へ進む決断

2019-08-05 23:07:00 | インタビュー
*さて続きです。台湾では色々と考えさせられる出来事があったようです。ここで、しっかりと自分のキャリアを積み上げていった事が今の彼に繋がっていくんだなぁ。と、彼の経歴と当時の台湾の芸能史を見比べて感慨深いものがありました。
 
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1995-2000年の5年間は、収入が段々減っていった事だけを覚えている
 
*19歳で、鍾漢良はTVBのダンサーとなり、梅艷芳(アニタ・ムイ)、張国栄(レスリー・チャン)などのスターのバックダンサーをはじめました。しかし、抜群の顔立ちがすぐに認められて、ダンサーとして仕事をしたのはわずかな期間だけで、すぐにドラマ班に移されました。当時の彼は、演技にそれほど思い入れがなく、「演じることをやめなかった」が、別に演技が上手くなったり好きになったりする事もなかったのです。
 
*もし、TVBでの仕事が、「やりたい事ができず、ドラマのデビューはしたけれどそれは自ら望んだものではない」という状況でなかったら、あの1995年に、台湾で活躍していた男性歌手の邰正宵(サミュエル・タイ)からの誘いは、彼の人生の二つ目の大きな転機には、ならなかったでしょう。
 
*当時、邰正宵(サミュエル・タイ)は香港で新人を探しており、偶然にも鍾漢良に出会ったのです。台湾へ行く決断は若干21歳の鍾漢良にとって、リスクが高いものでした。なんといっても彼は中国語もできず、歌の基礎もなく、あるのはダンスへの強い情熱だけだったのです。彼は唯一の自分の願いであるダンスの能力を発揮できるのはアルバムを出す事であり、それが台湾に行く決め手だったと語っています。台湾へ行ってからは、毎日、目が覚めるとダンスと歌のレッスンをし、その時間はあっという間に過ぎ、彼は最初のアルバム《OREA》を発表して、“小太陽”と呼ばれるようになったのです。
 
*1995年から2000年まで、鍾漢良は台湾でアルバムを発表し続けましたが、順風満帆というわけではありませんでした。この五年間、何をしたのか?問われると、彼は自分でも何をしていたのかよく覚えていないと語っています。ただ、通帳の残金がどんどん少なくなっていく現実に直面し、将来はどうしていけばいいのだろうと、自分を改めて振り返ったのだそうです。
そこで2000年に、中国語や演技を学び、大陸のドラマに出演し、アルバム制作はできる範囲で挑戦しようと決めたのです。そして、鍾漢良は本格的に大陸ドラマに進出することになったのです。
 
 
“北漂”生活は十数年、どんな事にも立ち向かい続けた
   ※「北漂」・・他の土地から来て北京で仕事をしている人を表した言葉
 
*北京に行ってすぐ、彼はドラマ「白手風雲」に参加しました。香港や台湾で過ごしていた南方人として最初に慣れなくてはいけないのは激しい寒さです。「零下二十度なんて、私はこれほど寒いとは思いませんでした。木に縛られて、雨に打たれるシーンがありました。水車から雨が滴り落ちてくるのですが、落ちてくるのは水滴のはずなのに、顔に当たるとすぐに氷になっているのです。」
 
*彼はドラマのシーンが一つ終わる毎に言いようのない強い思いが湧き、いつも香港が恋しくなったと語ってまいす。「寒さがつらく、孤独で誰も頼れないし、香港からは遠く、環境になじめないので、自分がとても哀れだと感じていました。でも不思議なことに、私は一度も演じたくないと思ったことがなかったのです。なぜなら、もともと私は簡単に物事を諦めるようなタイプではなかったからです。」
 
*故郷を離れた経験で、彼は「孤独の寂しさに耐える事」を学んだのです。彼は幼い時から自分は「家から離れるだろう」と思っていて、周りの環境に馴染めないことはないと自然に感じていたと語っています。「中学生の時から両親はよく大陸に働きに行っていました。いつも一週間に一回か二回ぐらいしか会えませんでした;若いうちに台湾で仕事をした時もただ一人でした。大陸にきて仕事をしていますが、北京に来て頑張っている人達も実はもともと北京出身の人達ではないのです。どこから来たかに関係なく、色々な国から来て、故郷を離れ、実家を恋しく思いながら、都市をさすらっています。なので、一番大切なのは家族とどうやって感情の絆を持つかなのだと思います。」
 
(続く)
つぎは、大陸での活躍です。
 

 
 
 
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4 コメント

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Unknown (ポチ)
2019-08-05 22:28:12
Masaさん、ありがとうございます。
《OREA》がヒットした後も順風満帆ではなかったとは、意外でした。台湾でもドラマや映画にいくつも出演していますし、大陸へは、更なる飛躍を求めて積極的に進出したのかと思っていました。記憶にないほどの5年間。長いですね。
以前、Masaさんのブログで、別のインタビューでも、寒い北京での辛い撮影について、語っていましたね。「白手風雲」は、見たことはないのですが、ポーズを決めている写真は本当に可愛らしくて、あの辮髪姿の裏では、かなり追い詰められていたのかと思うと、つい、母親目線になってしまいます。
ウォレス のご両親は、いつも側にいることはできなくても、しっかりと働く姿を見せることで、子供を教育していたんだと思います。そういう姿は、言葉で伝えるよりも、より深く子供には響くような気がします。頭が下がります。
続きが楽しみです^_^
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Unknown (いくちゃく)
2019-08-06 00:28:42
香港から台湾へ、ウォレスは意を決して旅立ったのですね。
台湾に行くまで歌のレッスンはしていなかったというのに驚きました。歌って踊れるとかいう類のダンサーではなく、最初は生粋のダンサーを目指していたんですね。
ポチさんも触れられていますが《OREA》がヒットしても順風満帆ではなかったというのは衝撃でした。そこで頭角を現した後、順調にキャリアを積んでいったのだと思っていましたから。
ただ冷静に考えると、ファンにとってウォレスは唯一無二の存在ですが、広い中華芸能界において誰もが知る存在になることは並大抵のことではないのでしょうね。
若い時の苦労は買ってもせよと言いますが、ただがむしゃらに働いた五年間や、『孤独の寂しさに耐える事を学んだ』のくだりは涙なくしては読めませんでした。でもそこで、基礎を学んで地力をつけるという選択をしたウォレスは、若いのに足が地に着いていて立派ですね。
会いたいと思っても簡単には帰ることのできない遠い故郷の家族と、ウォレスはどんな風に絆を繋いでいたのでしょうか。
『上错楼梯睡错床』は、ウォレスが配音を使っていないので好きなのですが、この台湾や北京での苦労や辛さを知った後では、より一層好きになりました。
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Unknown (Keteru87)
2019-08-06 04:06:29
ウォレスの自分で決めたことに向かう真摯なあり様と、
キットシンプルに好きだったんだろうなと感じるのです
嫌だなと思ったことがないのですからね
想像ですが、彼のそんな態度が、良い先輩をひきよせたり、
善き人との出会いを呼んで、今があるのかなと感じています
ウォレス迷にとって今更でしょうが、、、
魅力に溢れてますもの❣️❣️❣️
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Unknown (えこ)
2020-12-12 23:06:20
記憶が定かでは無いと言う事は、それほど大変で、緊張を強いられた生活だったんでしょう・・・明星となった⭐️ウォレスは、耐え抜いた強い人です!
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