2019年12月1日:ブラタモリを視聴(み)ましたか?
2019年11月30日(土) 午後7:30~午後8:15(45分)NHKで放映されました。
「岡山~“岡山といえば桃太郎”なのはナゼ?」と題して、桃太郎伝説の新たな見方が紹介されました。ネットに蔓延している桃太郎伝説(温羅伝説)に「基本杭はこれだ」と示されたように感じました。さらに、地元(奥坂)の風景が一部映っています。全く知らなかったので驚きましたが、彼岸花が咲いていることから、いつかはほぼわかります。
林田さんのファンとして、お逢いできず大変残念でした。
さて、基本杭に沿って少し私見を交えて解説してみます。
1.根拠出典は何か
吉備津神社が保有(現物があるのは初めて知りました)の『鬼城縁起写』から、桃太郎の登場人物を探していきます。お供の犬(犬飼(養)氏、キジ(無理筋ですが留霊の臣)、さる(樂々森彦)、そして桃太郎(吉備津彦)。鬼は(鬼神)、これで全てです。
ついに、「国民多く恩愛の妻子を捕えられ眷属を失ない紅涙正に止む故なし」のため鬼ノ城に住む鬼との戦いが始まります。
2.大和に対抗できる吉備の勢力の根拠
楯築遺跡にある弧帯文石(弧帯石)の文様のある特殊器台、特殊壺。さらに大きな特殊器台が大和で出土している。大和の前方後円墳のプロトタイプと見られる楯築墳丘墓。そして、近くの川入遺跡に代表される水田集落群とその中心にある津(港で和名抄では都宇(つう)郡)、さらに製塩業、製鉄業も近郊で栄えていた弥生・古墳時代の遺跡も各報告書(川入遺跡で検索)で確認できます。
3.石でできた鬼ノ城
鬼の住処、鬼ノ城への導入部として、池の下(総社市西阿曽)の土塁が紹介されています。鬼ノ城への侵入を防ぐものと考える人もいます(一部発掘調査されましたが時代特定ができていません)。このとき当初の石仏の風景が出てきます。これが奥坂の入り口になります。
ここから鬼ノ城西門がよく見え、私も定点観察点として記録しています。
シナリオとしての絵映りには最適だったのでしょう。学習の館館長平井氏の登場です。
そして、いよいよ鬼ノ城です。西門周辺の版築と敷石(排水路)が紹介されタモリ氏専門の石の解説があります。ただし、西門周辺は、昭和45年(1970)の神籠石発見から始まった発掘調査から明らかになったもので、当然根拠出典や桃太郎話の始まる室町時代には、風化状況によりますが多分明らかになっていなかったでしょう。放映に中に、ほんの少し第2展望台(屏風折れの石垣)の写真が紹介されました。ここは、記念碑もあり、大きな石垣なので築造当初から見ることができたものでしょう。根拠出典にはそれらしき(敢えて)記載もあります。
ここで終了ではなく、退治された鬼のその後に続きます。
私見ですが、効果的なドローン空撮が見事でした。西門周辺の撮影技術にも感動しました。
4.鬼を祀る御竈殿
さて、退治された鬼のその後では、吉備津神社の御竈殿になります。余談ですが回廊は本宮にも通じており、御竈殿のためだけではありません。占いについてはご存じの方が多いと思いますがその下に鬼の首があることはあまり知られていないかもしれません。林田さんの願いはかなったようです。
5.地元で今も祀る御前(おんざき)神社
最後に吉備津神社本殿の外陣にある鬼の面と艮御崎でも鬼を祀っていることが表現されていました。有名な梁塵秘抄にある「・・艮御崎(うしとらみさき)は恐ろしや」とあるように、近郊にも多くの御前(おんざき)神社があります。やはり単なる鬼(賊)ではなかったようです。
参考文献
1.鬼城山について
「鬼城山」国指定史跡鬼城山環境整備事業報告 2011年3月 岡山県総社市教育委員会
2.土塁について
参考文献1.の第6章 鬼ノ城について 高橋護 鬼ノ城に先行する城塞について P187
3.鬼城縁起について
[備中誌賀陽郡中(巻之八)明治37年4月31日発行 岡山縣]近代デジタルライブラリ
(注)放映された文書には返り点がついていました。
4.木造 鬼面(室町時代)
吉備津神社 岡山県立博物館平成十九年度特別展 平成十九年(2007)十月十九日
(注)本資料には『鬼城縁起写』は写しのためか掲載されていない。
5.楯築遺跡について
楯築弥生墳丘墓の研究 近藤義郎 1992
『倉敷市楯築弥生墳丘墓発掘調査概要報告』 1987 楯築弥生墳丘墓発掘調査団
(注)いずれも未読ですが、近藤氏は発掘調査を主導された岡山大学の先生でした。
最後に、本稿は写真もなく分かりにくいところもありますので、後日改定版をと考えています。
以上