田舎暮らしの日々是好日

山羊とともにのんびりと農家生活をしながら日頃の憂さ晴らしをつぶやきます。

オオゴマダラ蝶が羽化した

2016-01-20 03:20:50 | 日記

 沖縄北中城村からもらってきた蛹が羽化した。





 箱に入れて、大事にして持って帰って
 飼育していた。



 1頭だけ蛹になっていた。
 羽化まで21日かかっている。



 成虫の蝶は7頭もらった。
 それが卵を生み続けている。
 卵の数は百個を超えてるらしい。



 卵から孵化した幼虫も2令期に入ろうとしているのもあって、
 いまのところ順調に飼育されている。


 食草のホウライカガミを鉢植えにして
 これに卵を産ませられたら
 台風のときでも家のなかに移動出来るので
 鉢を置いた。



 卵を産んでくれたので
 この方法でも台風対策がとれそうだ。



 私も部屋の中で幼虫を一頭飼育している。
 逃げ出さないようにと戸棚の中のダンボール箱で飼育していたのが
 昨日の夕方からぶら下がり始めて
 今朝は蛹になる態勢になっている。



 是までやってきたことの
 確認のためにも
 記録写真として残しておく。


 

原稿の下書き

2016-01-19 05:02:14 | 日記
島を知ることで人が輝く社会教育のあり方を目指して
1 はじめに
 教育関係月刊誌「青少年」を通りがかりに手にした。
「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいもの未知なるものにふれたときの感激、思い遣り、哀れみ、驚嘆や愛情のさまざまなかたちの感情を呼び覚ましてあげることが、次なる知りたいと思う感情につながり、もっと知りたくなる好奇心になり、しっかりとした知識に導いていく・・・・。
奄美復帰30年記念を前にしての頃であった。
その本を手にして、社会教育の原点に出会った気がした。
役場を早期退職した私は、肩書きと活動の場所を得るために、環境に関すること、まちづくりに関することの二つを目的に平成19年にNPO法人を立ち上げヨロンマラソン完走記念植樹とオオゴマダラ蝶の再生に取り組んできた。
やっと形が現れてきたと感じている昨今である。
2 取り組みの概要
 (1)ヨロンマラソン完走記念植樹
 ヨロンマラソンは今年で第25回を迎えることになるが、第16回大会から参加者に呼びかけて完走の記念樹を植えてもらうことを提案してゴールに近い与論港コースタルリゾート沿道で実施してきた。台風や潮風の被害で植栽が難しい場所をあえて選んだのは、適した樹種を実証してみたかった。
在来のものを使えばいいことは、植物生態学を学んだので承知していたので、最初はアダンやリュウゼツラン、クサトベラを植えて防風効果ができるのを待った。
そしてやっと、近年になって」ハイビスカスやクロトンなどを植えることが出来、当初の目論見が達成できたと思っている。
(2)オオゴマダラ蝶の再生と緑化の啓蒙
渡りをする蝶、アサギマダラの羽にマーキングを発見したことから蝶の権威の先生に出会えて、鹿県昆虫同好会の仲間入りが出来ていた。
度重なる台風の襲来と、農業基盤整備やらで島の緑が少なくなっていくのを気にした仲間の一人が、与論島の海岸植生の絵を描いて、「昔はこのあたりに美しい蝶が舞っていた」と言ったことがきっかけで、オオゴマダラ蝶の再生と緑の啓蒙を目的に、自然保護ボランティアファンドの助成金を頂くことができた。
海岸植生を復活、再生させようということで、世界サンゴ記念大会にあわせて、オオゴマダラ蝶の再生をかけて島の緑の再生に取り組んだのが「みんなのみどり」「みんなでみどり」
の呼びかけであった。
 オオゴマダラ蝶は鹿児島県では喜界島と与論島にしか生息が確認されていないとされていて、喜界島では保護条例も制定され捕獲が禁止されている。
本町では、そこまではして欲しくなかったが、オオゴマダラ蝶をまったく見かけなくなった時期があった。
沖縄から蛹を30頭購入し飼育して自然交配させて放蝶した。
成功したかに見えたが三連続して襲来した台風のあとからは次第に少なくなり、ついには見かけることが出来なくなっている。
 蝶を増やすためには食事となる餌、食草のホウライカガミを植えることは必要だと思って、有志に働きかけて庭に植えてもらうほか大金久の保安林内にも大きく育っている。
が、どうも食草だけではなく、天敵によるのかもしれない。
最近は保安林のモクマオウが枯れているので隠れ場所を」失ったせいかもとも思っている。
数年前から沖縄に調査に行って、沖縄本島においてもその数が激減していること知った。
先月、うるま市の蝶の友の会員に入会してオオゴマダラの成虫(7頭)と幼虫を分けてもらって仲間が現在飼育を始めている。
(3)赤佐公園の緑化にむけて

全国花フェアの事業記念に仕事をもらった。


3 おはりに
 一日の計は 樹を植え
 十年の計は 樹を育て
 百年の計は 林にして
 千年の計は 森にする
これが植樹教育だろう。

誰がやるだろうか
誰にさせようか
そんなこと考える前に
自分でやってみましょう。
言って聞かせてさせてみて やって見せねば人は動きません。

カメレオン語録より

 
  

マイホーム暮らしは山小屋みたい

2016-01-18 02:40:12 | 日記



 子供頃から広々とした屋敷で育った。
 江戸時代の末、
 曽祖父(盛窪)が足戸集落から移住してきて屋敷を構えたようである。
 与論島の移住経路とシニグ祭祀」について調べていたことが
 「与論島」~琉球の原風景が残る島~で紹介された。
 もともとは歴史や民俗学に興味を持っていたわけではなく、
 先祖のルーツを探していたことからアジンチェー神社の祭祀に関わる調査をしていた。



  そのことは
 さておいて・・。

 先祖は屋敷を構える(選ぶ)にあたって、
 風水の思想を活かしていると思える。
 最初に移住してきたのであるから
 いいところを選べたのは当たり前ではあるけれども
 海にも遠からず、田や畑も肥沃な土地を耕してひろげていけるところに位地している。
 そして、旧道(赤線)にも囲まれている。


 
 それで どうした・・・。
 その恩恵を授けた先祖に感謝し、
 家と屋敷を存続させて栄えさせていかなければならない責務を背負っている。
 家訓として
 先祖の名を汚さない
 酒色に溺れない
 子孫を繁栄させる

  祖父の箇条書きは20項目余りあるので止める。



 ところで、
 祖父の随筆によると
 「盛窪は人生は楽しむためにあると言って、本やレコードを山ほど持っている。
 家を潰す気でいるのでは・・・、と杞憂する云々」と書いてある。
 そういう本人は漢和辞典や辞書を愛読していた。
 テレビをみるより辞典をみたほうが楽しいと言っていた。
 堅物な人格であったので、
 あまり交際する人はいなかったようで
 区長を長らく務めたこと、
 若いときは戸籍や農会書記、
 今で言えば農業委員会だろうかの務めもしていたようである。



 曽祖父の盛窪(二代目)は
 集落の世話役、今で言えば議員だろうかそれとも区長みたいな役職か?
 師弟もいたようである。
 共同の黒糖工場もあったので
 もともと屋敷は広かった。
 ガジュマルが鬱蒼と茂っていて、
 島蜜柑の木がいっぱいあったと聞いた。
 森だったおかげで戦争中に火事で焼かれることもなかった。



 中学生の頃、
 茅葺の屋根をトタン屋根に葺き替えて
 幼稚園の頃に建て替えられたトーグラ(台所兼居間)と渡り廊下なしに
 繋がれた。
 渡り廊下だったスペースを利用して、
 叔母と子供部屋が出来た。
 昔は10名家族だったので
 食台も大きかった。



 小学生の低学年までは
 井戸端で水浴びをしていた。
 隣の家でドラム缶のお風呂が珍しくて入れてもらった想い出がある。
 低学年の頃はあかぎれの子供たちが多かったが
 母が洗濯ダライにお湯をいれて
 洗ってくれたのでおかげであかぎれはなくてすんだ。



 五右衛門風呂が普及し、
 台所の西側の竹藪のなかに今で言う露天風呂が作られた。
 叔母は農協に務めていたが年頃なので
 覗かれはしないかと祖母を見張りさせたと
 後々の笑い話になった。

 もーあしび(夜這い)の慣習が盛んな時代でした。

 隣の叔母さんはのぞきに来る青年をからかってた」と
 愛嬌があると もてたようだ。
 小学生の低年齢のころは叔母さんたちに一緒に遊んでもらい
 抱っこして昼寝してもらったりも・・・・。
 
 牛小屋は堆肥盤と呼ばれるコンクリートの壁囲いに
 トタン屋根が張られた当時は新しい牛小屋だった。

 黒糖小屋は石垣積みで、赤レンガの煙突のあとが残っていた。
 小さい頃妹を背負って牛追いをした記憶がある。
 車道(くるまどー)という
 サトウキビを搾るための鉄で出来た三連の車輪を牛に引かせるのである。
 手伝いと言うよりは、牛に引かれて遊んだのだろう。
 砂糖汁やガンザタという、
 出来たてのねばっこい黒砂糖がもらえるからだった。
 自分のところに黒糖工場(さたやー)がある役得だった。

 黒糖は中型の製糖工場に変わっていって、
 私の家は那間小学校の南側にある工場に運んだ。
 工場の近くの水溜りに白鳥を飼っていた。
 アヒルだったのだろう。
 今でもリアルに思い出せる。

   いやいや・・・、
 記憶と言うものは チェーンハート 
 鎖のようにに繋がって次々と思い出される不思議・・・。
 止めよう。

 小学校への通学路の高台から
 家の砂糖小屋の茅葺屋根が見えるところがある。
 北の方角にはおきのえらぶの島がみえる高台だが、
 そこには首の切れた山羊(馬とも・・・)の幽霊が
 昼間から出てくると言われ
 一人では怖い真夏の昼さがり・・・。

 またまた・・・、
 記憶よ静まれ。

  と言うことで、
 長くなったので続きは またあとで。

 風がひゅるひゅると泣いている。
 犬吠の太郎
 好きな本がここの部屋には持って来てない。
 長年手にしてきた詩集や趣味の本は身近においておきたいものだ。

 山小屋の雰囲気に浸りながら
 子供頃を思い出してみた。
 リダーズダイジェストというのを小学生の頃読んだ記憶がある。
 四こま漫画に女の裸が載っていた。
 黒砂糖小屋は稲わらの貯蔵場所になっていた。
 かくれんぼをして遊ぶ場所になった。

 それが高校生の頃カボチャの集出荷場に建て替えられた。
 その一室が私の勉強部屋になって、
 Uターンしたころの五年を経て、
 ウーフの部屋に改造、
 それをまたもや改築して
 息子の住処となっている。

 

 
 
 

廃屋

2016-01-17 02:46:26 | 日記


  昔の風呂小屋




  通路が蔓植物で覆われてしまった。

 使われなくなった家具類をぶち込んでいる。

 片付けにとりかかろう。



 張り出して継ぎ足した私の部屋とは
 80センチ下がっている。



 高校生の頃、風呂からあがって家に入ると
 母がテレビドラマで「陽のあたる坂道」を見ていた。
 島田洋子が主演してたと思う。
 石坂洋次郎の作品、主に恋愛小説を読んでいた頃のこと・・・、
 若かった頃。




  樹の精 
 きのせいだろう。



 都会の生活にあこがれたこともあったが
 農家暮らしが似合っている。







正月を写そう

2016-01-16 03:24:45 | 日記

 小正月

 朝の一仕事の帰り 朝日に出会った。



 夢叶う十字路で車から降りて撮った。



 お昼は  ウンニーマイ」というのをお供えするのが
 我が島の風習



 質素な神棚
 まずは先祖様に



 ウンニーマイはお芋ともち米を練って固いおかゆにしたもの
 甘くて美味しかった。



 娘と三名の食卓



 この後、ご飯までついてきたがみんな頂くことができた。



 築35年の応接間はリサイクル家具が良く似合う



 当初からある応接セットはぼろぼろになったが
 愛着があって捨てがたい。



 当時は広く感じていたので
 飾り棚を置いたら狭くて仕方ない。
 花より団子  アテモヤが今年は豊作です。



 来客もないのでほとんど使うこともない。