田舎暮らしの日々是好日

山羊とともにのんびりと農家生活をしながら日頃の憂さ晴らしをつぶやきます。

あせった携帯の電池切れ

2017-02-27 01:43:51 | 日記

 約束の待ち人から電話をもらう手はずになっていたのに着信音がない。
 やりかけていた農作業の時間も惜しいので、
 仕事に没頭していた。



 いつもは携帯の着信音を恐れているのに、
 その日は特に気になって待っていたのは、
 沖縄でウンジャミの調査に行ったときの恩返しをしたいと持っていたからである。

 3時前になったのでこちらから電話しようとしたところ、
 電源が入らないことに気が付いた。
 あわてて充電を開始するが充電器の能力が遅い。
 いらつくから携帯はあきらめて、
 名刺を探し出して自宅の電話からお詫びを入れようと思ったら
 携帯番号が書いてない。



 充電が終わって連絡が取れたのは5時前だった。
 島内案内をする約束をやぶってしまった。



 海神様(ウンジャミ)を祭る道具を見せる約束だったので
 役場前で待ち合わせて、
 雨の中、アポもとらずにお宅訪問したら留守宅。
 車があるので遠出はしてないはずと、
 畑やら畜舎をさがしていたら、
 牛の餌やりから戻るところに出会った。



 最初から見せていただけるものと思って出かけてきたが、
 こころよく迎えていただき、
 いきさつなどの話やら、家系図もみせてもらい
 写真も撮らせてもらった。



 ここまで踏み込んだので、
 ウンジャミについて本格的調査を始めることにする。



 来年の郷土研究会で発表できるように資料集めをしておきたい。
 

嬉しい便り

2017-02-26 03:09:06 | 日記

 礼を欠いていた方に手紙と地方紙「かなしや」を送った。

  せんだって、
 ブログに載せた気がするが・・・。



 沖縄、那覇に行く機会が幾度かあったのですが、電話をすることができませんでした。
 私の郷土研究も少しづつではありますが、シニグ祭りから、
 墓地や遺跡の調査など進めてきております。
 
  沖縄との交流の旅も重なり、いろんな人とも出会いながら、
 那覇文芸の上間さんと直接お話したいと思うことが何度もあったのですが、
 とうとう実現しないで今日を迎えてしまいました。
  歳を重ねていくと、もういくら生きられるかを真っ先に考えるようになってきて、
 懐かしく会いたい人も絞られて来るように思われます。

  役場を辞めてもう10年がすぐそこに来ていますが、
 当時はどうやって生きていこうかと悩んで、アルコール依存症にもなって、
 4年前からやっと立ち直ることができました。
 アル中毒の全盛期の出会いだったと回顧していますが、
 それが幸いして郷土研究の調査が上手くいったような気がします。
  数週間前から偶然に考古学に入門しました。
 神がかりとしか言いようがありません出会いでした。
 宜野湾市元教育委員会課長の呉屋義勝先生と先史調査を開始しています。
 「与論島」 沖縄の原風景が残る島 先史から現代まで 琉球と奄美を結ぶ点 ゆーぬ島」
   なんとなく ストーリーを書き出そうとしています。
   同じことを何度も繰り返し語りたくなると老人の証
 自慢話 になりましょうか・・・・。

   別添の冊子に私の小文 島語り」を載せてもらっています。
  今のところ5巻までですが スタッフが帰ってきたら続きが出せると思います。
  近況をお知らせするとともにいつか私どもの郷土研究会との交流もできればと願って書きました。
  郷土研究会もなんとか二か月に一回の定例会もこなして、臨時に勉強会なども開催できるようになっています。
  会誌の発行が待たれているのですが、2号の発刊を五月の定例会に向けて準備中です。

    詫びとお礼にもならない失礼なお手紙上間様へ
     お許しください。
               泡 盛窪 拝

  
  那覇文藝・第23号/2017 と手紙、那覇市文化協会文芸部会副会長さんでした。
 
   シニグ祭りにあわせて、仲間と来て下さるとのこと。

  沖縄がますます近くなってきた。
  明日からは文化財審議会と郷土研究会の合同で視察研修旅行。
  夕べ呉屋先生から延泊するようにとの嬉しい電話。
  探し物も頼まれたので、カムイヤキと中国製磁器を見つけ出してお土産にしたい。

  今日は、祭事の研究者とウンジャミの道具をみせてもらいに行く予定をたてている。

文書

2017-02-25 03:11:06 | 日記
 





 平成26年 1月 24日


ヨロン島観光協会長 殿

                       与論島まるごと博物館
                         竹  盛 窪

 
観光についての提言・要望・意見交換について(お願い)

 貴殿に於かれましてはますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
このことについて、先日事務局長に依頼しましたが、私が以前から考えてきたことを記したものがありましたので添付しました。
 そんな考えの下で一昨年度から会員の資格を得ましたので、活動して思ったこと、私の今後の事業計画のアドバイス等を受けたいので、忙しい時間を割いて日程を作って下さるようお願いいたします。
 できれば、行政(観光課等)も交えた意見交換ができれば幸いですので、貴殿のほうからもお願いしてもらえないでしょうか。
行政で整備してもらった観光施設などの利用計画との連携も考えていきたいと思います。
 どうぞよろしくお願いいたします。

やりたかったことができる日に・・・。

2017-02-24 03:47:29 | 日記

 町誌追録の編集に係ってきた関係で、この一年間はそのことが気がかりだった。

 やっと自分の役目を終えることができ、
 あと一回編集会議で解放される。



 1、4、7編の執筆を担当していたが、
 自分の原稿を書いたのは4編だけだった。
 途中から7編のまとめ役の代役に指名されて任が重くなっていた。
 寄稿した原稿を取り上げてもらうだけのしごとだったけれど、
 いい経験をさせてもらって、
 終わってみると感慨がひとしお湧いてきた。



 初めの時、あれだけ書きたかった産業編については他のかたにまとめてもらい、
 新規に追加してもらった、林業(保安林)を載せてもらったことに
 自己満足している。



 産業編については、
 自分なりに「与論農業史」として老後の慰みに書き残しておきたいと思う。
 私がかかわった農家の功績と思い出を書き残したいと思っている。



 一篇の概観についても、動植物についての雑感を書いてみたい。
 七編、民俗・言語についてはこれからの勉強次第であるが、
 シニグとウンジャミについて、自分なりの研究成果をいつか発表したい。

 息抜きに始めていた井戸端への通路の改修工事を続けている。



 同時に山羊の糞を利用した畑つくりも始めた。
 軽トラの駐車する場所も作っている。



 島中の浜辺を歩き回って集めたサンゴ石が役に立った。
 日本一の石庭(サンゴ石の庭)を目指している。
 浜砂利の材料を生かした庭にする。



  石坂洋二郎の小説に「石庭」があったような・・・?
 学生時代、京都や鎌倉の庭を鑑賞しながら、
 いつかそんな鑑賞に堪える庭を造れたらと思っていた。



 これからは自分の人生の思い出の庭に向かって
 少しづつ少しづつ 手がけていく。


 

黒砂糖をかじりながら・・・。

2017-02-23 04:02:21 | 日記

      衣食住足りて礼節を知る



 ことわざを子供のころから祖父から聞かされて育ったので、
 自分もついつい昔のことわざを使うことになる。

 私が農業の手伝いができるようになったころには
 祖父の仕事は牛の世話だったように記憶する。

 3頭から多いときは5頭ぐらい飼っていただろうか・・・?
 農耕用の牛も記憶していて、
 家の前の田んぼで父が牛にすきをひかしていた。



 そのころは田んぼにドジョウがいた。
 フナもいたと思う。
 マシキナ池には鯉やウナギもいたので捕まえてきて井戸に放したりして遊んだ。
 田んぼには緑肥用にソテツの葉っぱを入れて耕すので、
 裸足で入った足が痛かったことで記憶している。

 黒砂糖を作る小屋と(車道)クルマドーと呼ばれる、
 圧縮してキビ汁を絞るための広場が倉庫や牛小屋、鶏小屋と家の間にあって、
 大きな屋敷だった。



 倉庫から畑と田んぼへの道路わきは、物干し場になっていて、
 豆やらの穀物を干していた。
 
 正月前の大掃除の時は、母の手伝いをさせられ、畳や布団を広げて干していた。

 豚小屋と便所は家の後ろ、北側にあった。
 豚も5頭ぐらいは飼っていただろう。
 仕切があったので、もっといたかもしれない。

 正月用の豚を殺すために包丁を首に差し込み、断末魔にあえぐ豚の哀れな最後も見届けた。
 去勢したり種をつけるのを見たりした。

 自分で鶏の首をひねったりもしただろうが、
 弟に殺させたという記憶のほうが脳裏に残っている。
 首をちょん切られた雄鶏が走り出したので印象深い。



  今思えば
 ほかの家庭よりも何不自由なく暮らしていたのだと思う。
 贅沢はしてなかったが、学用品も食べ物も不足した覚えはない。
 農機具はもちろんのこと、電化製品やTVなども他の家庭のよりも
 大きなのものだったような気がする。

 都会の生活を知らないで育っていたころは、それでよかった。
 TVが普及し、NHKのドラマを見るようになると、
 上流社会があるということがわかるようになった。

 芦田伸介さんが主演だった「飛べないアヒル」と「陽の当たる坂道」など、
 また教育映画の外国映画「ベンハー」の壮大なスケールをうらやましく思った。

 中学一年の修学旅行で初めての船に乗って徳之島まで行った。
 3年のときに農協のツアーで東京見物。
 高校二年の修学旅行は鹿児島、京都、東京だった。

 浪人した二年間に鹿児島に慣れると、
 志望校を東京に変えた。
 礒公園からみた桜島が造園の道に進路変更させたのだった。
 今思えば鹿児島はど田舎なのだが、第二の故郷でもある。
 そして海老名から川崎市中原宮内、多摩川べりが私の第三のふるさとである。

 いきなり東京に行くよりは良かったとも思う。




 日々暮らしていると、与論島がほんとに好きだと思う。

 そして今は沖縄にそして奄美大島にも惚れている。
 この与論島に、
 うるわし日本の文化と風景を残していきたい。

  衣食住に足りているから こんな活動ができること、
 この家と屋敷を残してくれた先祖に感謝しながら私が壊した部分を修復して
 子や孫に残してやりたい。




   日々是好日と言えるためには 健康が一番です。

  礼を尽くせる人になりたい




  一隅を照らすものを目指して・・・。