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ハンセン病問題ノート
研究所に置き去りの胎児標本、園に返還
身長約30センチの男児で、8カ月ほど。足につけられた木札に、母親の名、そして「長男」として母親の名から一文字を取った名前が記されていた。母親はすでに亡くなっている。
園自治会長で自身も断種の経験を持つ藤田三四郎さん(80)は標本について、「名前をつけたということは、生きていたということではないか。泣き声を聞いてから殺したのか。許せない」と話す。
2006.07.13 毎日新聞東京 地方版/群馬
ハンセン病の胎児標本、
返還へ 東京の研究所で長年置き去り、楽泉園で供養 /群馬県
草津町の国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」で、中絶させられたとみられる入園者の女性の胎児が、標本となって遠く離れた東京の研究所に置き忘れられ、やっと19日に園へ返還されることがわかった。火葬に付され、手厚く供養する。回復者の胸には「胎児標本問題は解決していない」という思いもあるが、いつまでも先延ばしするわけにはいかないと、園と自治会で火葬することを決断した。(高重治香)
療養所で人間の尊厳の核心部分が侵害されていた証しである胎児標本。長い歳月を重ねた末の帰郷だ。胎児が保管されていたのは、国立感染症研究所ハンセン病研究センター(東京都東村山市)。身長約30センチの男児で、8カ月ほど。足につけられた木札に、母親の名、そして「長男」として母親の名から一文字を取った名前が記されていて、楽泉園との結びつきが確かめられた。
当時を知る人によると、胎児の母親は1945年に入園、51年ごろ妊娠、中絶したらしい。すでに亡くなっている。
園自治会長で自身も断種の経験を持つ藤田三四郎さん(80)は標本について、「名前をつけたということは、生きていたということではないか。泣き声を聞いてから殺したのか。許せない」と話す。
胎児の標本が東京の研究所に保管されているなどとは、入園者のだれもが知らず、想像もしなかった。
楽泉園ではかつて、12体ほどの標本が残っていたという目撃証言はあるものの、83年にすべて焼却処分されたとみられていた。05年11月、厚労省は標本を有する施設に対し、年度内に標本を焼き、埋葬、供養をする旨を通知。これを受けてセンターが標本の扱いを園に相談し、園は初めて標本の存在を知った。
いつから、何のために標本がセンターに移されたかは、当のセンターも園も、今となっては「わからない」という。
自治会を交え、返還に向けた話し合いが始まった。
ハンセン病市民学会などは通知に対し、国の「謝罪」と「真相究明」が先だと抗議した。6月14日、川崎二郎厚生労働大臣が、自治会長の藤田さんら13療養所の代表を前に謝罪した。藤田さんは「おわびだけでは解決はしない。しかし大臣の謝罪と握手は、丁重なものと感じた」という。
園内にも「謝罪は、違法行為の幕引きになりかねない」と懸念する声がある。しかし、謝罪があり、胎児の母親の再婚相手である男性も供養を望み、19日、標本を受け取りにいくことになった。火葬にし、すでに火葬された以前の標本の胎児とともに合同慰霊祭をし、慰霊碑を作る。
医療倫理学の立場からハンセン病問題を研究する宮坂道夫・新潟大助教授は「標本の意味を考えれば、国の政策の中で患者の人権が踏みにじられてきたということがわかる。なぜこのようなことが見過ごされてきたのか、歴史的な検証を続けていかなくてはいけない」と話す。
●「ハンセン病」啓発へパンフ 県が千部作成・配布県保健予防課は「あなたに知ってもらいたい-ハンセン病を正しく理解しよう」というパンフレットを千部作成し、保健福祉事務所や中学校に配布した。
パンフレットはA4判で見開き4ページ。「ハンセン病は遺伝病ではない」「感染力のきわめて弱い細菌による病気で、治療薬で治る」と説明。隔離政策や国賠訴訟など、ハンセン病をめぐる歴史を紹介している。また、「作品を通じて理解を深めてほしい」と、草津町の栗生楽泉園で暮らす人たちによる写真や絵も掲載した。
本題ではないが、「行政の啓発パンフ作成」の記事を抱き合わせるって、どうよ>毎日新聞
ハンセン病啓発のためだけに、彼女たちは屈辱的な体験を自ら語っているのではない。
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