雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

生命保険に未加入は「死に損」?

2010年07月15日 | ビジネスの雑談
7月9日付エントリ「貧困ビジネスでないビジネスとは何か?」で、保険の類も貧困ビジネスではないか、と書いたが、そういえば、こんなことを思い出した。

筆者が今の会社に転職して間もないころである。年末調整のため、経理部長に呼び出された。そして、下のようなようなやり取りがあった。

部「キミも生命保険に入っているだろう。控除があるから証書を用意しといて。」
筆「いえ、何も入ってないです。」
部「え? 生命保険にも入ってないのか? 何だ、死に損か。」
筆「……」
(他の同僚たち失笑)

筆者は「死に損」という単語の意味がわからなかった。死に損があるということは、「死に得」もあるはずだが、「死に得」って何だ? 死んで得することがあるのか。どんな形にせよ、死んだら損だと思っていたのだが、どうも周りの同僚の反応をみても、筆者の方がおかしいというような空気が流れていた。

そう。武士道の国、日本には「死に得」「死に損」という考え方が未だ存在するのである。これはなかなか恐ろしいことだと思う。生命保険の契約が発動して、「死に得」を受け取るのは配偶者とか子どもであるが、身近な第三者が得をすれば、自分は死んでも自分の所属する共同体トータルで見れば得をするのでOKということだ。結局、個人の生死よりも集団の利益が優先されているのである。

もちろん、「自分に何かあった時、残された妻子が困窮するのを避けよう」ということで、無理のない費用の生命保険に加入するのは自然な感情である。しかし、生命保険に加入していない人間に「死に損」という言葉を何気なくぶつけてくるのは、何の権力もない末端の平社員である筆者にだからこそ安心して潜在意識下の本音を口走ったのであり、大和魂の片りんを見せつけられたような気がする。

そう考えると、借金やリストラや生活苦如きで安易に自殺する日本人が後を絶たないのも、むべなるかなという感じである。一神教の国々のように生死は神の領域ではなく、損得で決めるのが日本人である。だとすると、収入、資産、仕事、家族関係、交友関係、年齢、健康状態などの詳細な個人データをインプットしておくと、コンピューターが「そろそろ死んだ方がお得です! キャンペーン中の今死んでいただきますと、天国へのフライト300マイルたまります(?)」などとお知らせしてくれるサービスなども、その内でてくるかもしれない。

最新の画像もっと見る