雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

雑用をどう考えるか

2009年07月25日 | ビジネスの雑談
どんな仕事についても、新人は当面雑用をやらされるものである(あるいは、「ものであった」、と言うべきか。様々な職場で「新人」そのものが消えているのだから)。かく言う筆者も、コピー、届け物、買い物、メモ係、物探し、書類整理、カバン持ち、ゴミ捨て、運転手…ありとあらゆるパシリ役をやらされてきた。

一番苦々しい思い出は、パソコンもまともに使えない上司が書いた、殴り書きのような書類をワープロで「清書」させられることだった。「読む」というよりは、便所のネズミのクソのような字を「解読」しなくてはならなかった。「何と読むのか」などと上司殿に問うと、キレて血迷うので、その上司の過去の殴り書き原本をアーカイブにしておいて、何十分もかけて「過去例」から判読したりしていた。こういう上司連中のほとんどは高学歴で自信過剰であり、自分の汚い字が唯一無二の「素晴らしい」個性の現れと信じ込んでいたので、直そうとするわけもなく、本当にタチがわるかった。あまりに非効率なので、書類の決裁を電子化しようかという話も出たが、結局立ち消えになった。大方、ああいう上司どもが強硬に反対したのだろう。

日本社会の新人育成方法は、とりあえずパシリをさせて、側で先輩の仕事を見ながら仕事を覚えさせるというものであった。それは今も、それほど変わっていないのではないかと思う。日本の労働市場はガチガチに硬直しているので、新卒か第二新卒を逃すと、最早まともに就職するチャンスを失う。最初は小さい会社で仕事を覚え、実績を重ねるにつれて、より大きな会社に転職し、キャリアアップしていく…などというのは、終身雇用と年功序列バンザイの日本社会では、おとぎ話の世界に近い。結局、新卒のド新人に雑巾がけからやらせて飼いならす以外、人材の育成方法はない。

これまでは、そんな方法でもそれなりに機能してきた。なぜか。毎年、新しい雑用係、パシリ役が入ってきたからだ。いまは奴隷状態でも何年か我慢すれば、雑用から解放される。もっと我慢すれば、哀れなド新人クンをパシリに使える立場に回れる。そう自分に言い聞かせ、みんな我慢してきたのである。我慢に我慢を重ね、過労で倒れたり、鬱で自殺に追い込まれるのは、人も羨む人気の花形職種に多い。辞めてしまうと、それ以上の地位は望めそうにないから、我慢するより他ないのである。

そして筆者の世代は、そう信じ込んで我慢してしまった、最後の世代にあたるのではないかと思う。新規採用の抑制で、雑用を引き継ぐはずの新人クンたちがパッタリと入ってこなくなってしまったのだ。筆者は、いつまでたっても、30歳を過ぎても、雑用係&パシリ役から解放されなかった。仕事内容の余りのむなしさに耐えかねて転職もした。その甲斐もあり、多少責任ある仕事に携わるようになったが、やはり雑用やパシリからは今なお解放され切っていない。

苦い経験を味わった人生の先輩として言いたい。雑用は全く無意味であると断じてよい。自分がすべき雑用を他人にやらせるような人間は、決して相手のことなど考えていない。都合よく利用したいだけである。理不尽な雑用をやらされそうになったら、「そんなことをやるために会社に入ったのではない」「ご自身でやるべきではないか」と、摩擦を恐れず断固として拒否すべきである。以前の仕事を中途半端な形で辞職せざるを得なかった筆者は、かつての数々の無意味な自己犠牲が苦々しく思いだされる。我慢したところで、いつの日か雑用から自然に解放される時代はとうに終わっている。

これは、社会に出て間もない若い人たちだけでなく、部活動などで用具の手入れや玉拾いをやらされている学生や少年少女諸君も同様である。まともな指導も受けさせてもらえず雑用ばかりさせるような部活で我慢するより、有料のレッスン・スクールに入ってプロのコーチにキッチリ指導してもらうほうが良い。時間と才能を浪費してはいけない。若い時間は極めて貴重である。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」などというゴリゴリの昭和的価値観のお題目に騙されず、厳しくも長い人生を乗り切るための、強力なスキルを身につけることに専念してほしい。


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