雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

職業としての「戦場ジャーナリスト」の終わり

2015年04月20日 | その他の雑談

後藤健二氏がイスラム国に斬首されてはや2か月超が過ぎた。もう氏を思い出す人もなかろう。

今回の事件で明らかになったのは、「戦場ジャーナリスト」という職業の終わりである。

かつて、巨大な国家機構や抑圧的な権力機関と戦う反政府勢力やゲリラ組織、少数民族などは、自前のメディアを持つことができない時代があった。国家の弾圧に晒される彼らの主張を外部の世界に伝えてくれるのは、フリーランスの「戦場ジャーナリスト」たちだけだった。戦場ジャーナリストは一定の敬意を払われ、彼らの言い分も聞くことを条件に戦場の取材を許された。

ところが、今はネット時代である。反政府勢力の側も、安いスマートホン1個で驚くほど鮮明な動画を撮影し、あとはPCが1台あれば適当に編集し、ウェブ上にアップすることで瞬く間に全世界へと拡散できる。

「戦地のカワイソウな子どもたち」という安っぽいメロドラマを仕入れて商売にするしか能のない「戦場ジャーナリスト」などという無責任な輩に、飯のタネを与える必要など全くなくなってしまったのである。

状況の変化を理解せず、危険地帯の戦地にノコノコとあらわれる「戦場ジャーナリスト」を、人質として拘束し、身代金を要求、返答がなければ斬首するのは全く合理的である。

IT社会の到来とともに、「戦場ジャーナリスト」「戦場カメラマン」は、既に用済みとなった。だが悲劇なのは、プライドが高く奇妙な使命感の呪縛から逃れられない彼らに、その自覚が全くないことである。これからも戦場にネタを仕入れに行き、自身がネタとなり続けるのだろう。

合掌


湯川遥菜氏はまだ無事らしい。

2014年08月26日 | その他の雑談

拙ブログに以前登場した中東系のビジネスマンが教えてくれたが、シリアで極悪非道なイスラム過激派につかまってしまった日本人は、とりあえず無事かもしれない。ツイッター上に次の写真があったそうだ。8月23日に投稿されている。真偽のほどは良く分からないが、なんでもアクタリンとかいう所で捕虜にされているらしい。

https://twitter.com/abo_albre/status/503069100663668737

その内、日本でも報道されるだろうと思っていたのだが、未だに本画像が周知されている感じでもないので、一応ここに記しておく。関係者の皆様のお役に立てば幸いである。

 


文系の頭の良さとは何か

2014年03月22日 | その他の雑談

金融日記の管理人が文系をdisっている。確かに異論はない。氏に比べれば、わが国の凡百の文系学者などバカばかりであろう。しかし、そうは言っても、氏がこの上なく愛する金儲けで圧倒的に成功しているのは、右を見ても左を見ても、氏がバカにする文系がほとんどなのである。文系がそれほどバカなら、頭脳明晰で理路整然な理系が、社会エリート層を圧倒的に席巻していても良さそうではないか。

なぜ、そんなに優秀な理系が、低能極まりない文系に負けるのか。文系に何がしかの強さがあるのか。おそらく、それはあると思う。次のような例え話で示すことができる。

あるところに儲け話がある。元手をウン百万円かだせば、それが短期間で途方もない利子がついて戻ってくるという夢のような話だ。非常に巧妙な手口で仕組まれているが、実体はもちろん詐欺であるとしよう。それでも、氏が見下す幾千万ものバカな文系が、ホイホイと飛びつきそうな類の話だ。

運悪く、この詐欺師が氏のような賢い理系に出会ってしまったとしよう。もちろん理系は騙されるわけもなく、肩をすぼめて首を振りつつため息をつき、忽ちにして詐欺師の儲け話の矛盾や問題点を見抜き、時には鋭く指摘し、世の中に警鐘を鳴らすとともに、自分以外の愚かな物に忠告する寛大さをも発揮することであろう。

それでは「賢い文系」はどうするのだろう。それは、詐欺師に向かってこう言うのである。「そんな儲け話があるなら、お前のカネでやれ!」と。それでおしまいである。まさに一刀両断である。おそらく詐欺師に発言の機会は5秒もないだろう。いちいち詐欺師の弁舌にさえ付き合わない。次の5秒には、その詐欺師の存在すら忘れている。いや、更に言えば、端から詐欺師を寄せ付けさえしないかもしれない。怪訝そうな表情を一瞬見せるだけで、詐欺師を退散させるかもしれない。

結局のところ、実際に世の中をリードしているのは小利口な理系ではなく、こうした文系的賢さである。細かな専門的知識はなくとも、いちいち理詰めで相手を論破などせずとも、確たる証拠など求めずとも、それまでの常識や経験、相手の雰囲気やしぐさ、話し方や内容で判断するのである。自分自身をめぐる利害関係の網の目を、大きな文脈の中で常に意識し、そうした大局的な観点から物事を判断しているといってもいいだろう。自分の所に近づいてくる人間がどのようなレベルの連中なのか、どこそこに集まっている人間は信頼に足るのかどうか、なぜ目の前の人間はそのような発言をしているのか、瞬時に判断しながら世の中を渡っている。

「文系ってマジバカだよね」と悦に入っている理系のプライドと虚栄心をくすぐりつつ、どうやってたらまんまとカネ儲けに利用できるのか。真の文系ならば、バカだアホだとの罵詈雑言を華麗にスルーし、優秀な理系を徹底的に使い倒す方法を考えていることだろう。


北朝鮮の張成沢の粛清と、中日の井端弘和の自由契約

2013年12月14日 | その他の雑談

北朝鮮の体制要人処刑のニュースが話題を呼んでいる。大衆にとって何の興味もない国際情勢などにまともに関心のないはずのマスコミが熱心に情報を追っかけている。そういえば、少し前に同じような状況があった。新たに就任した中日ドラゴンズの落合GMが、愛弟子ともいうべき生え抜きの選手である井端弘和に大幅年俸ダウンを提示し、自由契約に追い込んだ件だ。注目すべきは、その後の中日の他選手の契約更改である。、中日の選手たちは諾々と同様の大幅年俸ダウンを受け入れたことに、世間は大きな関心を示していた。名古屋のローカル球団の内部事情に過ぎない話なのに、連日「落合GM、〇日でウン億削減!」などと見出しが躍っていた。

腹心の身内を切るというのは、組織を引き締め、指導者の求心力と従属者の忠誠心を高める激烈な効果がある。これは目新しいことでも何でもない。北朝鮮のように銃殺までせずとも、日本の企業や公的機関などでも、組織を支えた有力幹部の左遷や更迭という形でごく日常的に行われていることである。要するに、国際情勢やスポーツに何の関心もなくても、みなサラリーマンとして世間を眺めているからこそ、これらの問題に関心があるのだ。明日は我が身という訳である。

しかし、同じようなことを身内で普通にやっているのに、したり顔で北朝鮮の独裁と閉鎖性を批判できる資格のある御人は、果たして我が国にあらせられるのだろうか。


思言行不一致でいこう!

2013年10月31日 | その他の雑談

「言っていることとやっていることが違う」、これは日の本で最も忌み嫌われる態度である。方や、「ブレない」ことが至上の美徳としてもてはやされる。だが最近、この言行不一致こそ、人生で成功するための最強の戦略ではないかとつくづく思うようになってきた。通りすがりの読者の皆様も、思い当るところはないだろうか。あなたの遥か上手をいき、周囲の羨望を集めるあの人も、この人も皆、実は言行不一致ではないだろうか。

そもそも何故言行不一致になるかと言えば、人間を囲む環境は常に変わり続けるものであること、そして人間は基本的に成長(時には退化もあるだろうがw)するものだからである。だとすれば、「言っていること」と「やっていること」に齟齬が生じるのは当たり前のことなのである。そこで問題となるのは、そうした場合に、「言っていること」と「やっていること」のどちらを優先するのか、ということになる。

そして、「言っていること」を優先する場合、言行不一致はまずもっておこらない。つまり、発言の方に行動を合わせるわけだから、結局やっかいなことは何もしないという結果に落ち着くしかないのである。これは楽だし、何の葛藤もない。逆にあくまで「やっていること」を優先したらどうなるだろう。これぞまさしく「言行不一致」となる。いままで言ってきたこととは全然違うこと、口にもしてこなかったことを突然やりだすのである。周りの人間は鬼の首をとったように言行不一致だと騒ぎ立てるだろう。かといって、発言の方を修正すれば、さらに思う壺である。「発言がブレている」「嘘つきだ」「信用できない」という批判の渦に巻き込まれてしまう。ここで怯んでわざわざ前言を撤回するぐらいだったら、むしろ新たな行動の方が有無を言わさぬ好結果を残すまで、言行不一致を貫いた方がマシかもしれない。

もう、通りすがりの賢明な読者の皆様にはお分かりだろう。言行不一致な人物とは、周囲の批判などおそれない行動力の持ち主ということなのだ。だからこそ、凡人を出し抜いて成功を掴み取る可能性が高いのである。

さて、この素晴らしき言行不一致の美徳を備えているだけではなく、もう一段その上を行く傑出した人材が我が国にはいる。他でもない、安倍総理である。安倍総理閣下は、「言っていること」と「やっていること」が違うだけではない。さらに「考えていること」まで違っているとしか思えないのである。安倍総理の政策は思考と、発言と、行動がどれ一つとして同じでなく、バラバラ、というか、バンラバンラ、といより、ブワッラブワッラなのである。外交、税制、経済、人気取りのパフォーマンス、何一つとして一貫したものはない。考えてもみないことを言い、言ってもいないことをやり、やりたくもないことを考えているのだ。少なくとも筆者にはそのようにしか見えない。これはすごいことである。常人ならアイデンティティー危機に陥り、発狂しそうなものである。

だがそんな安倍総理は就任以来、非常に安定した高支持率を維持しているではないか。先般の選挙でも完勝だった。「友愛」だの「脱原発」だのバカの一つ覚えのように念仏を唱えてブレなかった方々の末路はどうだったか、まだ記憶に新しいだろう。

腹痛で逃げ出した前科を持つ総理など全く支持していなかったが、彼の「思言行不一致」は大いに見習うべきであり、今では世界に誇れる優れた指導者として尊敬申し上げている、などと全く心にもないことをブログに書き、次回にはまったく矛盾する内容のエントリでもあげてみたりする予定である。


優劣ではなく、損得に生きる。

2013年10月30日 | その他の雑談

とかくこの世の中は、へりくだったり見下したりで、本当に鬱陶しいこと極まりない。自分より目上なのか、横並びなのか、目下なのか。それ以外に何も考えることがないかのように見える。

権威主義的な日本社会において、貧相なステータスしか持ち合わせていない哀れなこのブログの筆者は、へりくだられることは非常に稀であり、圧倒的にバカにされることが多い。もちろん大人だから、あからさまにバカにされることはない。だが、相手が無意識のうちに上から目線に立っているのは容易に感じられることが多々ある。言葉は丁寧でも、態度や表現の節々でまる分かりである。

先日もとある件で長たらしい報告書を作成せねばならなくなり、気乗りのしない仕事であったが、この歳になっても部下一人いない筆者は、渋々一丁自力で仕上げざるをえなかった。さて本題はその後である。「この報告書は、誰に書いてもらったのか」と、あちこちで尋ねられ、すこぶる閉口したのだ。「いや、僭越ながら私が」と答えると、「それなら誰に見てもらったのか」などと無意味な質問を重ねてくる。「いや、みなさんお忙しいでしょうし」と返せば、「ならばどうやって仕上げたのか」などと、更に食い下がってくる方もいらっしゃり、出るのはため息ばかりである。

予想外に報告書の出来が良かったのだろう。それならそれで黙って受領すればいいではないか。思わぬ人物から割と良い報告書があがってきた、誰かに知恵を付けてもらったのかもしれぬ。自分でどうにかうまくこなしたのかもしれぬ。だが結果がよければそれがすべてではないか。別に敬意を払えなどと言うつもりは毛頭ない。だが、こういう無意味なやりとりを方々で繰り返さねばならないのは、先方が筆者を常日頃から心底バカにしていることの表れである。このバカが一人でこんなものを作れるはずがない。誰かを上手く利用したに違いない。この低能は、俺より下に位置するはずだ。そういう固い思い込みが、つまらぬ報告書一つで揺るがされた結果、やんごとなき自尊心を傷つけられ、こちらが紛うことなきバカであることの確証を探し求めているのである。

しかし、そんな失礼な御人にバカにされて、大人げなく多少なりとも憤慨してしまう筆者も、まだそうした優劣ごっこから卒業しきれていないのであろう。下に見られて悔しいというのは、そうした上下意識から完全に自由になっていない証拠である。相手が不当に自分を見下し、こちらの実力を過小評価しているなら、何とか相手をうまく転がし騙し利用して、自分の利益にできないかと考えるべきなのだ。バカと思っている相手には、油断全開になってしまうのが人間というものである。付け入るスキはいくらでもあるはずであろう。優劣などどうでもよい。具体的な価値もない下らぬ序列など勝手に決めさせておけば良い。自分がいかに損せず得するかだけを考え、生き抜かねばならぬのだ。

このような考えから、昨今は理不尽に見下される度に、「優劣でなく、損得に生きるのだ」と自分に言い聞かせている。だが、ついついムッとなってしまう。人間のサガとは、全く何と根深いものなのか。


この世に真の冒険など最早ない

2013年05月28日 | その他の雑談
80過ぎてエベレストに上った翁が話題になっているが、このニュースを聞いて、もうエベレスト登山など冒険でもなんでもなくなったのだな、としみじみ思った。

登山全般にいえることだが、今や完全に商業化され、ノウハウも蓄積され装備も充実し、上るだけだったら対して話題にもならないので、最高齢だとか、清掃しながらとか、無酸素とか、中にはお笑い芸人とか、さまざまに条件を加えて世間の耳目を集めようと登山家の方々は必死である。残念ながらこの時代、もはや冒険の名にふさわしいフロンティアは地球上にほとんどないので、あとは珍妙な自己満足ルールの下でやってのけるぐらいしかない。

そのうちネタが切れてきて、100歳の双子姉妹が同時登頂とか、「坂田歩き」でエベレスト登頂とか(苦しくとも呼吸は「アホゥ、アホゥ、アホゥアホゥアホゥ」でw)、モンブラン山頂で同名のスイーツの早食いとか、何でもやりだすのでしょうな。他人のロマンの相乗りか、悲劇や苦難の疑似体験で手軽にスッキリ感動したい人々がいる限り、商売安泰ですね。

もしも筆者が大富豪になったら、七大陸最高峰の頂上への超安全ハイキングルートを整備して、世界中の少年少女ならびに自称冒険家の夢をぶち壊してみたいですwそれは妄想だとしても、どなたか手始めに、是非富士山頂までのロープウェイを引いていただきたいと思います。

下々の者が「俺らは社会への影響力ゼロだもんね」と割り切ると、上々の者は非常に困るんだな

2013年03月12日 | その他の雑談
「選挙では必ず投票に行きましょう」とか、「自分の意見を持ちましょう」とか、「身近な問題に関心を持ちましょう」とか、「皆で世の中を少しでも良い方に変えましょう」とか、白々しいにもほどがあるご忠告をとかく口にしたがる御人が後を絶たない。しかも、そういう御人は大概、社会で一定のステータスを確保している幸せな方々ばかりである。

すでに中年になっても何の権限もなく、めぼしい資産もなく、ささやかな自由もない筆者は、「社会的影響力ゼロ状態」の自分をあるがままに受入れる境地に達しており、そうした白々しいセリフは、恰も流れゆく風景の如く、筆者の意識に上ることさえないまま、空気の振動という物理的現象としてやがて静寂へと収束していく。筆者のような下々の人間は、遅かれ早かれこんな境地に達し、意識しようとしまいと皆同様に、日々をあきらめつつ、いい加減適当に、恙無くやり過ごしているものだ。

だが不思議なことに、上々(?)の方々は、そんな下々の者の生き方が本当に気に食わないようだ。自分たちのフレンドリーな忠告が馬耳東風だと気付くと、松岡修造のように「あきらめるな!!!」と暑苦しく励ましてくるぐらいならまだしも、時には罵声さえ浴びせて来ることもある。やれ「無責任」だの、「敗北主義」だの、「利己主義」だのといった具合だ。ゴミ同然の下々の連中など無視して、ハイソでセレブで2.0(笑)な方々だけで盛り上がっていれば良いではないか、と思うのだが、是が非でも下々の者を鼓舞、叱咤激励したいらしい。

そんな上々の方々の考えることは、頭の悪い筆者には理解しかねるものだと思っていたが、最近ようやく理由が分かった。世の中で一定の影響力を持っている方々というのは、「自分は社会に対して何の影響も及ぼすことができない」と割り切っている人間が大嫌いなのだ。その理由は少々逆説的だが、影響力を持っているはずの上々の人は、影響力ゼロを割り切っている人に対して、全く何の影響も及ぼすことができないからなのだ。

「自分は社会に何の影響も与えられない」という考えの持ち主は、あらゆる外部の変化を不変の「所与」として行動する。そこに、自分の意志や力が反映されることは絶対にないことを予め理解している。そのため、影響力のある方々と同じ土俵に上がることは決してないのである。結果、影響力のある人間が勝手に決めたことに対しては、まともに向き合おうとせず、「抜け道」「盲点」「逃げ方」を常に探すようになるのである。立派な方々にとって、こういう下々の者の行動は、最も許し難い挑発だろう。

たとえ話をしてみよう。上々のお歴々が、道路を造り、線路を敷き、立派なバスや電車を走らせることにした。さあ工事が終わり、インフラが完成した、これから通行料や運賃をガッポリぶんどってやろうと思ったら、筆者のような下々のへそ曲がりが、全く遠出しようとせず、けもの道を自転車で走るだけだとしたら、腹が煮えくり返るのも無理はなかろう。彼らとしては、「自宅から駅までが遠い」「渋滞や混雑がひどい」「運賃や料金が高すぎる」といった、さも低能が訴えそうな「想定の範囲内」の苦情が来るのを手ぐすね引いて待っているのであって、「問題の対策及び状況の改善」という口実で、バカな底辺の連中をさらに嵌めてやろうと思っているのである。

筆者のような「影響力ゼロ肯定者」は確実に増えている。とは言え、別に積極的に増えている訳ではない。仕方がなく、そういうある種の諦観に行きついただけである。上々の方々が自らの影響力保持に汲々としていて、哀れな下々の人間にはおこぼれさえ絶対分け与えようとしないのだから、当然の帰結である。その結果、そうして死守した影響力が、全く通じない層が増えてしまうのだ。上々の方々が大好きな「自己責任」というやつである。せいぜいのたうちまわってほしい。そう言えば、そろそろ春のそよ風が心地よい季節だ。

不祥事を起こした者の復活で組織の実力がわかる。

2013年01月03日 | その他の雑談
チノパンとかいうフザけたあだ名の女子アナが、交通死亡事故を起こしたらしい。犠牲者の方のご冥福をお祈りいたします。

幸せをつかむ言葉の習慣
千野志麻
メディアファクトリー


さて、この血のパン、いや、チノパンだが、しばらくしてほとぼりが冷めたら、間違いなく復活するだろう。きっと何食わぬ顔をして、グルメレポートでもするのだろう。復帰後にKYの芸人が事故の話だとか、例え関係ない文脈でもドライブの話などを振ったりすれば、逆にテレビ界から干されることになるだろう。

いつも思うのだが、日本の組織は構成員や関係者(元主要構成員含む)が不祥事を起こすと、不祥事を起こした者を復活させることに威信をかけて全身全霊で取り組むようである。他方で「トカゲのしっぽ切り」という言葉もあるが、むしろそうした扱いに対する社会としての嫌悪感がよく表れている。

そして、その組織の実力に応じて、不祥事を起こした関係者の復活度合いが決まる。その際、不祥事の罪の重さは復帰の程度に左程関係ないような気がする。大手芸能事務所の売れっ子タレントであれば、刑事事件で逮捕されようと、ドラッグでマンモスラリっていようと、ほぼ確実に復帰できる。政界でも政権与党なら多少の不祥事は武勇伝ぐらいの扱いで、その後あっさりと要職に復帰している例は枚挙に暇がない。会社や役所でも、巨大で強力な組織であればあるほど、見かけ制裁を受けたようでも、忘れられたころには世間様が気付きにくい目立たないところで美味しいポストに鎮座ましましている(自分でも思うが、よくもまぁこういう表現が自然にでてくるようになったなwww)。

組織としての実力を見せつけるために、「ウチの者」が世間を騒がした時こそが正念場なのだろう。「ウチ」の者がつぶされれば、それは組織の弱さと見なされてしまうのだ。

更に言えば、人間であれば意図しようとしまいと、誰しもが不祥事を起こす可能性があるのは否定できない。組織に必死にしがみつく以外に生きる術のない日本人にとって、不祥事如きで組織から切り捨てられれば、それは死ねと言われるのと同じである。不祥事を起こした仲間を見事に復活させることで、自らが似たような轍を踏んでしまったときの予防措置を講じているのだろう。

さて、件の痴のパン、いや、チノパンであるが、背後の組織の実力を鑑みれば、最近、威信をかけて作った番組の視聴率が悉く低迷しているとは言え、犠牲者と示談に持ち込むぐらい容易いことであろう。傷害事件程度であれば、人の噂の賞味期限である七十五日も過ぎればあっさり完全復活であるが、今回は死亡事件である。思うに一周忌ぐらいが相場感ではないだろうか。

宮迫博之氏は究極のネタを手に入れてしまった。

2012年12月10日 | その他の雑談
現代の日本人が最も恐怖を感じているものは何か?

大地震と津波?
北朝鮮のテポドン? 
中国の反日暴動? 
原発事故と放射線? 

どれも全く比較にならない。それほど恐ろしいものがある。他でもない、癌である。癌こそが、日本人が最も忌み嫌い、徹底的に恐怖し、あらゆる手段で逃れようとする(無駄だが)、悪魔の病気である。どれほど早期発見であっても、一瞬であれ死神が枕元に立っていたという現実に、絶望の淵にたたき落とされるのだ。

宮迫氏をめぐる変に生温かい、妙に腰の引けた、気色悪いマスコミの報道を見ていて、ふと思った。
彼はお笑い芸人としては、余りに重すぎるネタを背負ってしまったのではないか、と。
だからこそ、本人も事務所も当初は病名を隠していた。しかし、隠していたからこそ、すぐに明らかになってしまった。日本人にとって必死に隠さねばならない病気など、ただ一つしかないからだ。

日本人にとって、癌は恐ろしすぎる。日本は清潔で伝染病もなく、戦争も半世紀以上ない。時折災害や地震その他の天変地異でまとまった数の日本人が死ぬことはあるが、全体からすれば微々たる人数で、その内「運が悪かったね」ということで、やがて確実に忘れられていく。大量の日本人が無差別、問答無用かつ理不尽に殺されていく原因は、最早癌ぐらいしかないのだ。

そんな日本人が、いささか異常なシンパシーとともに彼を見つめている。「早期発見で治る可能性が高い」と言われているにも拘わらず、宮迫氏が既に全く違う人生を歩み始めたかの如き珍妙な報道が続いている。もっと絶望的な難病に苦しんでいる人間は5万といるのである。さらに言えば、決死の覚悟で除染や原子炉の冷却に取り組む東京電力の作業員や、ならずものの中国人から命がけで尖閣諸島を守っている海保の皆さん方の安否には全く無関心な日本人が、宮迫博之という、それなりに売れてはいるが、たかが一お笑い芸人の身の上を固唾を飲んで見守りつつ、病状を案じている。

「もう冬やな~( ̄ー ̄)寒いわ~ 温泉とか行きたいな~ イヌもう一人かいたいな~ 時計欲しいな~ カレー食べたいな~ マッサージ行きたいな~ サッカーしたいな~ よしッ生きよう(^O^)/」(癌患者談)

手術前の彼のツイートである。どうだろう。癌恐怖症の日本人のあなたには、(癌患者談)という筆者の勝手な付けたしを見た途端、このツイートが胸にグサリと突き刺さり、彼がつぶやく日常のたわいもない気持ちをつづる言葉が、妙に輝いて見えたりはしないか。そうした有難迷惑な同情を振り払うべく、彼が必死に軽いノリでつぶやいているにも拘わらず。

宮迫氏は復帰後、これまでと同様に芸人として笑いをとるのは難しいだろう。今後、彼のやることなすことすべてに(癌患者談)という但し書きがつくからだ。望まなくとも彼のこの先の人生は、「不運にも健気に生きる悲劇のヒーロー」としての文脈で見られることだろう。体を張ったドタバタ芸をしても、視聴者に痛々しさを感じさせてしまうだろう。自虐ネタ的に病気を持ち出しても、「心配させまいとする気配り」として逆に変な感動を呼んでしまうだろう。終いには、彼(癌患者)が放つネタは、とにかく笑ってあげないといけないのだという、妙な空気が醸成されることだろう。お笑い芸人としては、とんでもないハンデではないだろうか。「普通に笑いを取れない」ことで、とてつもなく苦悩することになる予感がする。

とはいえ、お笑い芸人という枠組みを超えて、芸能人としては究極の上ネタを手に入れたといえるかもしれない。癌に怯える世間は、一足先に悪魔に取りつかれてしまった彼のことが頭から離れないのだ。テレビから僅かな期間でも消えれば、彼はどうしたんだ、何かあったのか、と騒ぎになるのは間違いない。そう言えば、彼はNHKの大河ドラマでそこそこ良い演技をしていたはずだ。死にゆく運命にある英雄の役を演じたら、傑作と謳われるのではないか。例え完治していたとしても。

冷酷無慈悲な死神に取りつかれつつも、どんな生き方が可能なのか。どこまでもおバカで平和ボケの日本人は、彼のお笑いネタなんかよりも、死と隣り合わせに生きることのお手本を欲しがっているのだ。そのようにして、宮迫氏を「あちら側」の人間と見なし、死は何時でも誰にも訪れ得るという当然の事実を忘れたがっているのである。病気の芸人を無神経に笑い飛ばすよりも、何やら遥かに残酷な気がする。

パナソニックが痛すぎる件

2012年12月05日 | その他の雑談
ブルーレイレコーダーを買った。ブルーレイなど全く見たくもないが、テレビの内蔵HDで録画したものをDVDに落とすためである。
そこで、
①テレビの内蔵HDからLANダビングできる
②その他余分な機能は一切不要(チューナーも1個で足りる)
③それなりに名の知れたメーカー
④最安値
という身もふたもない基準で商品を物色した。

その結果、選んだのがこれであった。↓ 2月発売の型落ちモデルで、価格は3万円を切っていた(※筆者が買った時点で)。

Panasonic DIGA HDD搭載ハイビジョンブルーレイディスクレコーダー 500GB ブラック DMR-BRT220-K
パナソニック


ところが、何とこれがアマゾンで売り上げ1位www 全然人気など度外視で選んだのに。ひょっとして、皆考えることは同じですか。上位モデルや新製品なんて誰も見向きもしないと。そりゃ、パナソニック大赤字になるわ。思えば、HD-DVD陣営との壮絶な規格戦争に打ち勝った挙句、このザマとは・・・

そういえば、近頃のパナソニックはスマート家電とか、どう考えても売れるわけなさそうなものに社運をかけていて悲壮感が漂っている。製品のレベルがクソだとすれば、マーケティングは放射性廃棄物以下だろう。そもそも宣伝している女優に全く生活感がない。この女、どう見ても家事なんか一切してないだろう(この青いお洋服は何ですかwww)。全国の主婦から反発を買わないだろうか。

そもそも家電に「スマート」など、馴染みようのない概念だ。カッコよくスマホを指でナデナデした後、実際にはどのような仕事が待っているか知っているのだろうか。子どもの汚い手で触りまくってベトベトな液晶テレビの画面を懸命に磨いたり、掃除機にうっかり吸い込んだ子どもの小さいオモチャをほこりまみれになりながら探すはめになったり、炊飯器の余った飯を無駄にしないようタッパに詰めて冷凍したり、冷蔵庫に入れたまま賞味期限が切れてしまった食品をいささかの罪悪感とともに処分したり、油ものを調理した後のオーブンレンジの頑固な汚れを拭きまくったり、それはそれはスマートでもなんでもない作業が怒涛のように押し寄せてくるのである。

ちなみに、高機能の家電は外国では全く売れない。何故か? 少々金持ちになると、家政婦に家事をさせるためである。家政婦のためにわざわざ高価で便利な家電をそろえる心の優しい金持ちなど、世界には存在しない。一流大学出の超エリート正社員のパナソニックの皆様が、まさかこんなこともご存じない訳はありませんから、このスマート家電とやらで世界展開するつもりは毛頭ないと考えるべきだろう。しかし、スマートでも何でもない主婦はこんなもん絶対買いませんから、国内の誰に売ろうとしておられるんですかね?

まぁ、どうでもいいですけどね。トコトン迷走してくださいwww ありとあらゆる自慢の製品が、売れないまま次々と型落ちになって、たたき売り状態でモッテケドロボーということになったら、また何か買ってみようかなとちょっとばかし考えてあげてもいいですよ。

「アゴラ」に取りあげられたwwwww

2012年09月22日 | その他の雑談

更新もしていないのに、アクセスカウンターが通常の3倍に跳ね上がっていた。

嫌な予感がした。大体こういうときは、どこぞやのSNSで話題にされた挙げく、「中二病」だの「死ね」だの、素敵な読者の皆さんから温かい励ましのメッセージがたくさん寄せられるのが常である。

と、思ったら、今回は全然違っていた。原因は何とココだった!
アゴラ「日本は誰が守るのか」 

いやー、恐れ多くも池田信夫大先生が主催してらっしゃる、言論プラットフォームじゃないですか。ネット界のみならず、各界の新進気鋭のオピニオンリーダーの方々が、それはそれは知的な議論を戦わせていらっしゃる、あのアゴラで、このようなみすぼらしい弱小ブログを取りあげていただけるとは!

しかし、せっかく取りあげていただいたエントリのタイトルが、コレwwww
東日本大震災の最大の教訓「木造建築はクソ」 

どうせなら、「東日本大震災から何を学ぶか~童話の教訓から見る木造建築に関する一考察」とか、ほかのアゴラ執筆ブロガーの皆さんのような、もうちょっと知的なタイトルにすればよかった…Orz




東日本大震災の最大の教訓「木造建築はクソ」

2012年09月09日 | その他の雑談
この話、知らぬ訳ではあるまい。

三びきのこぶた―イギリス昔話(こどものとも絵本)
瀬田 貞二 (翻訳), 山田 三郎
福音館書店


ヨーロッパ人が作ったこの話の教訓も知らぬわけではあるまい。

レンガで家を建てる白人はエライ、木を使う黄色人種と、草を使う黒人はクソ

大津波で木造住宅の街並みが無残に飲み込まれる衝撃的な映像が世界中に配信されたが、はっきり言おう。同情の声などない。それどころか、この童話の屈辱的な教訓から一歩も踏み出せていないクソ日本人は、世界中の笑い者である。

強度や耐久性では鉄筋コンクリートに到底及ばないのは明らかである。やっとの思いでそこそこ豊かな国となったのに、何故それほどまでに木造にこだわり続けるのか?

木造賛美派の弁明は、知能レベルが疑われるような精神論ばかりである。

①夏は高温で湿度の高い日本の気候に合っている。
 エアコンというものをご存じない? それとも木造住宅ならエアコン不要で、脱水症状や熱中症にならないと仰るのですか?

②木目は見た目が美しく、安らぎを感じる。
 だったら、内装だけ好きなだけ木材を使えばいいだろうに。可燃物に住んでるんですよ。しかも津波が来たら基礎から丸ごと浮き上がって流される。そんなお宅で安らぎとは…ちなみに、隣家からのもらい火で火事になっても、日本の法律では損害賠償請求ができず、自分で火災保険に入るしかない。何故か? 木造で家を建てるバカばかりだから、もらい火の賠償を認めたら収拾がつかなくなるのだ。

③鉄筋コンクリートの寿命はせいぜい50年。法隆寺は木造だが1000年経っても未だに健在だ。
 ほほ~、お宅は宮大工が釘を使わず材木同士の組み合わせで建てたと?

④鉄筋コンクリートに比べて価格が安い。
 まぁ、一番まともないい訳でしょうけど。35年の住宅ローンを組んで、せいぜい30年経てばゴミの塊という評価の木造住宅が、本当にお買い得ですかね? 固定資産税も安いとかほざいているバカもいますけど、その程度の評価だっていうことですよ。日本の中古住宅市場がクソなのは、ただ単に安いからといって将来はゴミ同然の木造新築に飛びつくおバカさんばかりだからじゃないのですか?

先の戦争で「紙と木の家」に住む三等人種とバカにされ、焼夷弾を雨あられの如く落とされ、街丸ごと焼け野原にされても、懲りずに木造で復興してしまった。大地震の後の津波で、まさに文字どおり「洗いざらい」家屋を流され、残ったのは鉄筋コンクリート造りの頑丈なビルばかりという光景を目の当たりにしても、やれ防波堤の再建だ、高台移転だと的外れな議論ばかりしている。「そもそも木造って、完全にオワコンじゃね?」という反省はついぞ聞かれない。

先の童話、オリジナル版はかなり残虐である。木で家を建てたブタは、家を吹き飛ばされたあと容赦なく狼に食い殺される。ところが、日本の大概の絵本では、木造ブタは慌ててレンガ造りの家に逃げ込んで難を逃れるなどという筋書きに改変されている。子どもに配慮したつもりかもしれないが、木で家を建てる自らの愚かさを直視することなく、その上いざという時はアメリカ様に安全保障を全面的に依拠するダメ日本人の精神構造を物語っていると言えよう。

ちなみにオリジナル版では、アメリカ様のようなマッチョなレンガ造ブタは、木造ブタを飲みこんだ狼をゆでて食ってしまう。結局、木造ブタは間接的にレンガ造ブタの栄養にされてしまうのだ。どれほど痛い目に会っても何ら進歩しようとしない、アホ日本人の未来を示唆しているのかもしれない。

K-POPアイドルがAKBに勝てない理由

2012年08月27日 | その他の雑談
伊勢神宮についてネットでいろいろ調べていたら、偶然面白い文章を見つけた。

江戸時代には、男子が成年に達するとお伊勢参りをする風習が、広く全国規模であった。で、サカリのついた野郎どもが集まれば考えることはただ一つな訳で、伊勢神宮の近くには参拝客を当てこんだ遊郭があったという。

ところがこの遊郭、肝心要の遊女がブサイクばかりだったらしいwww。江戸の吉原などと違い、伊勢の片田舎の遊郭に集められる遊女のレベルが低いのは、まぁ想像に難くない。そこで、一計が案じられたという。

「伊勢音頭に合わせて踊る簡単な踊りを遊女に教え、せり上がりの舞台をしつらえて、遊女の総踊りを行ない、観客の自由なる選択に任せた。」

つまり、ブサイク淫売女の集団に専用の劇場を設けて、低俗な曲に合わせて下手クソなダンスを団体で踊らせてみたのである。

すると、何が起こったか。

なんとこれが大当たりwww ブサイク女郎どもの総踊りを見てから好きな女郎を選んで買うというシステムが、何と大ウケwww
伊勢参りに「ワンサワンサ」とキモオタども、いや、「参拝客」が押し寄せたという。

拙ブログの賢明な読者諸氏には、もうお分かりであろう。これ、AKB48そのまんまじゃねえかwww しかも「せり上がりの舞台」って、あの劇場ですかwww

「格子の中でツクネンとすわっていたのでは、よほどの美貌でなければ、男の心をときめかすこ とはできないが、せり上がりで舞台に上がって踊れば、すべたも別嬪に見える。伊勢音頭のよう な低級な芸能でも、これをひけらかす者と何の芸能をも持たない売女との間には、その売り上高の上に雲泥の相違が生ずるのである」

ルックスでも歌唱力でもダンスでも、AKB48を遥かに陵駕しているK-POPアイドルが、ド素人集団のAKB48の前に人気では全く歯が立たない理由がこれで明らかになった。ビミョ~なルックスの女が集まって、低俗な音楽に合わせてヘタクソな踊りを集団で踊ることに、日本男児は至高の性的興奮を覚えるのだ。江戸時代のお伊勢参りから同じことをやっていたのだから、これは大和民族としてのエートス、いや、もうDNAレベルで刷り込まれていると言っても過言ではあるまい。

こういう我が国の伝統としての変態趣味が、「韓流売込み」というサービス貿易の非関税障壁となっていた訳ですな。次の日韓首脳会談では、是非ともこのテーマを取り上げていただきましょうか。高尚な韓国キーセン文化と、日本のド素人低俗芸能のガチンコ勝負!

いやー、犬も食わぬ喧嘩とはこのことですな。え、犬は食えるって? こりゃまた失礼いたしましたwww

「天下は破れば破れよ。世間は滅びば滅びよ。人はともあれ我が身さえ富貴ならば」

2012年06月19日 | その他の雑談

受験は世界史だったので、実は日本史にはあまり詳しくないのだが、これは天下を二分し11年も争われた「応仁の乱」の直後に記された軍記「応仁記」にある記述で、当時の人々の心を示す言葉だそうな。この名言、筆者の今の気持ちにピッタリだ。

荒んだ民心を嘆いたもの、とだけ解説されていることが多いようだけど、これって、単に利己主義とか、無責任とか、自暴自棄とか、やけっぱちとか、そんなんじゃないんだな、実は。「乱世を何としても生きぬいて見せる」という、実存主義の宣言なんだよなぁ。いやー、その気持ち、わかるわかる。

応仁の乱の頃とは比較にならないほど平和ボケの日本社会にまみれて生きる筆者ではあるけど、応仁の乱の頃の日本人と全く同じ心境に至ったということは、今もまた乱世なのだろう、その争い方は巧妙に姿を変えてはいるけどね。

本心から「自分さえよければ良い」とだけ思っているなら、前半二文は不要なんだよね。なぜ、天下世間を見捨てたかのような憎まれ口をわざわざ前置きにするのか?

腐った世の中は変わらないし、変えられない。おそらく自分が生きている間はこのままだろう。それでも結局は、腐った世間を生き抜く以外選択肢はない。生き抜かなければ、腐った世間のなれの果てを見届けてやることさえできないのだ。

日本オワタ的なエントリを連発気味の筆者ではあるが、中世の日本人に希望を見出した。現代においても「我が身さえ富貴になること」は、実際問題としてものすごく難しいが、それは腐りきった世間に対して一矢報いるための唯一の手段なのだ。