雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

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銀・銅メダルばかり集める日本代表の素晴らしさ

2012年08月06日 | スポーツの雑談
ロンドン・オリンピックも後半戦だが、8月6日現在、日本の金メダルは体操の個人総合と女子柔道の2個だけ、ところが、銀メダルを何と12個、銅メダルを13個も獲得している。更に特筆すべきは、金メダルの少なさを嘆くような論調も小さいということだ。銀や銅でそれなりに満足して盛り上がっている。

素晴らしい。漸く日本人も理解したようだ。

過去、日本人がオリンピックで金メダルを取ったり、世界選手権で目覚ましい活躍を見せたりすると、その後何が起きたであろうか? 日本人選手に極めて不利となる、理不尽なまでの競技ルールの「改正」である。

ハゲでチビで出っ歯のサルの親戚どもに、肉体的に凌駕されるなどということは、国際スポーツ界を牛耳る欧米の白人にとって、この上ない屈辱なのだ。神はご自身の姿に似せて、欧米人を御創りになられたのである。肉体労働をさせる奴隷にするため神が御創りになられた黒人に負けるならまだしも、人間の出来そこないである黄色人種に負け続けるような屈辱的な事態は、絶対に看過できないのだ。

日本人が金メダルなど取れば、欧米人に都合の良いルール変更が待っているのは確実だ。そうなれば、それまで日本人が地道に積み上げてきた努力が一瞬で水泡に帰してしまう。どうすればいいのか?

中国人はどうしたか?、欧米人が無関心を決め込んでいる競技に人的リソースを集中することにした。中国が卓球で100連勝しても、欧米人はサルの玉遊びぐらいにしか考えていないだろう。

日本はどうすべきか? 中国の二番煎じでは苦しい。相手は10倍の人口を抱える国であり、基本的人権などクソ喰らえで国家の威信を優先する国である。勝てる訳がない。

残された道は一つ。銀と銅をせっせと集めるのである。金メダルなど、気前よくくれてやればいいのである。すばらしい。これなら欧米人の面子が保たれ、ルールも現状のまま維持されるだろう。

思えば、世界のトップたらんとして、欧米人に理不尽に叩き潰されてしまったというケースは、スポーツ以外にも溢れていないか? 自動車に半導体、第二次世界大戦でさえ、実はそうなのではないか?

拙ブログの常連(そんな奇特な方がまだいるのだろうか…?)ならわかっていただけると思うが、かなり昔に、敢えて二位を狙う営業部長の話に関するエントリを書いた。身分不相応な勝利を得ても、その風当りや副作用は激烈で、要らぬ恨みや反発を買ってしまったりする。自分たちは所詮二流国家(企業)の三流民族(社員)に過ぎないと謙虚に認め、いわば何時でも捨てられ得るゴミ同前の存在なのだというシビアな認識の下で、その中で何とか生き残りを探るという、中小企業の営業部長の境地に、日本人はやっと達し始めたのだ。

はじめから、欧米人には所詮サルとしか見られていないとわきまえていれば、あんな惨めな状況を繰り返すこともなかったのだ。「金メダル候補の実力の持ち主」との前評判で騒がれながら、狡猾にわざと銀メダルを集め続ける我らが日本代表に、久しぶりに明るい希望を見た。ようやく時代が筆者に追い付いてきたようだ。感無量である。

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松井秀喜はオワコンです。

2012年05月21日 | スポーツの雑談
マイナーで四苦八苦する過去の大打者、オワコンの松井に向けられる妙に温かい眼差しが気持ち悪いっす。

「ヒデキはまだやれる」という、元同僚らの社交辞令を真に受けて大真面目に取り上げてみたり、マイナーのクソ試合での結果がやたらと詳しく報じられたり、「マツイの復活を信じている!」みたいな、アホ丸出しのおべんちゃら解説がウジのように次々と沸き出てくるのは何なんでしょうね。もう終わった選手として、むしろ徹頭徹尾無視して差し上げるのが、かつての大打者に対するせめてもの礼儀ではないかと。

彼らの本音は、わかっちゃいるんですけどね。テレビ局やスポーツ紙にとって、彼の商品価値が下がっちゃうのが一番困るわけですよ。だからマイナー契約が決まるまで、日本球界復帰待望論みたいなのが延々とタレ流されてた。それだと実力がガタ落ちでも、日本での商品価値は落ちないから。日本に帰ったって、きっと統一球は打てないでしょうね。それでも、「若手選手に対する刺激など、数字以外での貢献面が大きい」とか、バカ丸出しのフォローを入れまくるんだろうなw

メジャーに残れず、マイナー行きになった段階で、松井なんてもう本当はオワコンなんですよ。マスコミの皆さんは歯ぎしりして困っているんでしょうね。視聴率の取れるスーパースターが、このまま醜態を晒し続けていれば、彼のカリスマはどーなる、価値が目減りしてしまうじゃないか、なんとか復活してくれ、こんなに取り上げて応援してやっからよ…、メジャー昇格に失敗しても、せめて来年からは日本球界に復帰してよ、それまでは追っかけちゃうから…

そんなマスコミに乗せられる、一般視聴者の側もバカばかりな訳ですが、それでも何でそんなダメゴジラが気になっちゃうのか。同世代だからわかるんだけど、皆、彼を未だに悲劇のヒーローだと思っているんだよな。そう、あの甲子園での5打席連続敬遠。あれがすべてなんだよね、魅力あるコンテンツとしての松井の源泉は。

「5打席連続敬遠という暴挙(一体何が悪いんだかw)の被害者にして、それにもへこたれず大打者として開花したヒーロー」なんだよな、未だに松井って。日本人ってば、本当に被害者びいきなんだよね。まさに被害者の楽園。やられた者勝ち。本当に反吐がでますな。メジャーに無視されたことさえ、きっと「不当な低評価」とか、そんな文脈なんだろうね。「見返してやれ!ヒデキ!」とか。もういい加減、勘弁してあげたらどうですか。あんたたちがそういう歪んだ精神のまんまだから、松井は例え大金もらえるとしても日本に帰ってくるのがイヤなんじゃないのw

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松田直樹と伊良部秀輝の悲劇は似ている

2011年08月05日 | スポーツの雑談
片や急性心筋梗塞、片や自殺である。だが、競技を深く愛しすぎてしまい、最早そんな自分を変えられない不器用な男たちの悲劇に見える。

己の人生のすべてをかけられるものを見つけた喜び。更にその才能にも恵まれていたという幸運。多くの人々の喝采を浴びた激烈な成功体験…

そんな至福の一時を味わったアスリートたちにも、肉体の衰えは容赦なくやって来る。過去の栄光が輝かしければ輝かしいほど、第二の人生の日陰が耐えがたいものになるだろう。裏方、指導者、解説者、タレント……こんな選択肢も、スター選手としての栄光に比べれば、余りにも空しい余生としか映らないだろう。

「オレ、マジでサッカー好きなんすよ」という、マリノスを去る松田選手の魂の叫びが、こういう残酷な結末の後では、悲しくも痛々しく聞こえてしまう。

そして、「サッカー知らない人もいるけど……」と言いかけて、結局「サッカー続けさせてください」に戻ってしまった。

栄光の後に彼が踏み出すべきだったのは、まだまだ多くの「サッカー知らない人」たちと向き合うことだったかもしれない。だが、彼はその文脈を急に変えてしまった。やはり、サッカーの只中に居たかったのだろう。そして彼は希望通り、最期までピッチで逝ってしまった。歩むべき道を感じていたというのに……

伊良部選手も、野球と関わる全ての道を閉ざされ、自ら命を絶ってしまった。野球しか知らない、野球だけを一途に愛した男だからこそ、残りの人生は「野球を知らない人々」と、全力で向き合って欲しかった。

お二人の御冥福をお祈りします。

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八百長は「あ・うんの呼吸」でやるもの。

2011年02月05日 | スポーツの雑談
相撲の八百長で再び世間は大騒ぎだ。八百長けしからんというオーソドックスな意見から、談合だらけの日本社会では八百長は最早文化だとか、百家争鳴だ。筆者は、事前にメールであれこれ調整しないと八百長できないような、力士のレベル低下が問題を引き起こしたと見ている。

例えば、千秋楽。既に勝ち越しを決めている力士の対戦相手が、7勝7敗の成績だったとしよう。どうするか? 言うまでもない。相手に頼まれずとも、八百長の仲介役に言われずとも、絶妙な取り口で負けてやるのである。そして、勝ち星を譲り、窮地の相手を救ってやる。

勝ち星を譲られ、辛うじて勝ち越した力士も、当然相手がわざと負けてくれたことを自ら悟る。そして、口外することはなくとも、その恩を決して忘れない。土俵の内でも外でもよいから、巧妙に何らかの形で、かならず恩返しする。恩返しされた力士の方も、例え例の取り組みから既に10年が経過していても、「あ、あの時の恩返しだな」と察知し、一件落着。何の証拠も残らない。めでたし、めでたし、となる。

ヒール役の史上最強外国人力士がいたとしよう。誰から頼まれずとも、自然と空気を読み、「あ・うん」の呼吸で自分が負けるべき時を理解し、人気の日本人力士にコテッとやられてしまう。これこそが、某外国人力士が引退に追い込まれる最後の日まで、決して理解できなかった「品格」というものだったのである。

思えば、日本人は皆そうやって生きている。貸し借りの帳尻合わせをメールやら談合やらでわざわざ話し合わないとできないのは、みっともないとされるだけだ。八百長が、遥か昭和の昔からあったのは間違いあるまい。ただ、誰に言われることもなく、「あ・うん」の呼吸で八百長が成立しなくなってしまったのは、そうした「美しき日本の伝統」が滅びつつあることを示しているのだろう。

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横綱相撲が国を滅ぼす。

2011年01月25日 | スポーツの雑談
「横綱相撲」という言葉がある。相撲以外のスポーツでも、正々堂々と、正攻法で、見事な勝利を収めた場合に、それを称える言葉として使われる。日本人は、ただ勝つだけでは気に入らないらしい。美しい「勝ち方」が大好きなのである。

それで、何が言いたいかというと、そう。筆者の性根のひん曲がり振りをご存じの読者なら、もう察しがついたことと思う。何を隠そう、筆者は横綱相撲が大嫌いである。相撲で言うと、白鵬は、あまり好きなタイプでない。何といっても朝青龍が好きだった。型破りの強さを誇った彼が、「横綱にあるまじき態度」を理由に追放されたのは、なにやら示唆的だ。

この「横綱相撲信仰」、相撲やらスポーツにとどまらず、現代日本人の深層心理にまで入り込み、恐ろしいほどの強力なイデオロギーとなっている。たまたまの運の良さや奇策、とっさの機転で、奇跡的に修羅場を上手く乗り切った人間を見つけては、舌舐めずりしてやって来て、偉そうに説教したがる輩が後を絶たず、本当にうんざりさせられる。

身近な仕事を例にあげると、発注や在庫管理のトラブルを、筆者が土壇場で辛うじてカバーしたりすると、日本の本社からやってきたお気楽な出張者が得意げに、「そもそも、そういうトラブルが発生しない体制作りを日頃からしておくべきだったのだ。」と説教を垂れてくる。

ここ、中国で仕事をしていると、トラブルなど日常茶飯事である。規則はあってないようなもので、金と権力を持っている人間の考え一つですべてが決まる。事前の予測など出来るわけもない。日々出現する新手のトラブルを、如何に最小限の被害で食い止めるか、七転八倒の毎日だ。

ところが、日本人は、中国に来てまで「横綱相撲」を取ろうとするのである。ご丁寧にチョンマゲを結って、マワシを締めて、汚いケツを晒して、見合って見合って、はっきょいのころうとする。相手は中国人である。塩をまいたり、立ち会ったりしてくれるとでも思っているのだろうか。そんなことをしていたら、後ろから青龍刀でブッた切られて、一巻の終わりである。

どいつもこいつも、何でこんなに「横綱相撲」が好きなのか、とよくよく考えてみるに、実のところ、誰も本気で戦う気などないのだということに気がつく。殺すか殺されるかの真剣勝負に、「横綱相撲」で立ち向かう馬鹿はいない。今日負けたら、死ぬだけだ。「明日の取り組み」はない。どんな汚い手を使おうと一撃必殺で、容赦なく相手を仕留めるしかない。

海外でそんな修羅場に立たされる人間にむかって、国内で安穏としている人間が恥知らずにも「横綱相撲」の大切さを説く。要は暗に「美しく死ね」と言っているようなものだ。これが、世界のあらゆる分野で日本が劣化している原因じゃないかと、最近特に思う。

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箱根駅伝の繁栄とラグビーの凋落

2011年01月08日 | スポーツの雑談
箱根駅伝をめぐるエントリについては、賛否両論、大きな反響があった。箱根駅伝の異様な盛り上がりを思う時、実のところ、筆者にはもう一つ頭に浮かぶスポーツがある。それは、無残なまでに人気が凋落してしまったラグビーである。

今の若い世代は知らないかもしれないが、筆者が若かりしころ、具体的には1990年代まで、日本でもラグビーの人気はものすごいものがあった。今の20代には、おそらく信じられないだろう。大学ラグビーの早明戦のチケットは入手困難なほどで、国立競技場が超満員になったのである。

社会人ラグビーも、神戸製鋼が7連覇していたころが黄金期だっただろう。神戸製鋼の平尾誠二は、ラグビー界にとどまらない、日本スポーツ界を代表するカリスマだった。当時の日本ラグビー界が誇っていた輝きと注目に比べれば、今は見る影もない。

なぜ、こうなってしまったのか。そう、箱根駅伝のエントリを既にお読みいただいた、カンの良い読者は、もうお気づきだろう。国内だけで安穏とし、繁栄を謳歌していた日本ラグビー界に、グローバル化という黒船がやってきたのだ。

1987年から、ラグビーのワールドカップが始まった。これにより、否が応でも日本ラグビーというものが、内弁慶というか、井の中の蛙に過ぎない状態にあることが、白日のもとに晒されてしまったのである。それまでの日本人は、社会人の王者と、大学の王者が戦う全日本選手権こそが、最高の舞台と思っていた。ところが、その最高の舞台を争った伝説的ラガーマンたちにより構成された日本代表が、海外の強豪国の代表と戦うと、何と「100対ヒトケタ」というような、余りにも無残な惨敗に見舞われ続けたのである。

手に汗を握り試合の行方を追い、あれほど熱狂的な応援をささげた、選りすぐりのラガーマンたちによる我が日本代表が、100対ヒトケタ…… 調子のいい日本国民は、あれほど持ち上げた日本ラグビー界を、もはや叱咤激励する気力さえ失い、競技への興味そのものを失ってしまった。

ラグビーがグローバル化の波に襲われなければ、きっと今の箱根駅伝のように、日本人の、日本人による、日本人のための祭典として、今尚それなりに楽しまれていたのだろう。そういう国民的な風物詩を一つ失ってしまったことは、グローバル化による悲劇というべきなのだろうか。

いや、筆者はそうは思わない。ラグビーという競技が今のルールのままで争われる以上、戦術や技術以上に、体格から来るパワーとスピードが圧倒的に重要な要素であり、所詮、今の日本人の体格では世界と戦える競技ではない、ということが明白になったことは、極めて重要なことだと思う。そのお陰で、高い運動能力を持つ貴重な才能を持った日本の若者は、世界に通用する野球やサッカー、ゴルフといったスポーツに流れていったと思うのだ。

箱根駅伝という、正月の華やかな一大祭典を楽しむことができる日本人は、それはそれで幸せなのかもしれない。しかし、ローカルでしか通用しない競技に多くの貴重な才能がつぎ込まれていくことで、日本陸上界、いやスポーツ界全体として、大きな損失を被っていると言わざるをえない。

グローバル化の波は、避けて通れるものではない。箱根駅伝が、いつまで幸せな時代を謳歌し続けられるのか。筆者個人の考えでは、そうは長くはないのではないかと思っている。

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ダメ日本の縮図、箱根駅伝

2011年01月02日 | スポーツの雑談
たまに世界で活躍する日本人が出ると、マスコミが大騒ぎし、国を挙げて狂ったように熱狂する。この現象は、海外で通用する日本人が少ないことの、コンプレックスの裏返しである。ところで、サッカー・ワールドカップやオリンピックに熱狂する日本人が「箱根駅伝」も大好きなのは、一見極めて奇妙なことだ。

「駅伝」は、和英辞典を引くと「ekiden」という単語が載っている。日本発祥といえば聞こえはいいが、実際のところ日本人以外に誰も関心をもたないマイナー競技だ。懸命に走っている方々に特段恨みはないが、競技自体は何ら見どころがなく、実につまらない。要は足が速いやつを揃えているかいないか、個々の選手のコンディションがどうか、勝負の行方を左右する要素はそれだけである。テレビ局もそれがわかっているので、無理やり盛り上げようとクサイ演出に走る。タスキがつながるとかつながらないとか、シード校になるとかならないとか、ケガを乗り越えて力走したとか、選手時代の悔しい思いを監督やコーチとして挽回したとか、クソOBやアホ先輩の無念の思いを晴らすとか、ヘドが出そうな陳腐極まりない人間ドラマばかりに焦点をあてたがる。「山の神降臨」とか、ジブリのアニメでもあるまいに、全くバカじゃないかと思う。

更に言うと、箱根駅伝は、関東の大学だけが参加するローカル大会に過ぎない。しかし、日本の学生長距離ランナーにとって、最大の目標である。何と、箱根駅伝に出るために関東の大学に入学し、青春のすべてを箱根駅伝にかけるのである。オリンピックや世界選手権の長距離種目で頂点に立つことは、彼らにとってたいして重要でない。海外のリーグやワールドカップという究極の目標がある野球やサッカーと比べると、本当にチンケとしか言いようがない。近年、男子のマラソン選手にろくな人材がいないのは、箱根駅伝での燃え尽きが原因という見方もあるぐらいだ。しかし、何だかんだ言っても、箱根駅伝はサッカー天皇杯に匹敵する、正月の最大のスポーツイベントなのである。

この箱根駅伝の盛り上がり、グローバル化に対応できないダメ日本の象徴、そのものである。日本人だけが走り、日本人だけが観て、日本人だけが大騒ぎする大会。どこの馬の骨ともわからぬアフリカの留学生が走ってみると、だいたい驚異のゴボウ抜きとなるあたり、競技の程度が知れるというものだ(ふつうはそれで興ざめするものだが)。人生のすべてを懸けて挑んで勝ったところで、残るのは奇妙な自己満足だけだ。友人や親せき縁者、狭い地元の人間にチヤホヤされるのが関の山である。強いて言えば、就職活動の時に体育会系大歓迎のバカ丸出し企業の面接官には好印象かもしれない。空虚な競技会に青春のすべてをかけられるのだから、社畜として飼いならすにはうってつけの人材である。しかし、せいぜいそこまでだろう。アメリカ人や中国人に「オレは箱根駅伝のチャンピオンチームの一員だったぜ」と威張ってみても、だからなんだと言われるのがオチである。

役所でも、会社でも、学校でも、日本人は皆死に物狂いで努力している。そのことに間違いはない。しかし、肝心の戦いの舞台が、それぞれの業界の「箱根駅伝」でしかない。そして、そのことに薄々気づいていても、「箱根駅伝」しか視野に入れようとしない。こういう新年早々明けましておめでたい国が、国際競争に負けて没落するのは必定である。


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「それは…、仲間です!」orz

2010年11月04日 | スポーツの雑談
「いろいろな人から『斎藤は何か持っている』といわれますが、きょう確信しました。それは…、仲間です!」
早稲田の斎藤佑樹投手の発言が、あちこちで感動を呼んでいるようだ。

筆者も、斎藤投手には「何か持っている」ような気がしていたのだが、「週刊少年ジャンプ」のヒーローのような古色蒼然とした発言に、猛烈にガックリしてしまった。天才アスリートかもしれないが、やっぱり22歳の男の子に過ぎないようだ。

明らかに「何ももっていない」筆者ではあるが、彼のような「何か持っている人」に、こんなつまらない発言をしてほしくなかった。彼の言う「仲間」とは、その圧倒的多数は、筆者と同様の「何ももっていない人」であるのは間違いない。
でも、彼はあっさりと「何も持っていない」凡庸な「仲間」のところに降りてきてしまった。それが残念でならない。大学とは、最早そういう場所に成り果てたのだろう。この先、彼は自分が誇る「何も持っていない」、はっきり言って「仕様もない」仲間たちに、終生足を引っ張り続けられることだろう。

「何か持っている人」は、持っているが故の孤独感、苦悩、理想、そして使命感を抱え、前人未到の境地を切り開くべく戦ってほしかった。そのような意味でこそ、サッカーの本田圭佑選手は、ワールドカップの試合で「僕は何かもってるかな」と発言したのだ。事前に誰もが予想しなかった日本代表のベスト16を実現し、一躍英雄になった後も、くだらないテレビ出演のオファーを全て拒否した。本田選手は「持っている」者としての自覚と責任に目覚め、孤高の道を歩み出したのだ。取るに足らない「仲間」との馴れ合いは、遥かなる高みを目指すのに邪魔でしかない。

斎藤投手は、「持っていたはずの何か」を、早慶戦の勝利ですべて使い果たした、あるいは、自ら投げ捨てた。そんな気さえ感じさせる、ガッカリ発言であった。

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スポーツは道具の性能にどこまで依存して良いか?

2009年07月30日 | スポーツの雑談
世界水泳で、新型の水着が威力を発揮している。新型の水着を着用した無名の選手が自己記録を大幅に短縮し、世界新記録を出したりしている。余りに効果が高過ぎるので、国際水連は今後、一定の規制を課す方針だという。

だが、競技に使用する道具の性能レベルが、勝負に余り影響しないスポーツというのは、ちょっと考えにくい。一見、道具に頼る必要が余りなさそうなスポーツに思える水泳でさえ、水着が極めて重要なファクターであることがわかってしまった。陸上競技ならスパイク、球技ならラケットやボールの性能が、勝負の行く末に大きな影響を及ぼすだろう。ゴルフクラブやテニスラケットなどは、これまでに大変な技術革新を経てきたはずである。重要なのは、いったいどこまで道具の性能に頼ることを良しとするか、その判断基準である。

結局、選手が平等で公平な条件の下で競技できるか、道具の性能が勝敗に決定的な影響を与えてしまわないかどうか、この辺りがメルクマールなのだろう。まぁ、妥当で常識的な判断基準ではあると言ってよい。

しかし、毎度のことで恐縮だが、へそ曲がりの筆者は、それだけでは面白くない。不満である。スポーツマンシップに則り「正々堂々と戦う」ばかりでは、退屈にすぎる。ルールの盲点を突き、それまで誰も思いつかなかった手段や道具を編み出し、呆気にとられる周囲をよそに、楽々と勝利をかっさらっていく。そんな選手の登場を期待してしまうのである。

ソウル五輪における鈴木大地の予想外のバサロキック、イアン・ソープが着用した全身タイツのような水着は、強烈なインパクトを残した。そういえば、バタフライという泳ぎは、元々は平泳ぎのルールの盲点をついて編み出された泳法だという。

水泳以外でも、スキージャンプにおける「V字飛行」、走り高跳びの「背面跳び」、スピードスケートの「スラップスケート」など、それまでの常識を超えた方法を編み出し、周囲の度肝を抜くような予想外の大勝利を収めるのを見るのが痛快である。びっくらこいた競技団体のお偉いさん方が、慌てて新たなルールをこさえて規制強化に乗り出すのも滑稽に見えて面白い。

スポーツ用品メーカーの開発担当の方々は、新たなルール制定による規制強化とのイタチごっこに挫けることなく、今後もルールの盲点を突くような道具を次々と生み出してほしい。選手の皆さんも、思いもよらない方法によるアッと驚く大勝利を、虎視眈々と狙ってほしい。

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「世界を驚かす覚悟」って何?

2009年06月08日 | スポーツの雑談
サッカー日本代表が、最終予選の試合でウズベキスタンを破り、W杯出場を決めた。それで、アディダスが作った「世界を驚かす覚悟がある。」と記されているTシャツが大人気だそうだ。

しかし、この「世界を驚かす覚悟がある。」とは、いま一つ意図がはっきりしない。もちろん、「サッカー日本代表は次のW杯南アフリカ大会で、大方の予想を覆すような大健闘をして、世界を驚かす覚悟があるぞ」という意味なのだろう。だが、いったい誰に向けたメッセージなのだろうか。世界に向けて高らかに宣言しているような響きの割には、翻訳がついていない。ちなみに、下の方に小さめで英語がついているが、「世界を…」の翻訳ではない。写真から判読すると、

EVERY TEAM NEEDS DETERMINATION
(すべてのチームは決断を必要としている)

IMPOSSIBLE IS NOTHING
(不可能はない)

と、これまた意味がよくわからない内容である。特に前段に至っては、慢性的な決定力不足に悩む日本代表への皮肉のように読めないでもない。

「世界を驚かす覚悟」を、世界に向かって宣言しているわけではないとなると、内輪の日本人同士で、「世界を驚かすぞ!」と確認しあっているわけだ。そんな様子を見た世界の皆さんからはきっと、「そんなにもったいぶってどうするの」、「予選の段階から、さっさと世界をびっくりさせればいいじゃん」という声が聞こえてきそうだ。

仮に「世界を驚かす覚悟がある」が、字句通り翻訳されていたとしても、きっと世界の皆さん的には意味不明である。婉曲的過ぎて「いったい何をするつもりなんだ?」と思われてしまうだろう。まさかではあるが、代表選手が麻薬所持で逮捕されるとか、サポーターが暴動を起こすとか、何か不祥事を起こして世界をびっくりさせてしまったら洒落にもならない。

そんな意味不明なTシャツを着た日本人サポーターが大挙してやってくることで、世界を十分驚かせることができるのかもしれないが。

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常に全力で戦うのは正しいのか?

2009年05月31日 | スポーツの雑談
夏場所千秋楽で、千代大海と把瑠都の取組が無気力相撲であったとして、九重親方、尾上親方の両師匠を通じて注意がなされたと報道されている。相撲界は一時、八百長疑惑で揺れたことがあったが、筆者の関心はそこにはない。

ここで考えてみたいのは、常に正々堂々全力で戦うことの是非である。日本では、相撲以外の競技においても一般に、単に勝つこと自体よりも、その勝ち方にこだわるところが大きい。例えば、勝負以外の側面が重視される日本的スポーツとして高校野球があるが、松井秀樹5打席連続敬遠に対しては、激しい非難が浴びせられたことは、今も多くの人の記憶に残っているだろう。また、夏の大会は、強豪校も1回戦から予選に出なくてはならないので、弱小校を相手に全力で戦うケースが散見される。そのため、数十対ゼロでコールドゲームという、何とも容赦のない結果となりがちだ。次の試合に向けて戦力を温存しておくことよりも、たとえ弱小でも全力で戦うことが相手への礼儀である、というような理屈が語られる。各校ともエース投手は、過酷な連投が強いられたりする。

他の競技においても、勝負よりも「勝ち方」重視の姿勢は基本的に変わらない。柔道では「一本を取る柔道」が尊いとされる。しぶとくポイントを稼ぎ、時間切れまで粘って優勢勝ちを狙うようなスタイルはあまり良しとされない。ボクシングでも、KO勝ちにこだわる選手が多い。その他にもサッカーをはじめ、いろいろな競技においても、「勝ち負けはともかく、試合の内容的には収穫があった(なかった)」とコメントする(日本人の)監督が本当に多い。どうやら、自分たちの目指すプレー・スタイルが思い通りにできたか否かが、勝負以上に重要らしい。

しかし、勝ち方にこだわったからと言って、勝負に勝てるかどうかは完全に別問題である。むしろ、「勝ち方」にこだわり過ぎて、結局負けてしまった場合の是非について思考停止状態なのではないか(「自分の××(競技名)が出来たので、悔いはありません」が、万能の言い訳として用意されている)。しかし、グローバル・スタンダード的には勝負重視が当然で、勝ち方にこだわるのはほとんど無意味と見なされる。

例えば、陸上競技の予選においては、外国の有力選手は最後の数メーターを軽く流して走ったりする。これは明らかに、来るべき決勝に向けての体力温存策である。「国の代表なのだから、最後まで全力で走れ!」とバカなことを言う者は皆無であろう(日本だと言われそうなのでこわい)。より重要な将来の試合に向けて、当面の試合については敢えて全力で戦わないのも立派な戦略である。(跳躍系の競技においても、決勝進出レベルの記録を出したら、もうあとは跳ばないのが普通だ。あくまで決勝で勝つのが目的であり、予選で世界記録を狙ってもエネルギーの浪費だ。)

相撲の場合は日本の「国技」であり、勝負の結果以上に重要な伝統や価値観があるので、単に勝つだけではダメなのかもしれないが、だからと言って、そうした伝統や価値観において優れているはずの日本人の力士が、外国出身の力士の前に全く歯が立たない現実については、見て見ぬふりをしてもいいのだろうか。

「無気力」が問題視された一番では、千代大海も把瑠都も故障を抱えていたという。千代大海のカド番という事情はあったが、優勝争いには全く関係のない消化試合である。怪我の悪化の危険まで冒して、全力で戦う意義のある一番であったと言えるだろうか。

優秀なアスリートは、より大きな挑戦の舞台を海外に求めるのが当然の時代となった。古き良き日本的価値観の維持は結構だが、世界を相手に戦う以上、せめて国際的な価値観とのダブル・スタンダードを自在に使いこなすことが求められているような気がする。

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