雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

見えない読者層の開拓はウェブの独壇場

2009年07月31日 | ウェブの雑談
城繁幸氏が、7月31日付の記事「ブログを真面目に書き始めた理由」で、「雑誌というのはそれぞれの得意分野ごとに非常に読者が限定されていて、なかなか幅広いピーアールが出来ない(幅広い読者層を持っていた情報誌はいまや絶滅状態)」と述べておられた。

雑誌に限らず、ウェブ以外の従来型メディアは、それぞれターゲットとする視聴者像なり、読者像をかなり絞り込んでいるのではないか、という気がする。コンテンツを作るうえで、ある程度のターゲット層絞込みは必要だろうが、最近はピンポイント化がものすごく進んでいるのではないかと思うのだが、どうだろう。

例えば、広くビジネスマン向けのコンテンツ、というのは成立しないので、「上場企業や名門企業(新興成り上がり系のベンチャー除く)の男性社員で、40代の管理職クラス、自宅・車持ちで、妻子あり」とか、そんな感じである。そういう媒体で、ターゲット外の若者をめぐる状況を扱うときも、メイン・ターゲット層のオッサンの視点に忠実に内容を組み立てたりする。

テレビなんか見てても、「明らかに俺はターゲットにされていないな…」と感じてしまうような作りの番組が多い。見たい人が見れば良いのであって、良さが分からない人は無理して見て貰わなくても結構、と言わんばかりだ。

幅広い層が対象となる最後の砦的コンテンツのはずのニュース番組とか、スポーツ放送でさえ、分かりやすさと面白至上主義が鼻につく。ニュースの場合だと、少しでも睡眠時間を確保したい多忙なサラリーマンが効率よく情報を得るようにはできていない。意味のない演出や印象操作(「もったいぶり」や「繰り返し」)が多く、同じ情報量を得るならネットの方が遥かに効率的で、時間の無駄だなと思ってしまう。

スポーツ放送だと、無理やりに盛り上げようとする番組上の演出が逆にしらける。視聴率稼ぎのため、「オリンピックとか大イベントでもない限り、競技自体にはあまり興味のない層」をターゲットにしているとしか思えない。余談だが、選手にメディアが勝手につけている「ナントカ王子」とか、「ナントカの妖精」とか、「侍ナントカ」とか、あの不可解なキャッチコピーは何とかならないか、と思っていたら、そう思っていたのは筆者だけではなく、当事者の方々も含まれていたようだ。

メディアが商売優先で、専ら「見えているターゲット」を狙いにいくのはいいが、それだけでは先細りである。実際は、見えていないターゲットが膨大にあって、その金脈を掘り当てることに挑戦しなければ未来はないと思う。いわゆる「良き観客」、「声なき声」という最も拾い難い層である。

「良くぞ取り上げてくれた」「これこそが知りたかった。何故今まで誰も扱わなかったんだろう」と、後で感謝されるようなコンテンツ。勿論、ターゲットははっきり見えていない。当たるかどうかわからない。が、発信する側が自分の直感やセンスを信じて、失敗を恐れずやってみるしかない。そういうコンテンツを担うメディアこそが、これまで時代を引っ張ってきたのではないか。かつては文芸誌であり、新聞であったが、やがてテレビや雑誌が取って代わり、いまやウェブの独壇場になりつつある。

ブログ代筆サービスなどいかが?

2009年07月27日 | ウェブの雑談
最近、ブログのネタに困っている利用者のために、種々のネタ支援サービスが用意されているようだ。gooだけでなく、他社のブログサービスでも大概同様のサービスがある。記事が書きやすいように、ニュースと連動して直ぐにブログが書けるようになっていたりする。

しかし、ネタまで用意してもらわなければならないとは、あまりに創造性が低すぎやしませんかね? 何もアイデアが浮かんでこないのに、そこまでしてブログを更新しなければならない理由って、何なんでしょう? 結局、「今流行りのブログなるものをやっている」という、ステータスが欲しいんでしょうか? 昔、筆者が若かりし頃、冬はスキーかスノーボードをやってないと恥ずかしい、みたいな風潮がありましたけれども。それと同じようなもんですかね。

そう言えば、大学生のレポートや卒業論文の代筆とか、小学生の夏休みの宿題(自由研究や読書感想文)の代行などが、ビジネスとして立派に(?)成立しているという話を聞いたことがある。「一般の学生」あるいは「普通の小学生」であり続けるためなら、手段を選ばないということですか。やる気も能力もないのなら、それ相応の低レベルな創作物をやっつけ仕事でこしらえるか、いっそやめてしまえばいいのに。それでも「それなりのもの」を、何としても自作として発表しようとするのは、何やら強迫観念の様で、どこか病んでいるような気がする。

ネタなど何だっていいのに、「ちゃんと用意されたお墨付きのネタ」でないと安心できない理由は、日本人特有の「同調圧力」のせいだと筆者は見ている。つまり、「無難な内容にまとめないとイジメに遭う」という同調圧力ゆえに、突拍子もないことは徹底的に頭から排除してきたので、終いには思考停止に陥ってしまっているのである。無論、つまらな過ぎてもダメである。クラスの人気者になるには、「適度に」面白くなくてはならない。会社で一目置かれるためには、頭の固い上司や理解力の低い同僚にも十分理解できる範囲で「個性的」でなくてはならない。面白過ぎたり、個性的過ぎたりすると、イジメの格好のターゲットになってしまうのだ。

皆、元から創造性がなかったわけではない。ただ、幼少時から刷り込まれている「こんなことを言ったら、変なヤツだと思われるのでは……」という恐怖心に打ちのめされてしまったのだ。匿名ゆえに、自分を解放できるのがネットのいいところなのだが、それも活かされていない。あたかも突然首輪をはずされて、「さぁ、もう自由だよ! どこへでもお行き!」と言われても、どこへ行って良いかも分からず、途方にくれる飼い犬のような状態になってしまうのも、仕方のない話だ。今日も勝手知ったる電柱にオシッコをひっかけるぐらいしか、何も思いつかない。いや、行きつけの電柱があるならまだマシか。「ここにもちょうどいい電柱があるよ!」とネタを示してもらわないと、安心してオシッコもできないワンちゃん……。今さら野性を取り戻そうったって、もう無理な話ではある。

ブログ業者もネタ支援なんてセコイことをしてないで、いっそ本格的に「ブログ代筆サービス」を始めたらどうですかね。「年齢」「性別」「口調(文体)」「更新頻度」「テーマ」「記事の長さ」など、基本的な項目を決めておくだけで、後はゴーストライター(あるいはコンピューターの自動執筆プログラム)が無難な内容にまとめてくれるのである。ご本人はサボっても、定期的に更新してくれる。お気に入りの絵文字もバンバン使ってくれる。時々ちょっぴり面白い記事が出てくる。「ペット」をテーマに選ぶと、カワイイ動物マンガなんか出てきたりして。そうそう、オプション料金を払うと、気の利いたコメント&トラックバックも毎回ついてきますよ!…え? 既に、そういうサービスあるぞって…? こりゃまた失礼いたしましたw。

どうせ「釣る」なら極上のエサを!

2009年07月07日 | ウェブの雑談
前々回のブログ記事では、見え見えの「釣り」にスルーすることを覚えてしまったネット界の民が、テレビや新聞といった従来型メディアの「演出」や「脚色」を含む広い意味での「ヤラセ」に食いつかなくなってしまったことが、その凋落の一因ではないかと指摘した。

考えてみれば長かった。活版印刷が発明されて以来、人類は語り手が面白おかしく脚色した情報にどれほど踊らされ、悲喜交々の歴史を刻んできたことか。それは魚類が、おそらくは何千年と人類の「釣り」という策略に引っ掛かり続け、今なお糸にエサと針を仕込んで水面に垂らすという単純極まりない罠に有効に対処する進化を遂げていないことを想起させる(?)。インターネットという武器を得て、今ここに人類のある一群は、作り手の誘導を見抜くほどの進化を遂げ始めた。これは一大事である。釣り針に一切かからない魚が現れたら、世界的大ニュースである。食卓を直撃するのも間違いない。そりゃ、テレビ新聞おまんま食いあげである。

と、何やら話が交錯してしまったが、このままでは従来型メディアはジリ貧なのは間違いない。筆者は、もはや新聞も取っておらず、テレビもそれほど見ないので、さして困らないが、その断末魔の足掻きっぷりが余りに気の毒である。名指しは名誉のため避けるが、とあるテレビ局では頼みのコンテンツが再放送の水戸黄門らしい(笑)。視聴率大苦戦中の報道番組の直前にキラーコンテンツの葵の御紋を放送して、視聴率を引き上げる作戦だという。そのようなことで、進化した視聴者をごまかせるものだろうか。そう言えば、夕方の報道番組が時間丁度に始まらず、○時57分とか、△時53分とか、中途半端にフライングして放送されだしたのはいつからだったか。全く姑息というか、涙ぐましいというか…

テレビや新聞という従来型のメディアはネットのように、ウソも真実も宝物もゴミも、丸ごとそのままブン投げて、後は受け手の判断力に任せるという作戦はとれない。したがって、良く言えば情報の「取捨選択」と「演出」に、分かりやすく言えば「ヤラセ」に依拠せざるを得ない宿命にある。だとしたら、より良い「ヤラセ」を行うしかない。

例えば、従来型メディアにとって必要悪としての「ヤラセ」を、思い切って受け手に公開してしまうなど、創作のプロセスが丸ごと共有されたコンテンツ作りへと動き出すのだ。ニュースキャスターが「この商品の欠陥問題については、製造メーカーが当番組の重要なスポンサーなので、敢えて批判は控えさせていただきます。事件の詳細については、他局の報道をお勧めします。」とか、「この事件の容疑者は、テレビ界にとって最重要の芸能事務所所属のタレントですので、本事件に関する報道は奥歯にものが挟まったかのような表現になりますが、何とぞご容赦ください。」とか、それはそれはもう100%オープンにしゃべってしまうのである。

あるいは、再放送の水戸黄門を不人気番組の直前に持ってくるのではなく、水戸黄門の放送15分ごとに、面白くもなんともない件のニュース番組を5分ずつ入れてみるのだ。そして「お銀の入浴シーンの直前ですが、ここでお得な情報です!」とナレーションし、秘湯グルメ特集の映像を流す。ここまで捨て身の自虐ネタができれば、大いに話題になるだろう。視聴率二ケタなど楽勝である。

ちょっと極端すぎる例をあげたが、手垢のついた「ヤラセ」という旧態依然とした「釣り」では、目の肥えた、賢くなってしまった視聴者にスルーされてお終いなのが現状だ。余程のことをしない限り、視聴者を再び振り向かせることはできない。もう、不味いエサには一切食いつかなくなったのなら、最後の切り札のような、極上のエサをつるし、食いついていただくしかない。だが、そのまま釣りあげられるかどうかはわからない。やっとこさ、スルーされつづけてきた視聴者と対話する切っ掛けを掴むことができたに過ぎない。それは、従来型メディアにとって、きっと大漁のラスト・チャンスになる。スポンサーと所管官庁と社内の論理を優先して自滅していくか、ネットの如くどこまでも受け手本位のコンテンツづくりに乗り出すか、真実の瞬間は迫っている。

「ヤラセ」と「釣り」の構造

2009年07月05日 | ウェブの雑談
ウェブ用語に、「釣り」というものがある。

インターネット掲示板で議論を盛り上げるために他人が憤りそうな話題をわざと出すのを「釣り」という例もある。逆に、発言自体は釣りではないのに、「釣り」のレッテルを貼って、その発言を無効化させる用法もある…

というのが、ウィキペディアの解説である。要は、わざと物議を醸しそうな問題発言をエサとして捲いておいて、相手の激烈な反応を「釣り」、それを面白がるということである。屈折しているといえば、屈折している。気の利いた書き込みをするのは、なかなか難しいし、あたりさわりのない無難な発言だと反応が返ってこない。そこで、ウェブの匿名性ゆえに、ついつい過激な発言をして、相手の反応を期待してしまうというところだろうか。

ところで、ウェブ掲示板を少しでも利用したことのある方ならご存じかと思うが、「釣り」に対しては、「スルー」、すなわち無視と放置で対処するのが基本マナーとされている。「釣り」に一々過剰反応していたのでは、本来のテーマの議論が深まらない。何より、「釣り」を仕掛けた張本人の思う壺であり、わざわざそれに引っ掛かるのは賢明とは言えない。そこで、明らかに「釣り」を目的としている過激で挑発的な書き込みに対しては、一切相手にしないことにより、ただでさえ脆い掲示板内の公共性を何とか維持しようとするのである。

このため、どちらかというと、「釣り」を仕掛ける張本人よりも、それに引っ掛かる方が悪いと見なされる。当該書き込みが「釣り」であるということを見抜けないネット・リテラシーの低さこそが批判の対象にされるのだ。ウィキペディアの解説にある「釣り」のレッテル張りは、確かに真面目な発言を無効化させようというケースもあるかもしれないが、多くは「その程度のレベルの発言は、釣りと見られても仕方がないぜ」という警告なのだ。

さて、ウェブ勃興以前より、主に従来メディアの世界において、「釣り」に似た伝統的な、いわば王道とも言える仕掛けがあった。それは、「ヤラセ」である。

「ヤラセ」は、最早完全にそれなしでは、いかなる記事や番組も作りえない現実がありながらも(メディア側は許容範囲のヤラセを「演出」と呼称したりする)、発覚した場合には厳しく断罪される。食品メーカーにとって産地や成分の偽装が致命的な問題とされるのと同様に、報道機関においてヤラセは絶対に許されない悪行とされている(どちらの業界でも、おそらく多少は必要悪なのだろうが…)。

さて、「ヤラセ」と「釣り」を比較すると、「ヤラセ」は実行犯がひたすら悪者にされるのに対し、「釣り」は引っ掛かる方がバカなのだとされるのが大きな特徴だ。ここからが筆者の持論なのだが、ネット界の住民と、テレビや新聞を中心とする従来メディア界の住民の不協和音は、この「ヤラセ」と「釣り」の構造の違いにあるのではないか。

真実とウソが入り乱れ、玉石混交が当たり前のネットの情報は、それ相応のメディア・リテラシーがないと利用できない。うっかり間違った情報を信じ込んでしまうのも自己責任である。それゆえ、ネット界の住民は、情報の真偽や精度に関する判断力を日々研ぎ澄ましている。無数の無価値な情報の山から、数少ない宝を見つけ出す能力を磨いている。ところが、新聞・テレビといった従来型メディアから垂れ流されてくる情報は、「読者、視聴者は、自分たちの情報を100%鵜呑みにしてくれる。ちょっとぐらいは面白可笑しく演出して盛り上げよう!」という臭いでプンプンしている。つまり、実にレベルの低い「釣り」を仕掛けてきているように見えてしまうのだ。そんな情報の発信者に対しては、どう対処すべきか。そう、もちろん「スルー」である。無視&放置である。テレビの視聴率が落ち込んでいるのは、単に娯楽の多様化とか、制作会社への丸投げとコンテンツの劣化などというより、ネット普及後に視聴者のメディア・リテラシーが激変していることに、従来型のメディアの作り手が全く対応できていないためではないか。

他方、ネット界の住民とは対照的に、従来メディア界の住民の皆様は、まさか公共のメディア様がインチキな情報を垂れ流して受け手を騙そうとしているとは夢にも思っていない。…そりゃあ、多少は「ヤラセ」に走る不届き者がいるかもしれないが、そういう輩は厳罰に処されるはずだ。何? ネットでは、正しい情報もインチキな情報も入り乱れているって? そんなものはメディアと呼ばない。信じるに値しない。大体ネットなど、ド素人が作ったコンテンツのゴミ溜めじゃないか。プロが仕込んだ価値あるコンテンツこそが、世の中を正しい方向へ導いてゆくのだ…こうして、従来型メディア界の住民は、ネットとの融合への道を自ら閉ざしてしまったのだ(合掌)。

こうして同じ国に居ながら異なるメディアの世界に住んでいる両住民のすれ違いは、もはや決定的なほど修復し難いものになってしまっている。ネットは新興勢力なので、まだ発展途上である。従来型メディアには、過去の豊富な蓄積があり、コンテンツ作成能力などではまだまだアドバンテージを保っている。だが、ネットにヒタヒタと追いつかれつつあるのは間違いない。ネット界の住民が身に付けつつあるメディア・リテラシーに対応したコンテンツを作らねば、従来型メディアの凋落は免れないだろう。では、具体的にどうしたらいいのか? 次回、その当りについて考えてみたい。

日本の「上の人」は「海外」に弱い。

2009年06月24日 | ウェブの雑談
「上の人」が一向に出てこようとしない日本のウェブの現状にガッカリしたという趣旨の梅田望夫氏の発言に関する拙ブログ記事「日本のウェブに「上の人」が出てこない理由」は、なかなかにインパクトがあったようだ。該当ページに、通常よりも多くのアクセスがあった。しかも、他の方のブログ記事上で拙ブログに触れていただくという初体験をした。(「ぱんちらす」さん、ありがとうございます)。筆者の考えと近いご意見の方々もいることがわかり、非常に面白かった。

この味をしめて、という訳でもないが、この件に関連して実はもう一ついっておきたいことがあった。

日本の「上の人」「ハイブロウな人」「既得権を持っている人」は、海外からの評価、すなわち外国人に賞賛されることに飢えているようなところがあるのだ。

筆者が「第一のグループの成功者」と以前定義付けした、日本の「上の人」たちが、唯一思うようにならないことがあるとすれば、それは海外からの評価である。というのも、彼らが誇りとする価値体系とそれに付随する既得権は、日本国内限定でしか通用しないシロモノなのだ。東大卒だぞ、国Ⅰと司法試験ダブル合格したぞ、東証一部上場企業の重役になったぞ、甲子園に出たぞ、芥川賞をとったぞ、と言ってみたところで、そういう極めて日本的価値体系の外側にいる、例えばアメリカ人などからみれば、「So what?」である。このことについては、賢明な「上の人」たちは、重々承知しておられる。彼らは外国人に褒められたくてウズウズしている。それはもう、凄まじいコンプレックスにまでなっている。

それは例えば、日本人がノーベル賞を取った時の、「上の人」たちの狂喜乱舞振りを見てもわかる。「ついに俺たちの仲間(なのか?)が世界に認められた!」と、当のご本人とはあまり関係のない周辺の方々が大騒ぎである。文化勲章とか、ナントカ名誉市民とか、ノーベル賞の世界的権威に比べればゴミみたいな賞が、これでもかというぐらいイモづるのようにくっついてくる。明らかにこれは、当のご本人を称えるのが目的ではなくて、ゴミみたいな賞の主催者の側が、ノーベル賞の権威のおこぼれに預かろうとしているのが見え見えで見苦しい。

そういえば、筆者が会ったことのある、ある一流大学卒のエリート官僚殿は、黒澤明や北野武の映画を熱心に見ていた。その理由は、「海外で高く評価されている作品群であるので、これらを知らないことは日本人として恥ずかしい」という、筆者には理解し難いものであった。自分個人としては大して面白いとも思えないような映画を、外国人が賞賛しているから見るというのは、やはり歪んでいると言わざるをえない。

梅田望夫氏も、英語圏との比較で日本のウェブの状況を嘆いておられる。彼自身、「外国人から褒められてみたい症候群」の「上の人」の一人なのだろう(それは、将棋を世界に売り込もう、という彼の「次の一手」にも通じるものがある)。なるほど、その気持ちはわかる。日本では世間的にそれなりにチヤホヤされ、十分いい思いをしている彼らも、一歩日本を出るとタダの人という状況は、それはそれは耐えがたい状況なのだろう。どこへ行ってもタダの人である筆者には分かりかねる悩みではあるが。

しかし、海外での成功を目指す以上、これまで「上の人」たちが日本で成功を掴んだ方法では通用しない。すなわち、海外からの評価を狙って、外国人ウケを狙って何かをしても、絶対にウケない。既存の権威や価値体系があって、それにうまく乗っかろうという手法は通用しないのだ。自分自身の手で新たな価値を生み出すという、困難な道を突き進むしかない。多くの賛同者が現れるかどうかはわからない。ましてや、それが外国人に通用するかどうかは二の次だ。

アニメやゲームといった世界に誇る日本のサブカルチャーは、元来外国人にウケるために作られたものではない。徹底的にローカルな理由で生まれた土着のカルチャーの中に、外国人が瞠目するようなものが極まれに存在する、というのが実状なのだ。それは、世界的に通用する日本以外の国々の文化についても同様である。ネットは、世界とつながる最も身近な手段のように思えるが、それを活用した価値創造への戦いを最初から棄権しているようでは、日本の「上の人」たちは、永遠に井の中の蛙、お山の大将で終わるだろう…などと、「下の人」本流の一員(?)として、負け惜しみ気味に警告しておくことにする。

日本のウェブに「上の人」が出てこない理由

2009年06月19日 | ウェブの雑談
少し旬を過ぎてしまった感はするが、「ウェブ進化論」の著者である梅田望夫氏が、かつてウェブに対し知的エリート層の社会的インフラとしての役割を期待していたのに、それとは程遠い日本のウェブの現状に失望したという趣旨の発言をして話題になっていたことを知った。インタビューでの発言を引用すると、

…素晴らしい能力の増幅器たるネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。そういうところは英語圏との違いがものすごく大きく、僕の目にはそこがクローズアップされて見えてしまうんです・・・

コテコテ「下の人」に違いない筆者ごときが、「上の人」について論じるのは些か恐縮だが、「上の人」が出てこない理由について、筆者は思うところがある。筆者は以前、このブログで、成功体験には二種類あるということを書いた。繰り返しになるが、

第一のグループの成功のためには、既存の権威・価値に如何に上手く乗っかるか、が重要である。具体例を挙げると以下のようなものがこれに当たる。

・名門進学校、有名大学の入学試験に合格する
・司法試験、公認会計士試験といった超難関の資格試験に合格する
・官庁や大手有名企業に就職する、また、その組織の中で重要ポストに配属される
・甲子園、オリンピックなど、歴史ある競技会に出場、好成績を収める
・権威ある学術賞、芸術賞、文学賞、功労賞などを受賞する

日本の「上の人」は、例外がないと言い切っていいぐらい、悉くこの第一のグループに属する。これに対し、第二のグループは、自分自身が新たな権威、価値の創設者にならなくてはならないタイプの成功である。具体例は次のような感じである。

・起業して新たなビジネスを立ち上げ、株式上場を果たす
・株のデイトレードで巨額の儲けを出す
・マンガ、音楽、ゲームなどのサブカルチャーでヒット作を生み出す
・海外で武者修行し、超一流の料理人(または芸術家)になり、店(個展)を開く

問題は、第一のグループの成功体験者と、第二のグループの成功体験者が、日本では絶望的なぐらい断絶しきっていることである。日本では、優秀とされる人は迷わず第一のグループを目指し、毎日せっせと努力している。反面、第二のグループは本流と見なされないようなところがある。それだけではなく、「単に運が良かっただけ」だとか、「いつまでも続くはずがない」とか、第一グループの方面から散々な言われようだったりする(そういえば、かつて「デイトレーダーはバカだ」と断じた大物官僚がいた)。既存の価値観を至上のものとする権威主義者は、新たな価値観が生まれるのを忌み嫌うのである。また、第二のグループの面々も、日本国内における権力・名声・資本の大半を牛耳っている第一のグループに対し表立って挑戦することは得策でないので、どちらかというと自身の成功に対し控えめな態度であったりする(ライブドアの一件は、そのような教訓を益々強いものにしたと言える)。

他方で、欧米(梅田望夫氏がいう「英語圏」)では、双方のタイプの成功者が、互いに反目しあうことはまずあり得ないと思う。極端な話、巨額の賞金の宝くじに当たっただけの人に対しても、その幸運が素直に祝福される。

この、異なるタイプの成功者層の断絶ゆえ、日本では、ウェブが第二のグループの成功を目指す人々の挑戦の場(社会的インフラ)として専ら確立していく一方、梅田氏が言う「上の人」である第一のグループの人たちを(ウェブから)遠ざけることとなったのではないか、というのが、「下の人」代表(?)である筆者の見立てである。

参加者の誰もが情報を発信・アクセスできるという特性故に、既存の権威や価値観を重んじる方面からは敬遠されるのが、日本のウェブの宿命だったと言えよう(情報の発信・アクセスを限られた人々の特権にすることにより、これまでの価値体系が守られてきたのだから、当然と言えば当然だ)。

こう考えてみると、「上の人」が出てこないのは、「上の人」の保身に過ぎないのではないかという気もする。しかし、今や既存の価値や権威も揺らぎつつある。その証拠に、新聞や雑誌は読まれず、書籍も売れず、CMを打ってもモノは売れず、テレビ番組の視聴率は下がり続けている。新たな価値の創造というしんどい仕事に乗り出すことを避け、最早磐石でない既得権に乗って逃げ切りを狙うような態度でいると、「上の人」がいつまでも「上」にいられる保証はないと思う。

2009年6月28日追記:この記事の続編、日本の「上の人」は「海外」に弱いもアップされています。