雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

優劣ではなく、損得に生きる。

2013年10月30日 | その他の雑談

とかくこの世の中は、へりくだったり見下したりで、本当に鬱陶しいこと極まりない。自分より目上なのか、横並びなのか、目下なのか。それ以外に何も考えることがないかのように見える。

権威主義的な日本社会において、貧相なステータスしか持ち合わせていない哀れなこのブログの筆者は、へりくだられることは非常に稀であり、圧倒的にバカにされることが多い。もちろん大人だから、あからさまにバカにされることはない。だが、相手が無意識のうちに上から目線に立っているのは容易に感じられることが多々ある。言葉は丁寧でも、態度や表現の節々でまる分かりである。

先日もとある件で長たらしい報告書を作成せねばならなくなり、気乗りのしない仕事であったが、この歳になっても部下一人いない筆者は、渋々一丁自力で仕上げざるをえなかった。さて本題はその後である。「この報告書は、誰に書いてもらったのか」と、あちこちで尋ねられ、すこぶる閉口したのだ。「いや、僭越ながら私が」と答えると、「それなら誰に見てもらったのか」などと無意味な質問を重ねてくる。「いや、みなさんお忙しいでしょうし」と返せば、「ならばどうやって仕上げたのか」などと、更に食い下がってくる方もいらっしゃり、出るのはため息ばかりである。

予想外に報告書の出来が良かったのだろう。それならそれで黙って受領すればいいではないか。思わぬ人物から割と良い報告書があがってきた、誰かに知恵を付けてもらったのかもしれぬ。自分でどうにかうまくこなしたのかもしれぬ。だが結果がよければそれがすべてではないか。別に敬意を払えなどと言うつもりは毛頭ない。だが、こういう無意味なやりとりを方々で繰り返さねばならないのは、先方が筆者を常日頃から心底バカにしていることの表れである。このバカが一人でこんなものを作れるはずがない。誰かを上手く利用したに違いない。この低能は、俺より下に位置するはずだ。そういう固い思い込みが、つまらぬ報告書一つで揺るがされた結果、やんごとなき自尊心を傷つけられ、こちらが紛うことなきバカであることの確証を探し求めているのである。

しかし、そんな失礼な御人にバカにされて、大人げなく多少なりとも憤慨してしまう筆者も、まだそうした優劣ごっこから卒業しきれていないのであろう。下に見られて悔しいというのは、そうした上下意識から完全に自由になっていない証拠である。相手が不当に自分を見下し、こちらの実力を過小評価しているなら、何とか相手をうまく転がし騙し利用して、自分の利益にできないかと考えるべきなのだ。バカと思っている相手には、油断全開になってしまうのが人間というものである。付け入るスキはいくらでもあるはずであろう。優劣などどうでもよい。具体的な価値もない下らぬ序列など勝手に決めさせておけば良い。自分がいかに損せず得するかだけを考え、生き抜かねばならぬのだ。

このような考えから、昨今は理不尽に見下される度に、「優劣でなく、損得に生きるのだ」と自分に言い聞かせている。だが、ついついムッとなってしまう。人間のサガとは、全く何と根深いものなのか。


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