雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

隙間がなければ閉塞は当然だ

2009年09月16日 | 政治の雑談
隙間という隙間をすべて埋め尽くした社会。それが日本だと筆者は思っている。

唐突に何だ、と思われるかもしれないが。日本の抱える閉塞感の正体について、あれこれ考えていて、ふと思いついた。閉塞とは、隙間がないことではないか、と。

隙間産業とか、ニッチ市場と呼ばれるものがある。弱者である中小企業や個人事業主は、大手とまともに競争してはひとたまりもないので、誰も目を向けない、地味な市場ニーズを狙って、生き残りを図ることが多い。また、リストラや、進学で失敗し、社会のレールから外れても、小さな自営業の店を経営するとか、特技を教えて授業料で細々と稼ぐとか、付加価値は低いが比較的簡単な仕事をするとか、社会で居場所となる隙間を見つけられれば、何とか生き残れる。

ところが、もはや新たな成長の余地が全くない日本では、そんなわずかな金を稼ぐための隙間探しが国を挙げての関心事となっており、国内の隙間という隙間がすべて産業化される勢いである。まずは、大規模スーパーが個人商店が生き残る隙間を埋めつくした。ネットスーパーの登場で、御用聞きすら葬り去るだろう。その後、コンビニが酒屋、雑貨屋、タバコ屋などが生き残る隙間を埋めた。巨大チェーンのカフェが喫茶店を駆逐しつつある。ドラッグストア・チェーンがコンビニの如く乱立し、小さな薬局も見かけなくなった。コイン・パーキングが、駐車場の料金係を不要にした。ハイテク防犯システムが、警備員にとって代わりつつある。それほど特殊な技能を持たない個人が、思いつき程度で始められるビジネス、仕事は、いずれ皆無になりそうな気がする。

年金をもらえない老人が、空き缶拾いで食いつないでいるというドキュメンタリー番組を見た記憶があるが、その内「リサイクル産業の発展」で、資源ごみは一片のこらず自動回収されるように高度産業化され、そんな老人が生きる隙間すら奪いとるだろう。

利潤を最大化するのが企業の至上命題である以上、自由競争の末、弱者が敗れ去るのは当たり前だとの声が聞こえてきそうだ。だが、日本を代表する大企業であっても、リスクが高く成功への道のりが険しいチャレンジングな新規事業に乗り出すよりも、閉塞しきった国内の隙間食いの方がお好きらしい。国内チャンピオンになっても、海外の強敵に果敢に戦いを挑まず、国内で弱い者叩きを続けて連勝記録を誇っているかのようで、何やらみっともなくはないか。

個人がささやかに生きるための余地である社会の隙間が、ほとんど埋め尽くされ酸欠になりつつある中、更に小さな隙間を求めて、老いも若きも、強者も弱者も、皆が懸命に争っている。それが日本の風景である。


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