親愛なる日記

僕が 日々見つめていたいもの。詩・感情の機微等。言葉は装い。音楽遊泳。時よ、止まれ!

ヘブン

2009年09月11日 | ささいなこと
川上さんの『ヘブン』の概要を新聞で読む。

ここでもまた、相対的価値感の違いをどう受け止めて生きていくか、がテーマなのかなと思う。

ああいう考えも正しい。

こういう考えも正しい。

そこでまた、結論は個人に任される。


そういった、相対的な正しさというのは、昔からもちろんあったろうから、

つまるところ、個人とは、どうあるべきか。あなたなら、わたしならどうあるべきか、という選択の根幹を問われているのだと思う。

答えなど、そもそもないうえでの選択。


個人主義。

失われたと言われている90年代からの20年間の間、

日本における個人とは何かは、つねに突きつけられてきた。


それに対してそろそろ各人が答えを持ち始めたのが現在ではないだろうか。

個人をどうとらまえるか。


その答えが、「物語」というキーワードで読み解ける。

物語的理解方法といったほうがいいだろうか。



物語的理解とは、各人の重要視するポイント(ことば、状況、好き、嫌い)をある種運命的に受け入れる態度といったらいいかしら。

Aという事象を頑なに信じる人には、Aという事象を基盤とした物語の構築がすでになされている。

だから、その物語を崩さず自分の物語をのせていかなければ、理解はされない。

そういう原則のこと。


人に対する畏敬の念とかいう、ありふれた言葉ではなくその人の背景にある物語を見ようとすれば、わからないことが、わからなくてもいいやという気分になる。


他者というものは、常に怖い。

僕はいつもそう思う。とても臆病なので。


ただ、そんな「怖い怖い他者」を理解するためには、わからないものをわからないまま飲み込んでいかなければやっていけないのかもしれないとも思う。


君が僕をわからないのと、同様に僕も君がわからない。


でも、それはいつまでも平行線を辿るしかない。


どこかの時点で、わからないことをいかにしてわかった気になるか、という翻訳技術が必要になる。

ああ、そうか、物語は、何かを翻訳しているってことなんだ。


そんな発見をする今日。


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