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親愛なる日記

僕が 日々見つめていたいもの。詩・感情の機微等。言葉は装い。音楽遊泳。時よ、止まれ!

生活について

2013年05月06日 | うたかたの日々
僕の場合、結婚生活は立ち止まるタイミングがなく過ぎ去っていく。本当にあっというまに。

自分ひとりの思考をすることもない。それがいいのか悪いのか。昔の自分ならまず望まないことかもしれないけれど、今の自分にはそれでいいのではないかなと思うようになった。

そう言えば、僕がまだ結婚をする前、結婚なんて一種の修行みたいなものだと考えていた。結婚が自分を磨く修行だとするなら、僕は以前に比べて多少なりとも成長できただろうか。目に見えた変化で言えば、煙草を吸わなくなったことと、腹が出たこと。内面的な変化は―よくわからないけれど―こだわりが以前に比べればずいぶん減ったような気がすることぐらい。この変化が修行の成果なのかと問われると、どうかと思うけど

ましかし、もと他人同士の夫婦がなんとかかんとか共同生活をすることができてるし、おまけに子ども達も健康に育ってるしいいんじゃないかなと思う。

で結局のところ、修行って言葉は少し大げさだったのかもしれないけど、結果的にみれば結婚=修行と思っていても間違いはなかった。これまでにもお互いがイライラしていれば箸が転がっても喧嘩につながるような修羅場があるかと思えば、相手の人間性を根本からほじくるようなデリケートな作業を、日常の生活の中でさらりと展開するなんてこともあった。こういうのは修行だと思っていないと辛い。

だから、僕のようにわりと人間関係に及び腰なものにとってみれば、結婚ってとても恐ろしいものだったし、修行ぐらいに思っていて丁度いいと思うのだ。


コレクティブハウジングについて

2011年01月05日 | うたかたの日々
内田先生がコレクティブハウスについて書いている

僕の研究対象であったコレクティブハウスの限界について書かれており、あまりにずばりと本質を切り取られていたため思わずはっとしてしまった。

共生ということの重要性を考えていた私が、今や家庭という共生の生活に入った。

入って思うことには、共生そのものがひどくやっかいで、煩わしく、同時にハッピイで、充実した生活であるということ。

コレクティブハウスの思想は、家庭(とくに近年の核家族などの小さなもの)ではない第三者同士が共に生活をすることを目指すが、それがクールに機能するのは内田先生の仰るとおりある種の条件をクリアした限られた者たちだけだろうなあと僕もうすうす思っていた。

学生の頃はそれでいい、と思っていたけれども、

今では少し考えが変わった。

僕が目指すものは、特権的な人人のコミューンではあってはならないような気がする。

気に食わない時があっても、共に暮らせる家。

そんな家がいいだろうな。


お久しぶりです。

2010年10月25日 | うたかたの日々
これまでコンスタントに書き続けていたブログもしばらくお休みしておりました。

とくに何があったという訳でもないわけでもなく、大きく生活が変動しました。


簡単にいいますと、結婚しました!おめでとう!僕。ありがとう!みなさん。


そんな訳で更新はぽつぽつとなるやもしれませんが、相変わらずことのは散らしてゆこうと思います。

今後ともどうぞよろしくお願いします。


                 敬具

akiguchi

2010年09月23日 | うたかたの日々



季節がぱたりと音をたててめくる。ことが最近はなくなった。

思い出したかのような猛暑。同僚の顔が黒くなるなる。


それでも秋。今は秋ぐち。

そんな夜分に、ヨラテンゴ。が、ふさわしい。

トートロジー的理解

2010年09月18日 | うたかたの日々
トートロジーって、どういう意味だったっけ?と思って、調べたら、

同音反復である。と書いてあって、いやー、そんなこと言われてもな、とか思ったけれど。


まあ、つまり、わたしはわたしである。とか、

あなたはあなたである。


という、間違いなく自明であるとされる同音を反復する弁論術である。とのこと。



子どもは子どもである。(だから、大人とは違っていてお箸がうまく持てない)とか、

きみはきみである。(だから、僕の言葉はきみには届かない)とか、

あなたはあなたである。(だから、あなたは誰かの物真似ではなく、かけがえのない大切な人だ)なんていう風に、


その背後にある意味を引き出すために、あえて使われる。



ところで、最新の宇宙論では、そんな風なトートロジー的な理解が主流であるそうです。

どういうことなのかは、本を読んでそのうちに説明したいと思います。



ところで、昨日まで僕は北海道に行っておりました。一週間も。。

そこで体験したおっかしな体験から宇宙について少し興味を持ち始めたのです。はい。

サマーウォーズ

2010年08月08日 | うたかたの日々


山下達郎さんの歌はどれもオンナジに聴こえるけれど、いい。

サザンの曲がどれもオンナジに聴こえるけれどいいのと似ているなあ、と思う。

ときどき撃ちぬかれて、はっとする。



やわらかな日

2010年08月03日 | うたかたの日々


レーズン入りのコーンフレーク。カーテンを開ければサンシャイン

二人分のコーヒーが沸いた

「ちょっとこの記事読んでみて」

彼女が手渡した新聞にはこう書いてあった

「事故で亡くした夫の体から取り出した精子で受精成功」彼女は言った

「すごい愛だと思わない?」


今日二本目のタバコ

もしも僕がこの記事の夫だったら考えてみる

少し怖い気もするし ちょっと嬉しい気もするし

「ねえ どうなの?」って彼女がせかす

「ねぇ ものすごい愛だってあなたは思わないの?」

「まだ何も言ってないだろ」

「じゃどうなの?」

「うんそうだね」

「もうつまんない人」
 

誰より大切な君とのこんな朝が僕は好き

何より大事な答を君は知ってるから
 


ベジタブルカレーライス

窓を開ければムーンライト

二人分のビールをついだ


「今日ね誰かが言ってたの」

彼女が話す瞳には戸惑いがあった

「どんなに好きな人でも五年たてば冷めるって・・・

私達は大丈夫でしょ?ねえ どうなの?」

「うん そうだね」

「もう つまんない人」



Jónsi

2010年07月16日 | うたかたの日々


思わず購入してしまった一枚。

ソロといっても音の厚みは変わらない。

きらきらなのも変わらない。

抑えめの極彩 ごく控えめな世界の始まり そうだった、

僕はこんな曲がだいすきだ!

そうだった!

と、思える一枚。


さあ大き過ぎる声で歌うんだ

君の声が割れるまで

思い切り歌うんだよ


さあ叫び声もあげるんだよ、怒鳴って!

大地を揺さぶるんだ!

家族について

2010年06月10日 | うたかたの日々
天童さんの記事を読んで、

おお、久々に家族について真正面から語る男に出会ったなあ、と感じた。


『今、家族に不安がありますか?』


という問いから始まる彼の言葉は、シンプルに胸を打つ。

そう。僕もそう思う。


『家族が不安というよりも、

この社会の中で家族がどう生きていけばいいのか、そのことが不安なんじゃないですか。

特に自分の子どもが、この社会で幸せに生きていけるかが不安であって、

実は家族が問題ではないのでは』


家族について考えることは、実は現代について考えることと同義である。

ということではないかしら。



給湯器

2010年05月22日 | うたかたの日々


給湯器が壊れた。

シャワーが突然水に変わり、ひやっとすること多々あり、これはやばいと思っていた矢先。

給湯器が壊れた。


母は地元の業者に連絡を行い、その場で交換の依頼を行う。

私は帰宅後にその明細を知り驚いてしまう。


給湯器って高い。。。


価格ドットコムで調べたら半額くらいで売っていたから、地元業者が提案する30パーセントオフのキャンペーンは恐らく全然お得でもなく、僕としては損をした気分でいっぱいになる。


しかし、地域経済の活性化を思えば、高くともお金が地元に落ちることは望ましい。


でも、どこか損をした気分になる。


僕の度量のなさよ。

ふう

2010年05月21日 | うたかたの日々
まったくもって余裕がなくなった。

代わりにと言ってはなんだけれど、なんだか充実している。


日々誰かの為に働くということは、根本的に私向きなのだろう。

きっと、そういうことだ。


学ぶことは多いな、まったくもって。

くやしい

2010年05月08日 | うたかたの日々


これだけ音楽好きを自負していたのに、

同じく音楽好きな人(しかもロック好き)と話をして、まったく話がかみ合わなかった経験をした。


てやんでい。

ゼッタイどこかでつながっているはずなのに。。


くやしい。くやしいぜ。

牛河とコロンボ

2010年05月08日 | うたかたの日々
『1Q84 book3 』読み終わりました。

book1.2では前のめりで語ったけれど、book3に関してはわりあい落ち着いて語れる。

親切でわかりやすい内容になっている、といった書評が多かったし、僕も読んでいてそう思った。1.2の内容を牛河の推理をもとに振り返っている。1.2を忘れてしまった読者にもこれなら思い出しながら読める。(多少まどろっこしい感もあるけれど)


僕が最近思うことには、この牛河という人物が、

どうにも刑事コロンボに思えて仕方がない。ということ。


ここのところBSでコロンボが初期のものから立て続けに再放送されている。僕の両親は、それをせっせと録画し、暇あらば観ている。

僕もそれをなんともなしに観ている。

が、観ているうちに僕はコロンボがとても気味悪く思えてきてしょうがなくなる。


勘と仮説をもとに犯人を特定したのち、蛇のようにつきまとい心理的にゆさぶりをかけ尻尾を出すのをじっとりと待ち続ける。

へらへらとした笑いと無駄口。ヘボ刑事の演技(しかもその演技は演技であることが相手にわかるように計算されている)

とてもサディスティックである。


とてもサディスティックであるのに、僕らはそれを嬉々として眺めていられるのはなぜか?

といえば、番組の最初に、僕らは犯人が誰かを知っているからだ。

間違いなく黒である犯人をサディスティックに追いつめるからこその快楽というわけだ。



でも現実はそうではない。

犯人は予め与えられない。


現実のコロンボはとてもじめじめとしていて、牛河のように地べたに這いつくばって、微かな可能性の糸をたぐりながら暗く狭い部屋でアンパンを齧りながらミノルタのレンズを覗き続けるのだと思う。

自分のあさましさに辟易としながら、それでも他に生きようもないことを知りながら。


テレビのコロンボシリーズに牛河を重ねながら観ると、このドラマの行間になんともいえない物悲しさがにじみ、味わいがでてよい。