親愛なる日記

僕が 日々見つめていたいもの。詩・感情の機微等。言葉は装い。音楽遊泳。時よ、止まれ!

愛において

2005年08月30日 | ことばの避難所
恋愛において、この人はなんて残酷なことをするんだろうなと思う時。

その残酷は「なぜこんなにも私の心を傷つけることをするのか」という度合いの強さであってして、客観的にみれば「相手は私を愛してはいないのだ。」と結論づけさせるだけの事象であったりはしまいか。

その「ああ、相手は自分を愛してはいない」という実感が持てない(というか基本的に持ちたくない)為に「残酷だ」という表現で相手をなじってみたくなるだけなのではないだろうか。

ということは、その残酷さはつまり「わたし」だけにとって残酷であって一般的に残酷にはならず、結果相手の人にとっては残酷なことをしたという思いすらないのかもれない。

私がかつて「残酷だなあ」と思った何人かの人は皆、ハッキリ言ってその「残酷さ」というものにまったく気がついていなかった。

そうなると結局のところー私はことごとく愛されていなかった。と結論づけられるではないか。


これは至極くやしい、というかやるせない。もちろん、私としては納得がゆかない。

だから別の感情の選択肢をつくる。

あの人は「残酷な人」なんだ、そうだ、そもそも残酷な人なのだと。

あるいは「彼は可哀想な人なのだ。」人を受け入れることが難しく、それを他者への攻撃としてしか表現できないのだ、と。

と、考えていくとその愛における「残酷性」なんてものはあまり論理的でないとは思いませんか。

まあ、別に感情が論理的である必要なんかないわけだけど、結構勝手なことを思っているなあ、とと我ながらよく思ったものだ。



そんな風な身勝手な感情に縛られて生きるのもつまらないと思った私は、事前に「相手は私を愛してやしない。」という結論を下すことに慣れ親しんでいった。

すると、なんと哀しいことだろう。なにもかもが色褪せ、世界がとたんにつまらないものに思えてくる。



おい、じゃあ、私はどうしたらいいんだ!


という問いには誰も答えない。


ある人は盲目になり、ある人は孤独になる。そのどちらも嫌だという人には何があるのだ?

すると君は言う。

「あなたは何を根拠に愛を計っているの?」

と。

「あなたを傷つけながら、なおかつあなたを愛しているかもしれないのよ。」


底で僕はまた考え込む。

あなたこそ何で愛を計っているのか?



「簡単さそんなものフィーリングだもの」





















やわらかなウイスキー

2005年08月22日 | 物語
安ウイスキーのロックを水割りでたて続けに飲んだせいで体も頭もぐらんぐらんしている。

あなたに話すことも忘れ音楽を聞くにまかせる。

さても今宵、子馬が谷底に落ちるように、僕は音楽に身を落としていく。

月が私の失態を責め、私は崩れ落ちそうな岩山の梺に腰をおろす。

もちろん岩山は崩れ、さしもの僕も瓦礫の下に埋もれることとなる。


瓦礫の下で僕はそれでも生き残る術を考えている。

すうすうと

息を殺しながら




ひとりについて

2005年08月10日 | 男と女
一人でも落ち着いて楽しく過ごしている人もある。

最も一人で楽しくと言っても、一人だから自由でいいとか、好きでもない人と一緒にいる人の気持ちがわからないとか、何のかのといいながら、一人で楽しみを追いかけまわしたり、一人の楽しさを見せびらかして生きているような人もあるが、そんなのは偽物であることが多い。

本当に楽しい人は、もう少し静かである。

一人でも結構楽しいのだから、何のかのと他人を煩わす必要がない。

一人の楽しさを多くの人々に見せつけている人は、本当の一人になったときーそれに見合うだけの税金として、相当な涙を流して居られると考えていいだろう。


と、河合さんはおっしゃっている通り、ひとりを楽しむというのはなかなか難しいことだと思う。

僕自身にしても、「ひとり」は好きだけど「ひとりぼっち」は嫌いだ。


君がいないことより、君がいないと思うことが寂しいーと歌った人もおったが、これも同じことだと思う。

「ひとり」というのは状態ではなくて観念なんだろうね。


 なんでもないこと

2005年08月09日 | うたかたの日々
今夜は独りワインを飲んで酔っぱらうことに決めた。

酔いたい、という気分にもいくつか種類があるようだ。僕はふだんビールか焼酎しか飲まない。

気分が晴れていればウィスキーを飲む。

今夜のようにワインを飲む日はあまりよい傾向ではない。

というのもワインは一人で飲む種類の酒ではない気がするからだ。

ワインは大勢で飲むに限る、もしくは二人で飲む。

一人で飲むのはビール、焼酎、ウィスキーぐらいに留めようと思っているのだ。


オリオン-つづき

2005年08月08日 | 男と女
錬金術師の格言に、テルティウム ノーン ダタというのがある。

三番目は与えられない。

すなわち、一つの元素から別の元素への変容、廃棄物から黄金への変容は、文書に残せるたぐいのものではない。

それは全き神秘なのだ。

何が斯様な変化をもたらすのか、だれにもわからない。


精神にしても同じである。

いかなる運動も伴うことなく、広大なる平原への移動が成しとげられるのだ。

何が起こったのか、我々としては想像するほかない。


ある晩、獲物を逃したアルテミスは、一休みしようとその場で火を起こした。

だが、夜は影と戯れに満ちていた。

火のそばに、自分の姿が見えた。子供の自分、女の自分、狩人の自分、女王の自分。

子供を捕まえようとすると女を見失い、弓をひくと女王は逃げた。

たとえ世界を股にかけ、生きるものすべてを追いつめたところで、いくつもに分かれた自分自身に逃げられてしまうのなら、一体何の意味があるだろう?

いずれは、他に誰もいなくなって、自分と向きあるしかあるまい。

家を去るとは、何ものもあとに残していかないことだ。自分自身もやはりそのままついて来て、闇のなかで待っているのだ。戦うに値する唯一のいくさとは自分のなかで荒れ狂ういくさであることを彼女は悟った。

あとはみな遊びでしかない。

この小さな場所、我が狩り場で、自分を家へ連れ帰るのだ。

家とは気弱な人間のための場ではない。

真に勇敢な者だけが、自分自身とともに生きられるのだ。

朝のうちに彼女は出かけていった。

毎日毎日、朝が来るたびに出かけていった。

その落ち着かぬ徘徊のなかに、彼女は安らぎを見出した。



それからオリオンが現れた。

2005年08月05日 | うたかたの日々
あくまで自分の為に。それが僕の抱く唯一と言っていい言い訳だった。

「あなたはなんのため、そんなことを」と、問われてもそれは自分のためだ、としか言いようがない。

季節は夏。僕はちょうど6年前の夏に立っているのだ。


オリオン

2005年08月04日 | 男と女
嵐の晩に、分別よりも倦怠に導かれて、王ゼウスは娘に違った生き方を許すことにした。


すなわち、娘は結婚を望まなかった。


神であれ人間であれ、夫がいくさに出かけて、宮殿の王子から荒武者へとお決まりの変容を遂げるあいだ、自分はおとなしく家で待っている、なんていう暮らしは望まなかったのだ。

子供も欲しくなかった。彼女が望んだのは狩りをしてくらすことであった。

狩りをすると気分がよくなるのだった。



夜明け前に支度を済ませ、森での新しい人生に向かってアルテミスは出発していった。

やがてその名声は広まり、ほかの女たちも加わったが、アルテミスは他人と一緒にいるのを好まなかった。

一人でいるのが彼女の望みだった。

孤独の中で彼女は奇妙な発見をした。

彼女はかつて、世界をのびのびさすらう男達の自由を羨んだものだった。

ただひたすら待つだけの妻のもとに、男達は栄光につつまれて帰る。

歴史を作るものと、家を守るもの。

人生を成立させているこの大いなる分業は彼女も承知していた。その分業を否定するというのではない。

彼女はただ、向こう側にある自由を我が身に浴びてみたいと思ったのだ。

英雄のように世界を巡り、七つの海を旅したら?

何か違うものが見つかるだろうか、それともみかけが違うにすぎない、いままでと同じものに出会うだけだろうか?

世界全体をひとつの場所に収めうることを彼女は発見した。

その場所とは彼女自身だった。

まさかこんな発見に至るとは、夢にも思っていなかった。


                      ジャネット・ウィンターソン「オリオン」より