恋愛において、この人はなんて残酷なことをするんだろうなと思う時。
その残酷は「なぜこんなにも私の心を傷つけることをするのか」という度合いの強さであってして、客観的にみれば「相手は私を愛してはいないのだ。」と結論づけさせるだけの事象であったりはしまいか。
その「ああ、相手は自分を愛してはいない」という実感が持てない(というか基本的に持ちたくない)為に「残酷だ」という表現で相手をなじってみたくなるだけなのではないだろうか。
ということは、その残酷さはつまり「わたし」だけにとって残酷であって一般的に残酷にはならず、結果相手の人にとっては残酷なことをしたという思いすらないのかもれない。
私がかつて「残酷だなあ」と思った何人かの人は皆、ハッキリ言ってその「残酷さ」というものにまったく気がついていなかった。
そうなると結局のところー私はことごとく愛されていなかった。と結論づけられるではないか。
これは至極くやしい、というかやるせない。もちろん、私としては納得がゆかない。
だから別の感情の選択肢をつくる。
あの人は「残酷な人」なんだ、そうだ、そもそも残酷な人なのだと。
あるいは「彼は可哀想な人なのだ。」人を受け入れることが難しく、それを他者への攻撃としてしか表現できないのだ、と。
と、考えていくとその愛における「残酷性」なんてものはあまり論理的でないとは思いませんか。
まあ、別に感情が論理的である必要なんかないわけだけど、結構勝手なことを思っているなあ、とと我ながらよく思ったものだ。
そんな風な身勝手な感情に縛られて生きるのもつまらないと思った私は、事前に「相手は私を愛してやしない。」という結論を下すことに慣れ親しんでいった。
すると、なんと哀しいことだろう。なにもかもが色褪せ、世界がとたんにつまらないものに思えてくる。
おい、じゃあ、私はどうしたらいいんだ!
という問いには誰も答えない。
ある人は盲目になり、ある人は孤独になる。そのどちらも嫌だという人には何があるのだ?
すると君は言う。
「あなたは何を根拠に愛を計っているの?」
と。
「あなたを傷つけながら、なおかつあなたを愛しているかもしれないのよ。」
底で僕はまた考え込む。
あなたこそ何で愛を計っているのか?
「簡単さそんなものフィーリングだもの」
その残酷は「なぜこんなにも私の心を傷つけることをするのか」という度合いの強さであってして、客観的にみれば「相手は私を愛してはいないのだ。」と結論づけさせるだけの事象であったりはしまいか。
その「ああ、相手は自分を愛してはいない」という実感が持てない(というか基本的に持ちたくない)為に「残酷だ」という表現で相手をなじってみたくなるだけなのではないだろうか。
ということは、その残酷さはつまり「わたし」だけにとって残酷であって一般的に残酷にはならず、結果相手の人にとっては残酷なことをしたという思いすらないのかもれない。
私がかつて「残酷だなあ」と思った何人かの人は皆、ハッキリ言ってその「残酷さ」というものにまったく気がついていなかった。
そうなると結局のところー私はことごとく愛されていなかった。と結論づけられるではないか。
これは至極くやしい、というかやるせない。もちろん、私としては納得がゆかない。
だから別の感情の選択肢をつくる。
あの人は「残酷な人」なんだ、そうだ、そもそも残酷な人なのだと。
あるいは「彼は可哀想な人なのだ。」人を受け入れることが難しく、それを他者への攻撃としてしか表現できないのだ、と。
と、考えていくとその愛における「残酷性」なんてものはあまり論理的でないとは思いませんか。
まあ、別に感情が論理的である必要なんかないわけだけど、結構勝手なことを思っているなあ、とと我ながらよく思ったものだ。
そんな風な身勝手な感情に縛られて生きるのもつまらないと思った私は、事前に「相手は私を愛してやしない。」という結論を下すことに慣れ親しんでいった。
すると、なんと哀しいことだろう。なにもかもが色褪せ、世界がとたんにつまらないものに思えてくる。
おい、じゃあ、私はどうしたらいいんだ!
という問いには誰も答えない。
ある人は盲目になり、ある人は孤独になる。そのどちらも嫌だという人には何があるのだ?
すると君は言う。
「あなたは何を根拠に愛を計っているの?」
と。
「あなたを傷つけながら、なおかつあなたを愛しているかもしれないのよ。」
底で僕はまた考え込む。
あなたこそ何で愛を計っているのか?
「簡単さそんなものフィーリングだもの」