親愛なる日記

僕が 日々見つめていたいもの。詩・感情の機微等。言葉は装い。音楽遊泳。時よ、止まれ!

京都 八文字屋の混沌

2008年09月29日 | 好きな映画や本など
そういえば、先日訪れたBarの店主が、そういえば京都の八文字屋に行ってきましたよ。というので、ふと懐かしい気分になって紹介してみる。

京都・八文字屋と言えば木屋町に昔から続いている知る人ぞ知る、知らない人は永遠に知らないカルトなお店。

店内は大学の部室がそのまま店になったようなカオス(ケィオス)が広がる。

店主は写真家のカイさん。


僕がこの店に初めて訪れたのは高校の修学旅行で京都に行ったときだった。

夜、仲間とホテルを抜け出して、恐る恐るお店に入ると、この写真そのまんまな風景が広がっていた。

昨今のエレガント趣味な方方はこんな店絶対入らないんだろうな。

でも少なからずこの世界に存在するマイノリティーにとってはまさに楽園と言える。

僕は恐らく後者、あなたは?

という訳で、たまには京都にでも行きたいなり。


送信者 日記用おぼえがき


追記。

店主の甲斐さんがなんだか賞をとったそうで、日経新聞に載ったよ。

ポニョのトンネル見つけた!

2008年09月28日 | ささいなこと
近所に怖~いトンネル発見しました。

なんだか、その様子があまりにポニョのトンネルっぽいので撮影。
送信者 ポニョのトンネル



雰囲気ありすぎです。

怖いけど少しだけ中に入りました。
送信者 ポニョのトンネル


車一台がなんとか通れるぐらいの幅でコンクリの障害があります。

で、もっと中に入ると…
送信者 ポニョのトンネル



怖いす。

こんなところで隣の女の子が半魚人になっていったら、嫌ですね。

ディスカバリーな一日

2008年09月28日 | 出来事
昨日は甥っ子と二人で焼津にあるディスカバリーパークへ。
送信者 ディスカバリーパークの日


かねてから行ってみたかった子供の為の科学館。名前がいいよね。ディスカバリ。この手のものは長野の佐久にある佐久子ども未来館以来だな。

で、中に入ると子供ごころをくすぐる装置があるわあるわ。


送信者 ディスカバリーパークの日


これよく見ると水滴が浮いています。雨粒を見る装置なんですね。下から風が絶妙な強さで吹き上がっているわけです。
送信者 ディスカバリーパークの日


なんだか綺麗ですね。

そして、巨大な天文台を見学。



覗き込んでる女の子はたまたま見学会にいた子です。この年頃の子はみんな無邪気ですね。



これは台風の発生する様子をドライアイスを使って説明する装置。
もっと凄い台風作ってくれるのかと思ったら意外に地味でした。






送信者 ディスカバリーパークの日


夕暮れ前の屋上にて海を眺める甥っ子。




この時期の空はいつもと少し違ってアーティスティック。



屋上に出るときには本当に柵すれすれを飛んでいた鳶。

メーヴェのように風を操って飛ぶ様子は、雄大でした。

その夜は友人と酒を飲みに久々街へ。
送信者 ディスカバリーパークの日


入ろうと思っていたBARの横のビルがなんだかいい味でてます。

名前をみると桃太郎ビル!!

送信者 ディスカバリーパークの日

凧、空にぷかり

2008年09月21日 | ことばの避難所
もう少し付け加える。追記だ。

短い文章、僕がいつも書いているような、投げっぱなしなやつは、言わば一枚の写真をトリミングする行為に似ていると思う。

周りの風景や写りこみを削り、僕の感覚で言いたいことやら、とくに言いたくもないけれど面白いと感じるフレーズをそのフレーズだけ切り取っていく。

いつか、全体として意味をなすかもしれないけれど、そこだけ取り出してもあんまりわからないかもしれない。


まあ、言い訳かもしれないけれど。


そもそも僕のこうした語り口を、誰の為に書いているのか正直今よくわからない。

言葉はその意図を失ったとき、すでに糸の切れた凧のようにどこにゆくか知れない。

ぷかり、ぷかり。空を漂うばかり。





嘘とそうでないもの

2008年09月21日 | うたかたの日々
いろいろ書き飛ばすことにして


僕達はある山の中の、あるBARのカウンターにおり、そこでは青い服の女の子が僕らに上等なウイスキーのテイスティングをさせてくれるという。

残念だが、君らに顔をお見せすることはできない。

BARには似つかわしくない太陽の香りが漂う、ボウモアが好きな人だった。


話を、こんなところから始めてしまって、一体何を言っていいやらよくわからないけれど、

つまり、僕が思うことは

記憶など、実に都合がいいものだなあということ、かな?



僕は写真が好きだ。


でも、僕が写真を撮ることは、記念ではなく、僕の都合の良い記憶を残すことなのかもしれない。

写真は嘘をつく。

一方で写真は嘘ではない。


その認識の乖離が僕の中でとてもシュールだと感じている。


Itunes8マーベラス!

2008年09月11日 | 音の景色
Jobs氏またもやりました。

本日発表のiTunes 8で新たに追加されたグリット機能も視覚的に美しいが、新しいブラウジング機能としてのGeniusが素晴らしい。

ユーザーの好みを分析したプレイリストの作成なんて、どうせ…と思っていたがいやいや恐れ入りました。まいりました。

これこそ世界に6500万人いるとされるItunesユーザーの蓄積されたデータの賜物だろうね。

絶句。

さよならシナプス

2008年09月10日 | 男と女
さよならシナプス。さようなら。


先日、奥歯の神経を抜きました。

麻酔の技術が発達したせいか、痛みはまったくありませんが、、自分の一部が失われていく感覚は物悲しい。

一度、自分の歯の神経を医者に見せられたことがあります。

新鮮な薄桃色の細く小さな神経細胞がピンセットでつままれ、目の前でぷるぷると震えている様子を僕は鮮明に覚えています。

かつて僕の一部であった神経細胞よ、さようなら。

僕に痛みを教えてくれた細胞。

僕を支えてくれた細胞よ。

僕はできることなら君とともに生きたかった。我慢もした。

でも、結局はその痛みに耐え切れなかったのだ。

医者は言う。もう少し我慢できないのか、神経を抜くのは簡単だけど、もう二度と戻らないんだよ。


看護師の女の人は言った。こんな状態で我慢している人はなかなかいないよ。そりゃそうさ。僕だってできることなら失いたくはない。

しばらくの思考の後、僕はやはり神経を抜く決心を彼女に告げる。



人には本当に無数の決断するタイミングがある。

そして、その多くを、考えてみれば他人任せにして生きていることが驚くほど多い。その結果、決定的な判断すら他人任せにしてしまいたくなるのが人情である。そう感ずることが多い。

だからこそ、いざ、重要な判断。それが自分の人生に関わる大きな事柄であればあるほど人は困惑するのだ。私が私自身が判断をせねばならない。その事実に人は困惑する。

私は困惑し、そして決断を下す。

それは正しい判断であったか、わからない。

無数のありえたかもしれない結果は、所詮、無数の夢想に過ぎず、人は自らの通った道しか覗き見ることはできない。

そして、判断など、時の過ぎ行くままに変質を続ける。


不毛だ。

けだし、人は選び、生きなければならない。

さよならシナプス。

さようなら、僕の片隅。

黙祷

2008年09月01日 | ことばの避難所
一年のうちに何度かは、振り返り、思い起こしておくべき日付けというものがある。そんな日付に、果たして時(とき)は- 季節のように繰り返すものなのだろうか、誰も知るところではないが- 人は関わりながら生きていくのである。私もそうだ。

そんな訳で静かな休日を過ごした。

夕暮れには秋刀魚を焼きたかったけれど、やはりそんな日取りでもなかろうと思い鮪を生姜と漬け込んだものを焼いて食べた。

今や、そう安くもない秋刀魚を思い、鮪を食べた。

私の頭に浮かび、消えていく秋刀魚は、かつて私の脳裏に起こり、過ぎ去っていった-あるいは、いつまでも痕跡を残した-いくつかの過去に似ている。

でも私は鮪を食べ、そうして生きている現実を思う。

ああ、秋刀魚、ごめんよ、秋刀魚。

だって、今日はそういう日なんだよ。